アイザック VS 襲撃者
アイザックは強くなっていた。
確かに肉体はアッシュやガウェインのように魔術的な強化は受けていない。
だが、悪魔との絶望的な戦いから生き残ったことで飛躍的にその能力を伸ばしていたのだ。
感覚は針のように鋭敏に。
判断は雷のように速く。
精神は鉄のように頑強になった。
アイザックは背後から何者かの気配を感じた。
後方を確認はしなかった。
アイザックは無言でオデットを抱き上げる。
そのままお姫様抱っこしたまま全力で走る。
オデットは軽かった。
学生時に数十キロの装備を持って山道を行進する訓練を受けた経験が役に立ったのかもしれない。
アイザックは走った。
全速力ではない。
長く走り続けるためにはペースを守る必要がある。
女性一人分の重さが加わったことで膝が悲鳴を上げる。
だがそれでもまだ限界は迎えていなかった。
「あ、アイザックさん! う、後ろ!」
オデットが叫んだ。
(大丈夫だ。まだ死なない)
それは確信だった。
「きゃーッ!」
オデットが悲鳴を上げ、アイザックは背中に冷たい感触を感じた。
次に棒で殴られたような衝撃が体を打ち付けた。
どろっとした熱いものが背中に垂れる。
それが汗ではないことをアイザックはわかっていた。
遅れてじんじんと背中が痛んできた。
だがアイザックは傷を確認しなかった。
(問題ない。痛いだけだ。筋肉は動く。切れたのは皮だけだな)
後ろからド、ド、ド、ド、という何者かの足音が聞こえる。
(足音が重い。回転数も少ない。それに蜘蛛たちはそんなに長く走れない)
アイザックはクリスタルレイクにいる間、蜘蛛たちと話していた。
蜘蛛たちは真の姿では長く走ることができない。
持久力がないのだ。
蜘蛛たちが言うところでは持久力においては虫より人間や動物の方が優れているのだ。
だからアイザックは持久力に賭けた。
相手がタヌキなら逃げ切れないだろう。
それどころかカラスだったら瞬殺されていたに違いない。
だがアイザックは相手が蜘蛛や芋虫みたいな連中だと確信していた。
最初の殺気。
それがカラスやタヌキたちと質が違ったのだ。
もっと無機質な殺気だった。
おそらく蜘蛛や芋虫のようなタイプだ。
アイザックは確信していた。
ド、ド、ド……
足音が遠ざかっていく。
かなりきわどい賭けだったがアイザックはそれに勝利した。
そのまま振り返りもせずアイザックは小船まで走る。
「下ろすぞ!」
そう言うとアイザックはオデットを投げ捨てる。
オデットは「きゃッ!」と小さく悲鳴を上げ砂浜に尻餅をついた。
「アイザックさん」
「とりあえず逃げろ! 俺はここで食い止める」
アイザックは剣を抜いた。
「アイザックさんも一緒に逃げましょう! け、怪我してるんだし」
「ダメだ! 海の中の方が機動力が高い。ここで食い止める」
実際、背中の傷は浅かった。
動くにはなんの支障もない。
音が聞こえてくる。
ド、ド、ド、ドと音がするたびに空気が揺れる。
「わかりました。足手まといにならないように一端離脱します!」
「そうしてくれ!」
オデットが小舟で離脱すると、足音が近づいて来た。
アイザックは小さくつぶやいた。
「やっぱりかこの野郎」
それは予想通りの姿だった。
ちょっとした小屋ほどの巨大なヤドカリがアイザックを追ってきたのだ。
アイザックは深く呼吸をする。
そして神経を研ぎ澄ませる。
殺気は伝わる。
だがそれは、あくまで普通の生き物の殺気だった。
つけいる隙はいくらでもある。
飛び出してぎょろりとした目でヤドカリがアイザックを見た。
次の瞬間、ハサミが振り下ろされる。
アイザックは絶妙なタイミングで、関節部分を剣で斬りつけた。
ハサミは大きく弾かれる。
(カウンターでも斬れねえか……だが動き……予備動作は蜘蛛たちと同じだ)
アイザックは負けず嫌いである。
それはそれは病的なほどに。
見た目はチャラ男のクセに中身は雄々しいのである。
そんなアイザックは悪魔戦からずっと蜘蛛たちと組み手をしていたのだ。
そんなアイザックは確信した。
(勝てる!)
6割ではない。
確実に勝てると確信した。
なぜなら……
(ただのでかいヤドカリだ。悪魔じゃない)
武術を極めた芋虫よりは楽な相手だ。
山のように巨大なイノシシでもない。
だったら勝てないはずがない。
アイザックは笑っていた。
そんなアイザックの気に飲まれたのか、ヤドカリはアイザックへ向かいメチャクチャにハサミを振り回した。
それをアイザックは正確に、そして渾身の力で弾く。
その全てが外骨格の関節部分へ直撃する。
その衝撃にヤドカリの動きが鈍る。
(蜘蛛たちと同じだ。関節が弱い)
さらにアイザックは脚部に目がけて剣を振り下ろす。
斬れない。
全て弾かれる。
だが確実にヤドカリの動きは鈍っていった。
その時だった。
アッシュの側にいなかったせいだろうか。
ここでアイザックは運に見放された。
どこかの高名な貴族が金を湯水のように使い、高名な鍛冶職人に作らせたミスリル銀の剣が折れた。
いや、ちぎれた。
ぽっきりと根元から剣がちぎれたのだ。
アイザックは鼻で笑い剣を投げ捨てる。
ヤドカリは目をぐるぐると動かした。
好機と思ったのかハサミを振り上げる。
「絶体絶命……って思うだろ?」
アイザックは構えていた。
剣ではない。
アイザックは武器庫から無許可で借用した短銃を密着しそうな距離で構えていた。
火打ち石内蔵型の短銃の撃鉄が落ち火花が発せられる。
火花は火皿に入り火薬に点火。
一瞬遅れて激しい爆発と音を発しながら弾が発射される。
その光と音、そして弾はヤドカリの顔を直撃する。
ヤドカリの動きが完全に止まる。
それは短い時間だった。
ヤドカリは予想よりも硬かった。
ここまでやって致命傷はなかった。
だがアイザックはそれを予想していた。
だから全ては次の攻撃に繋げるための布石だった。
アイザックは懐から受け取ったとっておきを出す。
火をつけ、ヤドカリの体の下に転がす。
次の瞬間、ヤドカリはたまらず殻の中にこもろうと体を丸めた。
守りに入ってしまったのだ。
それが致命的だった。
火のついた爆弾が体を丸めた瞬間、爆発した。
ヤドカリは吹き飛ばされた勢いでゴロゴロと転がる。
同時にアイザックにさんざん傷つけられた足やハサミが宙を舞った。
「よし、勝ったぜ……」
アイザックはその場にへたり込んだ。
思えばクリスタルレイクでの生活は楽しいが死の危険も多かった。
大の男が見た目や殺気だけで気絶させられ、気がついたら悪魔とまで戦った。
今回だって逃げ帰っても生き残りさえすれば勲章ものの相手だろう。
それをアイザックは一人で倒したのだ。
自分を褒めても許されるはずだ。
そうアイザックは思った。
そして急に気になった背中に手を回す。
ドロっとした血の塊が手に付着した。
固まってきている。
やはりたいした怪我ではなかった。
「次は悪魔とのタイマンに勝つのが目標だな……」
アイザックはブツブツと独り言を言った。
アイザックの向上心はとどまることを知らなかった。
なにせ騎士団で二番目を目指していた男は、騎士団トップになったのだから。




