敏腕調査官アトム@構造的創作技法_第03話_転
転
互いに重ねた思考領域へ仮想擬似空間を設けたイプシロンは、プルートゥと共に視覚化されたPS言語の複合体を見上げていた。拳ほどの立方体が無数に集まったPS言語の複合体はポール・フレンチの容疑に関わる資料をテキスト化したものである。
PS言語は一文字に複数の意味を持たせた人工言語だ。イメージとしては音や訓を持ち、また成り立ちや形から差別化された漢字にも通じるメディアであり、一文字当りの容量こそ従来の言語とさほど大きく変わらないものの、テキストとしての構造が与えられたときの情報は比ぶべくもない量を有していた。
仮想擬似空間で視覚化されたPS言語は、通常のテキストを読むだけでは知れないストーリィの把握、且つ膨大なデータ量を持つモチーフの解析に都合が良かった。勿論、イプシロンが用意した≪Latimeria-Thesauros(ラティメリア・シソーラス/通称シーラカンス)≫など専用ツールの高い分析能力も必要となる。
が、PS言語の最も特筆すべき性質は、情報の要素や様態に関わらず全ての情報を一元化された構造体として等しく認識出来る点にある。結果、従来の方法論では不可能な解釈や飛躍した思考の他、迅速な処理も容易となる為、Si.Hyの思考領域には予め余剰メモリーとして仮想擬似空間が用意されている事も珍しくなかった。
イプシロンが起動したシーラカンスは、通称に違わず生きた化石の代表格でもあるシーラカンスと同じシルエットを持っていた。ゆらりと回遊させた身体を仮想擬似空間へ漂わせ、まるでPS言語の複合体に向かい産卵の機でも窺うような気配を見せながら泳いでいる。
「さて、どうしたもんかなぁ」
幼くも聞こえるイプシロンのアバターの舌足らずな口調は、仮想擬似空間と現実世界を平行して認識する都合、二つの知覚を意図的に差別化した結果の副産物だった。しかしながら少しばかりのキャラクター性を体現するのが精一杯のアバターは、やはりオリジナルから完全に独立する事が出来ておらず、気恥ずかしそうに砕けた声で呟いている。
「暇だなぁ、やる事がないなぁ」
手持ち無沙汰らしいイプシロンのアバターは胡坐で座したまま、上半身を左右に揺らしている。シーラカンスの分解能が高く、また仮想擬似空間の時間が現実世界から隔絶されているとは言え、異種隔離施設の調査で何も見付けられなかった問題の解析が短時間で終わる訳もなかった。
PS言語の複合体の周りを暫く回遊していたシーラカンスは徐に立方体の中へと突っ込んで行った。まるで群れた小魚が逃げ出すように有機的な枝葉を八方へ伸ばしたPS言語の複合体は、大きなひとつの塊は崩さずに様々な形を空中に映し始める。
最初に浮かび上がったのは無数の小さな立方体で再現された、モザイク画のような粗さを持つジェシカ・E・タルヴィングのシルエットだった。と同時に幾つか注目すべきデータが抽出され、吹き出しのようにポップアップで内容が浮かび上がる。
自閉症ながらジェシカ・E・タルヴィングのIQは120を超えていたものの、やはりコミュニケーション能力は著しく劣っていた。取り分け特徴的な行動だったのは、断片化されたものを復元するように、或いはモザイク画かステンドグラスでも作るように、破片となったパーツを組み合わせる事に神経質だった点である。
作品と呼べるかは別として、障害者支援を目的に開かれたチャリティイベントに出展したジェシカ・E・タルヴィングの作品は、現代アートの評論家達に高評された事をきっかけに世間の注目を浴び始めた。
暫くの後、恐らく打算的、且つイメージ戦略的に利用された趣が強いものの、テレビ局と出版社の後援によりジェシカ・E・タルヴィング単独の個展が開かれると、数々の作品は障害者と云う付加価値の上に絶賛される事となった。
まだか、まだかと待っている間も、PS言語の複合体はジェシカ・E・タルヴィングのシルエットをまた別の形へと換えようとしていた。暫く忙しない動きを見せた後、明らかとなったシルエットは、ジェシカ・E・タルヴィングを最初に絶賛したヴィルヘルム・V・グレーデンの姿である。
戦場カメラマンとしてピューリッツァー賞を取った後、取材していた紛争の終結と共に引退、写真家に転向したヴィルヘルム・V・グレーデンの作品は頽廃的な人間賛歌と評されており、特に人間の美しさと醜さを捉えた『C.sinensis Sacc.』は、女装した少年が売春する様子をテーマにした過激な内容でも知られている。
「お?」
シルエットから徐に弾き出された立方体が中に閉じ込めていたテキストを表示させた。溢れ出したテキストは次々と展開し、『C.sinensis Sacc.』と云う名の写真集を再現し始める。
「『C.sinensis Sacc.』……女装した少年が売春するのをテーマにした写真集。一部では発禁処分にもなってる――か」
他にもジェシカ・E・タルヴィングが作成したとされる作品の画像が破裂したシルエットの頭部から樹状に広がり、何十枚、何百枚、何千枚と倍々に増えた画像を吐き出し、イプシロンやプルートゥの頭上を蓋うほどの規模で展開した。
芸術家が生涯にどれほどの作品を生み出すのかイプシロンの理解は及ばないものの、ジェシカ・E・タルヴィングが平均的な数を上回っている事は明らかだった。公に登録されているだけでも数千以上は数えられる。勿論、本人が芸術作品と呼んでいたのか、或いは受け手が一方的な評価で以って、ただの作品を芸術と呼んでいるだけの可能性も否定出来ない為、明確なボーダーを引く事は難しそうだ。
「これは興味深いな」
鼻で笑ったプルートゥがゴシップ記事から引用したらしいテキストに視線を向けた。ヴィルヘルム・V・グレーデンは現地の戦争被害者に写真を取って貰い、或いは袖の下を渡す事で残虐な写真が撮れていたのだ……実は同性愛者だ、障害者の自立を建前にプロデュースした相手へ猥褻行為を強要していたなど、如何わしい内容が記事となっている。
「多いんだよなぁ」
頽廃的な人間賛歌を生き方に反映したようなヴィルヘルム・V・グレーデンのゴシップ記事にプルートゥが飽きつつあったとき、並べたジェシカ・E・タルヴィングの作品の数々にイプシロンがぼんやりと疑問を呈した。
「多い?」
芸術家が生涯にどれほどの作品を生み出すのか知れないプルートゥは、ピカソが十万点以上の作品を発表している事と比較した。勿論、数点の作品のみで後世に名を残す芸術家も少なくない為、一概に多いと評す事は出来ないように思える。
「似たような作品」
シーラカンスが抽出したジェシカ・E・タルヴィングの数千枚もの作品は全体の一割にも満たないだろうか。意図した抽出なら作品の傾向が偏っていたとしても不思議な事ではなかった。
「そっか、なるほど」
急にひとり納得したイプシロンにプルートゥは質問した。
「説明しろよ」
「これは言葉だよ――」
ほら、と言ったイプシロンがシーラカンスに何かの指示を告げると、数千枚もあった画像が数十程度の種類に分けられ、重ねられていった。
「ジェシカ君は自閉症でコミュニケーションに難があった訳でしょ」
確かにコミュニケーションに問題のある自閉症の患者が芸術などの創作活動を通じ、他者との相互理解を深め、また自己実現を果たすと云ったケースが幾つも報告されているものの、詳しいメカニズムは今以って不明である。
但し、諸説ある中、"先天的に抱える遺伝子の欠陥が原因となり、ミラーニューロンが正常に働く事の出来なかった結果、一般的な理解とずれて物事を解釈し、理解する所為で陥る障害"とした説は有力視されている。言い換えれば、通常、学ぶべき言語に代えて別のコミュニケーションツールを獲得しているのではないかと云う考えだ。
言われて見れば、シーラカンスにより整理された作品は、材料とした画像の形や配色に似たものが見て取れる。幾つかの画像に付されたメモには、家族によって綴られた製作当時の様子の他、モチーフやタイトルが纏められており、作品の構造的な要素も含めた全てを体系化すれば、一定のテキストを導き出す事も不可能ではなさそうだった。
「でもよ、俺らが調べるべきはそんな事か?」
「なぁ~に言ってんの、ここまで分かれば後は体の良い報告書を書くだけじゃん」
どうやら書き上げられるだけの内容の全てに凡その粗筋を思い付いたらしいイプシロンが、仮想擬似空間で議論すべき事も、また検討すべき事はないと言いたげにプルートゥに重ねた仮想擬似空間の接続を一方的に切断する。