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1 火星にて二人、メカニクル少女を助ける羽目に

 夢を見た。

 闇の中に、桜が咲いている。

 花びらを散らしている。ゆっくりと。

 音もしない世界の中で、静かに、降り注いでいる。


 ―――だがよく考えてみれぱおかしい。


 ここが闇ならば、桜すら見えないはずじゃないか。

 足下すら見えない。自分は黒い服を着ているはずだから、それは特に。持ち上げたその手の、指先すら見えない。ここに自分が居るのかすら、判りもしない。

 なのに、それだけが、浮かび上がっている。

 何処から光が溢れているのかも判らない。そしてそこには影がない。ぼんやりとした白い光の中、その木はただそこに在り、花はただ降り注いでいる。


 ―――こんな夢には覚えがある。


 それは奇妙に実感を伴った夢で、目に映るものの色や形だけでなく、頬に額に、むき出しの腕に触れる空気、足元の柔らかで冷ややかな土の感触まで、一つ一つがそこに確かに在るもののように感じられる。

 覚えがある。

 こんな感覚に、確かに自分は覚えがあるのだ。


 ―――いや似た物は知っている。


 だがその時には、花だけでなく、辺りに光が満ちていた。

 あの真昼の夢は。


 ―――そして目を覚まして、安堵する。



 目を開けた時、やはりそこは闇だった。

 彼はふと不安になり、ゆっくりと身体を起こした。そして不機嫌そうな表情で、解いたままの長い黒い髪をかき上げる。

 ブラインドのすき間からぼんやりと漏れる遠くの街の灯りが、ここが夢の中でないことを彼に知らせる。彼は安堵し、視線を下方に落とした。

 そこには光が届かない。だが確かな質量を持ったものが、そこには在る。それは感じられる。触れるか触れないかばかりに近づいた、自分よりはやや低い体温の身体。規則正しく繰り返される呼吸。呼応して動く背。

 それでもふと不安になって、彼は相手の頬に触れてみたいような衝動にかられる。

 だがその指は、その上で止まり、やがて彼の眼下にと戻された。彼はしばらくその手のひらをじっと見つめる。闇に慣れてきた目に、次第に手は実感を取り戻すかのように見えた。

 触れてみたい。今この場にこの相手が居ることを、確かめてみたい気持ちはある。

 それは彼に不意に襲いかかる不安でもあった。こんな夜、この隣に居る相手が、ふと消えてしまったら。

 だが、この眠りを覚ますことは、ひどく悪いことのようにも思える。その戸惑いが、彼の手を止めさせる。

 だが。


「…何」


 低い声が、彼の耳に届く。ついていた腕に、指が絡むのを感じる。


「起こしちまったか」

「…横でもぞもぞされてりゃ、目ぐらい覚める」


 乾いた、だけど絡み付く声。彼はその声に促されるようにして、再び身体を夜具の中に滑り込ませる。相手の身体に触れる。


「…ああ確かに、居る」

「何言ってるんだか」


 重力の無い声が、絡み付く。彼は相手の身体にそのまま、腕を絡み付かせる。


「眠いんだから、うっとぉしいじゃないか、朱明…」

 重力の無い声が、絡み付く。


   *


「だいたいなあ? 何でお前、お出かけにそそんなに時間かかる訳?」


 運転席から、実に不機嫌そうな声が飛ぶ。


「別にいつも代わり映えしない格好なのになぁ。黒ばっか黒ばっか黒ばっか」


 無言。


「それに別にキレエなおねーさんに会いに行く訳じゃないんだよ? なーんだってお前、そんなに時間ばっかりとるの」


 さらに無言。


「聞いてるのかよ朱明?」


 だがしかし、さらに無言。

 マニュアル運転でよそ見するのは事故の元。それは判ってはいるので、彼はハンドルをオートに切り替えた。放っておいても、中央管制塔が死なない限り、この都市では車はちゃんと命じておきさえすれば、目的地に着く。

 そして彼は視線と身体を助手席の男の方へ向ける。案の定、相棒は、また夢の続きに入ろうとしてた。

 形の良い眉が片方、ぴくぴくと動く。

 無言のまま、彼は無造作に車内に落ちていたスリッパを拾った。

 そして次の瞬間、それがひらりと空を切った。

 ぴしゃん、と見事な音がして、薄っぺらいスリッパは、朱明と呼んだ相棒の、ひろいおでこに命中していた。


「でっ!」


 声が上がる。さすがに相手も飛び上がるようにして跳ね起きる。長い、鬱陶しい程の黒い髪を揺らし、朱明はシートから勢いよく上体を起こす。そして自分の額に貼り付いたままのものに気付くと、目の前の相棒の瞳に負けず劣らずの不機嫌そうな表情を返す。


「…あのなー… ハルお前ねー… いくら何でもそれ投げつけることは無いでしょ」


 朱明はスリッパをぴらぴらと振る。

 だがハルと呼ばれた相棒も負けてはいない。彫りの深い大きな目を半ば呆れたように閉じながらも、残った片方のスリッパもぴらぴらと振ってみせる。


「ふん。寝汚いお前が悪い。俺ら今から何しに行くか、お前知ってるんか?」

「宙港へ藍地君をお迎えでしょ」

「それだけか?」

「それだけか、って何かあったっけなー…」


 朱明は濃い眉を寄せ、顎を抱えて考え込む。と、スリッパの片割れが、また空を切った。

 さすがに今度は朱明も片手で受け止めたが、溜め息をつかずにはいられなかった。相手は明らかに怒っている。だがその理由がどうも彼には思いつかないのだ。

 昔馴染みの友人を迎えに行く。他に何かあったか?


「あった」


 そんな朱明の疑問を読んだようにハルは繰り返す。

 ああこりゃやばいな、と朱明もさすがに思う。こういう時の相棒には、謝ったほうが早そうだった。


「…忘れた。ごめん」

「…久しぶりさんだからお花でも買って出迎えてやろうって言ったのは誰だ?」


 ああ、と朱明はぽんと手を叩いた。


「俺だ」

「そ。お前。俺が別に藍ちゃんは花もらったとこでうれしかないだろって言っても、主張したのはお前。忘れるのは老化の始まり」


 さすがにそう言われると、朱明も苦笑せざるを得ない。確かに自分の言いそうなことなのだ。

 尤も彼は、老化老化と言われる程歳をとってる訳ではない。ただ、この目の前に居る相棒は、未だに出会った頃の二十歳程度の姿なのだが。


「藍地の奴って、そうだったっけ?」

「そぉだよ。そりゃ藍ちゃんは、女の子に花あげるのは好きだけどさ。だって好きになったらちゃんとそのお母さんにもあげる程だったじゃないかよ。女のひとは花が好きだからって」

「奴らしいといや、らしいけど」


 実に細々としたことにマメだった旧友の姿が、ふっと浮かび上がる。


「だろ? だけど、別に自分にもらったとこでどーのって、昔言ってたじゃないか」

「だったっけなー」


 そんな昔のことなんて。

 言いかけて朱明はやめた。この相棒は、実に記憶力が良い。彼の好き嫌いに関わらず。そうなってしまうらしい。別に記念日好きなタイプではないのだが。

 では話を変えよう、と彼は思う。


「…じゃつまり、今俺達のこの車は何処へ向かってる訳?俺てっきり、宙港へまっすぐ向かってるもんだと思っていたけどさあ?」

「だからぁ、シティへ寄ってくんだよ。馬鹿」


 なるほどね、と朱明は思う。

 彼が知る限り、ハルはショッピングはそう好きではないはずだ。そもそも人混みというものが昔からこの相棒はもともと好きではないのだ。

 ここしばらくは、それに輪をかけている。

 地球に居た頃は、よく意味もなく車を出して、自然の残っている所へは出かけていったものだった。

 たいがいそういう所には人気も少ない。適当に出かけていって、山の中でぼんやりと空を眺めたり、川遊びをしたり、寒気の中でコーヒーを呑んだり…そんなこともやったものだった。

 だがここは違う。

 ここは火星だった。

 宇宙開発は、もうかなり昔から始まっていたにも関わらず、決定的な人口爆発や環境汚染が起こるまで、植民計画は流れっぱなしだったのだ。

 だがさすがに、ここ近年、ついに重い腰も上がった。

 彼等は数年前から火星に渡っていた。そしてそこで、趣味と実益を兼ねた店をやっている。こじんまりとした、ライヴハウス形式のカフェーと呑み屋の混ざったような店だった。

 そしてこちらに住み着いてから、ハルは「昼」時間、明るい日射しの中に出向くことが少なくなった。日用雑貨や店の材料の買い物といった必要でない限り、まず進んで何処かへ行こうということはしない。

 理由は幾つかある。だが二人がそれを口に出すことは無かった。そして、その理由が、彼等を地球から出させ、この日、友人をまた、この地へ招いた原因でもあった。

 そう。今日は特別なのだ。何せ彼らの古い友人が、とうとう重い腰を上げて、地球から引っ越してくるのだ。


「何時の到着だったっけ」


 朱明はシートの角度をくっと直す。そして右隣に座る相棒が、メモを取り出しているのを眺める。自分より結構低い背。華奢な肩。綺麗な綺麗な横顔。その中の大きな目。短くはしてるが、さらさらとしたやや茶色の髪。

 何年経とうが、それは変わらない。


「何じろじろ見てるんだよ」


 そしてその悪態も。朱明は何となく可笑しくなり、思わずにっと笑ってしまった。ハルは何だよ、とかつぶやきながら、それでも旧友からのメールのプリントアウトを彼に差し出した。

 ふうん、とつぶやきながら、朱明は予定時刻に目をやる。


「最近は地球からの船も速くなったもんだよなあ」

「日進月歩って言うんじゃなかったかなあ?俺らがこっちに来た時とは大違いだ」

「まーなあ… こんだけ火星が発展するなんて、誰が思ったでしょうなあ」


 窓を大きく開け、ぐるりと外の景色を見渡しながら、朱明は感心したように言う。風が車の中に入り込む。既に彼等はシティ…メトロポリスの中だった。

 目的地への指定が細かになってきたので、ハルは運転をオートからマニュアルに変えた。彼は慣れた手つきで、ハンドルを握り…そして溜め息混じりに言う。


「本当は俺が運転するのはいかんと思うんだけどな」

「だけど俺が運転すると、事故るとか言うのはお前だろ」

「雑なんだものお前。俺まだ死にたくない」

「そう簡単に、死ぬかよ」

「そらそーだ。お前ほど悪運の強い奴、俺見たことないからな」


 朱明は太い眉を両方上げると、肩をすくめた。視線を再び、外の景色へ移す。街路樹の緑が、美しい地域に入っていた。するとハルは速度を落とし、不意に口を開く。


「この辺だったよな? 前にお前が行ったっていう花屋」

「何、お前知らないの?」

「俺がどうして知ってるんだよ」


 眉を寄せて彼は言う。それはそうだ、と朱明は思う。ハルは今は花には用は無い。綺麗なものが好きではあるけど、別に特別関心も無いようだった。


「あーじゃあ、次の角を右に曲がって」

「メインストリート? じゃあ結構でかい花屋?」

「いや、どっちかというと、何でこんなことにあるんだろ、っていう感じの…」


 低速度用のレーンに入り、ハルはかなりスピードを落とす。

 いっそここいらで止まって降りて探してもいいくらいだった。だがパーキングエリアに入っていちいち手続きしていると時間がかかる。そういうややこしさが好きではないのは、この二人の共通したところだった。


「お、あれあれ。…あれ?」


 交差点に入った時だった。朱明は目を凝らして、何度か行ったことのある花屋の看板を探した。

 看板はあった。あったが。


「…あれ? 閉まってるじゃねーか?」

「閉まってる?」

「ああ… あ、ちょっと待て」


 何だろう、とハルは相棒の視線を追った。広いメインストリート。車の通りだけで、五車線づつ両方にある。そこを右に曲がる訳だから、時間がかかる…

 ―――のだが。

 そこに彼等は信じられないものを見た。

 何かが、通りを斜めに走ってくる。


「…な」


 ハルは慌てて運転をオートに切り替えた。こんな時にマニュアルにしていて事故を起こしたらたまったものではない。

 メインストリートを、薄青の服を着た少女が駆け抜けている。いや駆け抜けているだけではない。跳ねている。飛んでいるのだ。身軽というのには、それは余りにも人間離れしている。


「メカニクル?」


 ハルは思わずそうつぶやいていた。これは人間の動きではない。自分と同じ…


「…メカニクル? まさかシファ?」


 朱明はそうつぶやくと、サンルーフを開け、そこから身を乗り出した。


「知ってるのかお前!?」


 運転席からハルは声を張り上げる。


「花屋の娘だ!」

「だけどあれは…」

「だけど、娘だ!」


 ハルは言葉を飲み込んだ。頭上で、メカニクルの少女のものらしい名を呼ぶ声が響く。


「どうしたんだよ!」

「朱明さん? 助けて下さい!」


 二つ三つと車のルーフを飛び移りながら、シファと呼ばれた少女は声を張り上げる。


「どうしたってんだ!」

「追われてるんです私! でも捕まる訳にはいかない! お願い! 助けて下さい!」


 少女の声は真剣だった。思わず彼は、声を張り上げていた。


「手ぇ出せ!」

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