ひまわりの庭
花の種を植える夢を見ていた。
赤いスコップで、やわらかい土を掘り起こして、種を落とし、軽く土をかぶせ、じょうろで水をまく。この繰り返し。ところで、これは何の花かしら、と手を止めたと同時に、夢から覚めた。
枕元の時計をみると、針は五時半を示している。
はやすぎるわ、と思う。
もっと眠りたいのに。
自分に腹を立ててみる。しかし、一度目が覚めてしまうと寝付けないことを、よく知っている。
パジャマのボタンをはずしながらシャワーを浴びに浴室へ向かう。少し、酒臭いなと顔をしかめる。
飲んでいるときはあんなにいい香りだと思うのに、翌朝、自分の周りにまとわりついているお酒の香りは、不愉快にすら感じる。
お酒を飲んだ翌日は夢をよく覚えている。
目覚めた瞬間、夢は忘れるというけれど、深酒した日ほど、鮮明に、色つきで夢を覚えている。内容は今日見たような、他愛もないものばかりなのだけれど。
あついシャワーを浴びてから、冷蔵庫を開ける。何を飲もうかと考える。昨夜一緒に飲んでいた人は、朝一番の三ツ矢サイダーが一番美味しいと言っていた事を思い出す。残念ながら、それはない。麦茶を取り出して、ゆっくりと飲んだ。細胞が、健康な水分を欲しがっていたことが良く分かる。
わたしは、自分の身体に謝りながら、二杯目をグラスに注ぐ。
テーブルの上に、ひまわりの花束が乱雑に置かれている。
「またやっちゃった」
ひとりごちて、花瓶に水を入れて、少し元気の無くなったひまわりを活ける。
「こんな季節になったのだ」と懐かしく思う。そして次の瞬間には、五年前の夏を思い出して、苦々しくなる。わたしはひまわりから目をそらした。
これらのひまわりは、昨夜乗ってきた終電と逆算して、六時間前から、わたしの元にいることになる。あと、何時間一緒にいるのか分からないけれども、その間は大切にしようと思い、水切りをした。
この季節は、酔っ払うとひまわりを買ってきてしまう。特別好きな花でもないのに。
最初から、最後まで過去の人だったな、と思いだす。
友人に誘われて渋々通い始めた絵画教室は、思いのほか自分にあっていた。好きな時間にアトリエに顔をだし、好きな時間だけ描き、講師に指導してもらう。
毎週何曜日の何時、と決まっていないのがいいと思った。そして不思議に思い、講師の永井さんにたずねたのだった。
「どうして、永井さんはいつ来てもいい教室を開いたの?」
永井さんは、どうしてそんなことを聞くの? という顔をしてから
「僕は、絵を描きたいと思う時にしか描けないから。何時から何時までに描きなさい、なんて言われたら、何も描けないから」
と、ゆっくりと答えた。
そのゆっくりさが、誠実でよかった、と感じたのだった。
「高久さんも、そうでしょう?」
永井さんは、わかったような口調で続けた。
その口調が「いま素敵だったな」と思った。
この人は、わたしのなかですぐに過去に行ってしまうひとだと、切なく感じたのだった。
そして、わたしはその過去がすぐに懐かしくなって、ますます永井さんが気になっていったのだった。
二階にある永井さんの居住スペースは、乱雑で絵の具臭い階下のアトリエとは違い、無臭で、無機質で、無色だった。無色、というのは正確には間違っている。家具の色、カーテンの色、それぞれが調和しすぎていて、主張がなく、白いイメージになっているのだった。
しかし、もしかしたらそのイメージは、今のわたしが作り上げたものかもしれない。そうあってほしい、あってほしかった、という願望。
身体を重ねてみても、永井さんはやっぱりすぐに過去形になってしまう。
「ほら、もう、過去のおとこ」
枕元でそう言うと、永井さんはひどいな、という顔をして「僕は今生きているし、今、高久さんを抱いているのに」とやっぱりゆっくり答えた。
その答え方、好きだったな。
瞬間的に、過去形になる。
永井さん、好きだったな。
筆を握る細い指を、わたしは愛したな。
人物画は描かないという永井さんの絵に恋したな。
いま、一緒にいるのに、永井さんはわたしのなかで、常に流れて消えて、新しい永井さんとはじめまして、と挨拶し、そして流れてゆく。
そんな話をしたら、永井さんは「ひどいな。僕がいないみたいじゃないか」と眉をしかめた。
その日、アトリエには誰もいなく、静かだった。永井さんのカンバスを滑る筆の音だけが、広いアトリエに響いていた。
わたしは、手を休めて狭い庭を眺めていた。
ひまわりが揺れていた。
「画家の家に、ひまわりが咲いているのって恥ずかしくない?」
そう言うと、永井さんは「そうなんだけどね、好きなんだ」と顔をくしゃくしゃにして笑った。
「いまの笑顔がかわいかったな」
わざと大きな声でそう言うと、永井さんはわたしの首を絞めながらキスをした。
「もう、いっそのこと、死んじゃえば? 殺しちゃいたい。」
笑顔で、そんな恐ろしいことを、さらりと言った。
「だって、高久さんのなかでは、僕が何度も死んでいるんだから」
わたしは、黙って頷いて、永井さんの唇を吸った。
その日、初めてアトリエでセックスをした。油のにおいのする永井さん、すてきだったな、と思いながら、何度もせがんだ。
永井さんとわたしは、本当に愛し合っていたと思う。確信として。
でも、終わりがあることも分かっていた。それも、確信として。
あの日もひまわりが揺れていて、永井さんはわたしを好きで、わたしも永井さんが好きだった。
違うのは、画廊の女性がいたことくらい。
彼女は、永井さんの個展を計画していた。
永井さんの絵に惚れていたし、商売人だったし、おんなだった。
永井さんは、自分の絵が好きだったし、芸術家であったし、商売画家でもあった。
利害が一致した。それだけのこと。
でも、それだけのことが許せなくなるくらいに、わたしは永井さんに夢中になってしまっていた。
永井さんが触れるものには、なんにでも嫉妬した。猫でも、絵でも、筆でも、画廊のおんなでも。
庭のひまわりをすべて摘み取った。永井さんは困った顔をして、いいわけしようとした。
聞きたくないと思った。
画家として売れれば、どんなに素晴らしい未来になるか。そんな妄想劇には付き合いきれない。そう思っていた。
未来の永井さんよりも過去の永井さんが好き。
そういって、わたしはアトリエを出て行った。
わたしから出て行ったのに、わたしは帰りたくて仕方なくて、ひまわりを見るたびに、泣きたくなる。
目の前の花瓶を眺めながら、わたしは過去を抱きしめる。絞められた首の痛みを思い出し、陽炎のように揺れていたひまわりを思い出す。
ベッドから、武田君が起きだしてきた。
「また思いだしてたんでしょう」
わたしは、返事をしないでひまわりを見つめる。
「昨日、ひまわりの花を抱えて帰ってきただろ。僕、切なかったなぁ」
武田君は冷蔵庫からペプシを取り出して、わたしの前に置いた。
わたしは、黙って爪をプルトップにかけて開けてあげる。
「爪の伸びている男の人は嫌い」
初めて会ったときに、わたしは武田君にそういったらしい。それから、武田君は深爪になった、というのは武田君談なので、本当かどうかわからない。
もともと深爪なのかもしれないし、年上の女性への精いっぱいのリップサービスなのかもしれない。
それでも、そう言われて缶を目の前に出されると、悪い気がしない。
武田君、好きだな。と思う。
現在進行形で。
過去のひまわりを抱きながら、現在の深爪を愛している。
でも、この先は分からない。
もしかしたら「この人の未来が好きだな」と思う相手が表われるのかもしれない。
そんな贅沢な、身勝手な自分に失笑する。
黙って洗面所に戻り、鏡を見れば、結婚適齢期を過ぎた女が一人うつっている。
決して美人でもなければ不細工でもなくて、取り柄のない「おんなのかお」。
鏡越しに武田君がくるのが分かる。
わたしは、鏡越しにほほ笑む。
仕方ないな、と自分を慰める。
たまらなく過去が懐かしくて、未来が怖くて、今が好き。
みんなそんなもんじゃない? 開き直るわたしは、厭なくらいに女の目をしている。
振り返り、武田君に近づく。
彼の腕は、力強くてあたたかい。
ごめんね、そういって胸に顔を埋める。
うん、と答えて武田君はまわした腕に力を込める。
心の中で思う。
わたしのことだって、いつか武田君のなかでは過去になる日がくるかもしれないのよ、と。
忘れないでいて、と願いながらわたしは、彼の腕の中で目を閉じる。
過去の作品を掘り返しては、転載してみています。いつか書き直すきっかけや長編のヒントになればと思ったり。