2 友人との再会、そして事件へ踏み込む
…遅いなあ。
スーツケースに腰掛けた男は腕時計を見る。もう何度目だろう。約束の時間から、もう既に三十分は経っていた。
火星の宇宙港がこんなに混み合うものだとは、さすがに彼も予想していなかった。待つにしてもベンチの空きは既にない。特に彼のように、人を押しのけてまで席を取るのは論外、と考えている者にとっては。
とはいえ、この日の待ち合わせ相手達が、まともに時間を守ってくるとは思えなかった。
昔からそうなのだ。時間を守るのは自分で、だいたい相手は遅れてくる。悪い悪いと笑って謝るのは向こうで、仕方ないな、と苦笑するのは自分なのだ。
相変わらずだな、と彼は苦笑する。そしてふう、とため息を一つ。
本当は、地球を離れるつもりはなかった。
生まれた惑星。育った惑星。思い出は有り余る程ある。そして仕事も、今の所不自由はしてはいなかった。
地球でそのように職に困らない、というのは現時点においては、なかなか優秀なエキスパートであることを意味する。実際彼は、ある部門におけるエキスパートだった。
だが出国する際の名目はそうではない。その職は、なるべくだったら隠しておきたいものだった。これから会う友人達のためにも。
ざわざわと、座り込んだ彼の前を、様々な言語が通り過ぎていく。地球のどんな駅、どんな空港でも、こんな雑多な言葉が一度に過ぎていくことはない。彼はそれを耳にしながら、自分がずいぶんと遠くに来てしまったことを実感した。
そして再び時計を見る…
「…よぉ藍地、すまんすまん、遅れたな」
「ごめん藍ちゃん、待った?」
種類の違う低い声が二つ、頭上から響いた。彼が顔を上げると、懐かしい顔が、並んでいた。彼はその中の一人にさっと視線をやると、にこやかに笑いかける。
「待ったよ。何かあったの?ハル」
「ちょっとね」
「トラブルに巻き込まれちまってなー」
「トラブル?」
藍地と呼ばれた彼は、露骨に嫌そうな顔になる。そして次の瞬間、がく、と肩を落としてため息を大きくついた。
「どしたの?」
「…あのなー… 何で俺がこっちまで来たと思ってるのよ」
「んーと」
ハルは朱明と顔を見合わせる。
「まあそりゃ、これから地球に居ては何かとトラブルが起こりやすいから…」
「そぉでしょ。なのにお前ら、ここでもトラブル引き起こしてる訳?」
なかなか悲痛な旧友の声に、どぉしたものかな、という表情でハルはその場にかがみ込む。
「別に起こそうと思って起こした訳じゃないよ」
「起こそうと思って起こされてたまるかよ…」
藍地は顔を上げる。目の前には、いつになつても変わらず綺麗な友人の顔があった。悪いとは思っているらしいが、彼が思うような深刻さはない。そりゃそうだ、と藍地は思う。彼等にとって本当に深刻なことなど、一つしかないのだから。
果たしてそれに気付いているのかどうかは知らないけれど。
「…ごめんなー。でもちょっと藍ちゃんにも協力して欲しいんだけどなあ…」
んー、と藍地は大きく眉を寄せた。
*
とりあえず、ということで、帰宅した彼等はまだ開店前の店の方へと客人達を案内した。
カーテンを閉めた店内は暗い。灯りをつけても本を読むにはちょっとばかり苦しい程度の明るさしかない。
何か呑む? とハルはカウンターに入ってグラスを一度に幾つか手に取る。
案外器用だな、と丸い椅子にかけた藍地は意外に思う。しかしその様子を見て、このこぢんまりとした店の経営分担がよく判ったような気もした。
「あまり藍ちゃんは強くなかったよね」
「あ~ アルコールは最近やらないんだ。やっぱり身体が資本だからさ、俺」
「それとも歳か?」
座らずにカウンターにもたれながら、朱明は煙草に火をつけた。
その音を聞きつけて、ハルはちら、と朱明に視線を飛ばす。はいはい、と彼はファンの回っている方に移動し、背もたれのある椅子を一つ引きずり出すと、逆向きにかける。
こういうところも変わらないのだ、と藍地は感心する。ハルは自分自身が吸っていた頃も、人の煙が来るのは嫌いでよくこの相方を追っ払っていた。相変わらずだな、と。
そしてそう思いながら、彼は道中ずっと気になっていたことを、ようやく口にする。
「…ところでお前ら」
何、と性質の違う低い声がユニゾンになる。
「この子、知り合い? 紹介してよ」
んー、とハルは軽く両眉をつり上げる。はん、と藍地は丸椅子をくるりと朱明の方に向けた。はい、とハルは藍地の前に冷やした中国茶をとん、と置く。
汗をかいたグラス。何やらほんのりといい香りがする。
「お前の知り合い?」
「んー… 知り合いというかなー…」
どう言ったらいいものかな、と朱明は眉を寄せた。
「正確に言えば、知り合いの花屋の娘、なんだけど」
「俺もそこんとこ聞きたい。言ってよ」
ハルまでが追い打ちをかけてくる。眉間のシワはよけいに深くなった。朱明は腕を伸ばし、灰皿に半分まで吸った煙草を押しつける。
「んー… 何って言えばいいのかなー…」
「すみません、あの… わたしのために…」
その時、助け船のように少女の声が響いた。藍地は自分の横に座っていた少女の方に身体を向けると、改めてしげしげと見つめる。
最初から藍地は可愛い子だな、と思ってはいた。
黒い、柔らかそうな髪がまっすぐ流れ、肩くらいまで伸びている。だいたい同じくらいの長さの髪が、切り揃えた部分以外の前髪だけ後ろに回して止められているように彼には見えた。
顔立ちは整っているが、整っているゆえの強烈さとは無縁に見えた。そのあたりが、このカウンターに立つ友人の整い方とか、奇妙なバランスを取りつつ強烈な印象を残す朱明とは違うところだとも。
比べるのも何だが。
「キミのせいじゃないよ。コトバを時々探しにくくなるこいつが悪い。自分のしたことには自分で責任取れっていっつも言ってるくせに」
カウンターの中からハルは彼女の前にも飲み物を置いた。色は同じだが、香りが微かに違う茶がそこにはあった。
「…違うんです。あの…」
少女は顔を上げる。その拍子に前髪がふっと動いた。おや?
ちょっとごめん、と藍地は少女の前髪をかき上げた。少女の身体はつ、と避けようとする。
「あ、ごめん…」
「いいえ… あの…」
「そうか…」
藍地はゆっくりとうなづく。彼女の額の脇には、髪に隠れて、プレートがあった。ちら、と見た認識コードのアルファベットの組み合わせはメカニクルのものだった。
「…判ったろ? んー… つまり、この子は花屋のマスターの娘役、だったんだ」
「へえ。じゃ君、ちゃんと可愛がってもらっていたんだね。名前は?」
藍地は穏やかな口調で問いかける。ハルは無言のまま漂白剤に漬け込んでおいた皿を、そのまま洗浄機に入れるという作業をしていた。
怒っているな、とそれを見ながら朱明は思い、はあ、とため息をつく。そしてそんな彼等には構わず、藍地は彼女に質問をしていた。
「シファ、と呼ばれてました。本名は、SPH-506631」
「可愛い名だね」
藍地はそんなことを笑顔でさらりと言う。朱明は何となく背中がむずがゆくなるのを感じた。
「マスターの話では、紫の花という意味だと」
「ああ、そういう読み方をする所の人だったのか」
「ええ。ナンバーでは呼びにくいから、と」
「そう… ところで君は、ずっとマスターの所に居たの? 最初から」
「ええ。最初から、です。ずっとわたし、マスターのところに居ました」
なるほど、と藍地はうなづいた。
何がなるほど、なのだろうかと朱明は思う。そして幾つかの他愛ない質問を彼は続ける。何せ彼は、その道のエキスパートなのだ。
旧友の藍地は、十年程前から、レプリカントやリアルタイプのメカニクルのチューナーとして、幾つかの会社に引き抜かれていた。
ちょうどその辺りから、彼等はお互いの生活に忙しく、そうひんぱんには会うことは無くなっていた。
それは四年ほど前、彼等が火星に出てしまってからは、直接会うことはまず無くなってしまった。彼等は地球に用事はないし、藍地も仕事以外で火星に来ることはない。たまたま来ることがあっても、忙しい藍地は彼等に会う暇も取れなかった。
ハルがどう思っていたかは判らないが、朱明は実際のところ、藍地とそう積極的に会おうとしていたことはない。
無論嫌いではない。長い馴染みの旧友なのだ。会えば楽しい。共通の記憶もある。その時辛かったことがあったとしても、現在がそれなりに幸せなら、それは十年という月日の中では、懐かしい話に変わる。
―――現在が幸せでなかったら、それは恨み言にしかならないが。
恨み言にならない現在を、朱明は少しばかりくすぐったく思う。なってもおかしくはなかったはずなのだ。結局自分は彼から今の相棒を取ってしまったようなものなのだから。
そしてそのまま地球と火星、両方にまたがって、それでもお互いに平和に過ごしているつもりだった。
だが。
「なるほど」
思考がさえぎられる。朱明ははっとして藍地とシファの方に顔を上げた。
「じゃあ最後に一つ聞いていいかい?シファ」
「はい」
「君は、花屋の主人の『娘』ではないね?」
どういう意味だ、と朱明は思う。はい、とシファはうなづく。
「君は、彼の若い頃からのパートナーだったんだろう?」
再びシファははい、と答える。
ちょっと待てよ、と朱明は目を大きく見開く。娘じゃなく…
「どういうことだよ藍? 娘じゃなく… って」
「いや別に。だから、若い頃からのパートナーだって。ナンバー聞いた時からそうは思っていたけどね」
つまり。彼は藍地がはっきりとは言わない言葉の意味を考える。パートナー。つまりは、人間だったら、愛人にあたるもの。
「朱明さんが驚くのも無理はありませんわ」
シファは目を伏せる。本当に、人間の「娘」と言われたところで納得してしまう程、彼女は実によく作られていた。実際朱明も、花屋のマスターから彼女がメカニクルだと言われるまで、気付かなかったくらいなのだ。
精巧なメカニクルやレプリカントは、人間とはまず見分けがつかない――― 彼の相棒と同じように。
彼の相棒はレプリカントだった。その身体も、レプリカントたる頭脳、HLMもそのものである。
ただ中に在るのは、人間の何か、なのだ。
各地にあまた居るレプリカント・チューナーだったら絶対に信じないだろうが、かつてある事件で、人間としての肉体を無くした朱明の相棒は、自分と同じ姿のレプリカントに入り込んでいるのである。
現在の身体は、特注物であるため、ナンバーは打たれない。管轄外である。そしてその元々のハルの肉体自体の死亡も外部には知られていないことから、彼は「人間として」そこに居る。
危険なことではある。いくら中に人間の心がある、と言ったところで、目に見える身体は、作り物でしかないのだ。
どれだけ精巧なものであったとしても、生身の人間では、ないのだ。
レプリカントは、歳を取らない。
歳を重ねることのない身体は、ひと所にはいられない。いくら何でも、二十歳にならない外見の人間が、十年歳を全く取らなかったら、それは化け物だ。
だから彼等は、点々と住処を変えた。移動につぐ移動。二人ともそれは性に合っていたから、それは苦ではなかった。種類を選ばなかったら、それなりにそこで仕事をすることもできた。長居する訳ではない。だったらそれにふさわしい仕事を気楽に。
だが、彼等がどうであろうと、どうやら世界はそうはいかなかったらしい。年々増え続けるレプリカントや精巧なメカニクルが、ほんのわずかながら、おかしな動きを見せ始めた。
平たく言えば、人間との恋愛沙汰である。
シファは続けた。
「わたしはマスターがまだ地球に居た頃、引き取られました。当時マスターは三十代で… 奥様を亡くされた頃でした」
淋しかったのだろうか、と朱明は思う。
「だけど別段、それから二十年は、わたしもただのメカニクルでした。何も考えることはなく、ただ求められることをマスターにして、穏やかな日々でした。だけど」
「だけど?」
カウンターの中から、ハルが不意に訊ねた。
「十年ほど前から、何かわたしは狂い始めました。わたしはただそこに居る、というのだけではなく、そこに居たいのだ、と感じ始めたのです。他の誰でもなく、マスターのために」
「何で?」
またハルの声が飛んだ。
朱明も藍地も、やや困ったような表情でお互いの顔を見合わせる。シファはそれには気付かない様子で、続ける。三十年だ二十年だ、という言葉は似合わない、少女の顔で。
「ちょうどその頃、わたし達は火星に移ってきました。そしてここに花屋を開いたのです」
「…第二期の移民船?」
藍地は首をかしげる。
「ええ。一番こちらへ向かう希望人員が少なかった時です。希望すれば確実に外へ出られましたから…」
「ということは、出なくてはならない理由があった?」
朱明は彼女の言葉を先取りする。予想がつく。ひどく簡単に。だってそれは。彼女はうなづく。
「君を抱えていたから?」
いいえ、と彼女は藍地に向かって首を振る。
「それもあったのかもしれません。だけど、マスターが地球を出たのは別の理由です」
「と言うと? シファは追われていた、それに関係あるのか?」
藍地は弾かれたように朱明に視線を向けた。
「追われていた?」
そぉだよ、とハルは皿を出しながら代わりに答えた。
「…おかげで俺までカーチェイスの主人公になってしまったわ… まあそれはいいけどな…」
すみません、とシファは頭を下げようとした。するとハルはそれを見て皿を持ったままの手で制する。
「別にいいんだそれは。ただ、何で追われていたか、は俺も知りたいんだ。俺は聞きたい」
「でも危険です」
「あんだけのことさせといて、今さら危険も何もないだろ。それに危険に勝手に巻き込んだのは、シファじゃない。こいつ」
そう言ってハルは自分の相棒を指した。
「巻き込んだお礼はこいつにするからいいの。でも巻き込まれたからには、何がシファの敵さんなのか知らないと、動きが取れない」
相変わらずの言いぐさだ、と藍地は頭を抱えた。
それは当の相棒も同じはずだが… さすがに朱明は明後日の方向を向いていた。
藍地はそれを見ながら、さすがだ、と思う。
確かに自分もかつてこの綺麗な友人に思いを寄せていたことはあったが、ずっと一緒に居るのはやはり無理だろう、とほんの時折会うこの二人を見るたび思うのだ。
そしてハルは重ねて問う。
「マスターの話を君はするけど、その当のマスターは、どうしたの?」
シファははっとして顔を上げた。ぶるぶると、膝についた手が震え出す。ハルの視線はそれを捉えている。それに気付いているようだ、と藍地は思う。
「君はずいぶんこっちの色んな質問に答えたけどさ、君の言うことには、何か足らない。それとも、俺が言ってもいいの? 君の大事なマスターは…」
「止めて下さい!」
彼女は大きく頭を振った。それを見ていた朱明も、それが何であるのか、は薄々気付いていた。
店は閉じていた。そう、もう二度と開かないかのように。




