僕と先生
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私は薄曇りの中にいる。
君は笑うだろうか?
私は私だが私ではない。いつからか。
ずっとずっと前からか。あるいは今からか。
片目は見えず世界中のものは逆さまだ。
悲しいのだ。
ずっと、ずっと。
答えはどこにもない。
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霧がでていた。
石畳の暗い路地を抜けると小さな雑貨屋がある。レンガと石でできた古い店舗だ。
塗装は禿げ、古びているがアンティークのような趣がある。戸口の手すりは人々の手により飴色に輝いている。
僕はその店に入り小麦粉とドライフルーツ、ヒヨコ豆、それから電球をひとつ買った。
店主が勘定する間に目についた新聞もついでにひとつ。見出しは隣国の油の高騰、他に賄賂で捕まった政治家の裁判に天気予報ete…。
僕は読んだが彼はおそらく読んでいないから。
そう、彼は読んでいない。
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彼の家は雑貨屋から1キロ程離れたリーズムグ街にある。
石作りのマンションや下宿、古びた街並みの中にひっそりと埋もれるルヴォアハウスと言う5階建ての家だ。
その1・2階に彼は住み、他は他人に貸している。
霧で濡れた外套の雫を払いながら戸口のブザーを押した。
帽子も濡れてしまい、整えた髪も湿ってしまった。
ああ…。
覗き窓がフッと暗くなったと思ったらガチャガチャ音がして程なく開いた。
やあ。
おはようございます、先生。
彼、先生はだるそうに僕を中へ入れ、外套をコートかけにかけた。
春先はまだ寒い。
まだ寝巻きのままなんですか?
お使いのもの、しまっておきますよ。
あと、新聞、読んでないでしょ。
ああ。
ああ。
返事はふたこと。
室内は薄いクリームにグレイストライプの壁紙に様々な写真やメモのたぐいが貼り付けてある。家具は猫足の古いものばかりだ。床は本が積んであり全体は雑多な印象だ。まあいつもどおり。
先生は日焼けてくすんだゴブラン織りの豪奢なソファにどかりと沈みこんだ。
少しグレイがかった糖蜜色の髪が胸下まで緩く三つ編みにしてあり、上を向いた拍子に後ろへ垂れた。まだ眠いらしくああ、だか、ううだか、呻いて目を閉じている。
髪、切らないんですか?
ヒヨコ豆を瓶に詰めながら言うとちらと薄目を開けてからやだね、と返してきた。
……どうして切る必要がある、私はこれでかまわない…。むしろ今は暖かい。君も伸ばしてみればいい。
いやです。
今流行りは肩上あたりを黒いヴェルヴェットでまとめるか短くするのが定番だ。
先生みたいな頭は見たことがない。男らしさを繰り返し教育の要に使う僕の親なら絶対許さないだろう。
でも、先生は先生だった。
先生の髪は美しい。あまり見ないその色は薄暗い室内でも輝いて見えた。
ただうつくしかった。