記憶の盟約
彼が隣を歩く少女に左手を差し出して彼女が少年に鞄の中から取り出した赤い木の実を差し出す。凍りついた世界の中を旅してきたためかそれはすっかり凍り付いてしまっているのだが彼はそんな事は気にせずに口に含む。道しるべとなっているそりの跡は真っ直ぐに地の果てへと突き抜けていく。太陽は、弱々しい光を、地面を覆う白い光に負けないように必死に放っている。風は吹いていない。この寒い世界を、彼と彼女の2人は歩いていた。
「レイズ、耳大丈夫か?」
彼が心配そうに話し掛ける。2人きりの儚い世界で。
「うん・・・」
彼女は自らの背中を擦っていた手で両耳を押し当てた。そうすることで初めて彼女は彼の言葉の意味がわかったらしい。
「冷たい・・・」
「エーノについたら何とかして帽子を手に入れないとな」
笑顔を浮かべてそう言って、彼は彼女の手にある鞄から木の実を取り出した。
「その指輪を身につけたところで空間魔法は使えるようにならないのよ、わかる?」
その言葉に説得力はまるでなかかった。
「何故僕がこんな危険なシロモノを持ち出したと思う?」
「私をどうにかするためでしょう?」とライア。
「違う、僕が、魔法使いの頂点に立つんだ。気づいたんだよ。ライアが腕輪を見せただけで自分が怖気づいてしまった事で」
「なるほどね・・・」
右腕を見つめながらポツリとライアはそう呟いた。
「力があることに気づいてしまったわけね。お前に魔法を使う資格なんてないわ」
「コーデリア家当主の権限で命じるわ。死ね」
「その指輪は身に着けないと効果が出ないわよ。さあ、さっさと着けなさい。その隙に殺してあげるから」
何時の間にか左手で彼女はニーズライアを転がしていた。マリンだけかもしれないが確かにライアから殺気を感じる事が出来る。恐らく本気だ。
「本当にそんな事をしてもいいのか、うん、いいのか?」
どうやらあの男は未だに自分が優位に立っていると思い込んでいるようだ。どんな事があっても対処する自信があるらしい。
「大体、着けないと意味が現れないんだったらさっきだって魔法を使えたじゃないか」
「五月蝿いわね・・・。それ以上何か言ったら消すわよ」
「指輪無しじゃリズリア-レヴィーク-ライアも使えないような一族には言われたくないが」
「自我の損失と引き換えに大魔法を使えるようになりたいと願うあんたの方が異常なのよ」
「フレアが自我を失っていた、とでも?記録を見た限りだと自我を失っていた様には見えなかったが」
「フレアは最後には指輪ごと指を切り落とされて光の彼方に消えたわ」
「それはシャインがいたからこそ出来た事。君一人では僕は止められない」
「僕はこの日を待っていたんだ・・・」
ライアは自己の中に戦慄が走るのを感じた。指輪の効果がもう彼の中で起こりつつあるのだ。当然の事だろう。魔力を無限大にまで高めるアイテムをその手に長い時間握っていたのだから。フレアの言っていることの整合が取れていたのは恐らく彼女の無意識が目覚めていたからだ。だが、この男程度ではそんなことになる前に発狂してしまう。
「お喋りが過ぎたみたい。さよなら」
宝珠が輝きだすよりも速く魔法を完成させてしまう。彼の手から指輪を奪うだけなのだからそんなに難しいことではない。彼の手に握られている指輪は彼女のイメージどおりに彼の手の甲を通り抜けて宙へと飛び上がり、彼女の足元に音を立てて落ちる。ライアは即座にそれを右足で踏みつけた。だが、何故か、彼の左手の人差し指にも一つ、透明なガラスの指輪が光っていた。彼女は初めて幻を見せられていたことに気づいた。全ては彼女自身が想像したことに過ぎなかったのだ。何時の間にかビスタは指輪を身につけて2人を想像が支配する街へ追いやっていたのだ。
「だけど私は現実に戻ってきた。それが指輪の力なのね・・・」
彼女はかつて見た、現実よりも正確な夢の中にいた。真っ黒な空間に、自らの思い描いた通りの人物や、オブジェが現れては消えていく夢の中に。彼女は自らの目が開いている事を知っていた。見つめようと願えば現実の世界を見る事が出来る事と知っていた。だけど決してそうはしない。彼女はそうはしない。時が満ちてしまったのだから。忘れてしまった多くのことを思い出してしまったのだから。
「道を教えて。マリン」
彼女は彼女に聞こえるようにそう言った。マリンはマリンから教わった通りの道を歩いていった。
暗闇の中を歩くうちにだんだんと正確に思い描けるようになってくる。彼の姿を。彼のいる場所に近づいている証拠だ。充分歩いた、と思ったところで彼女は目を閉じて彼の姿を思い描いた。円を描く杖を持った少年の姿を。彼はすぐに現れた。そしてこう言った。
「久しぶりだね。盟約を完成させに来たのかい?」
「ううん、遊びに来ただけよ。せっかく道を思い出したんだから」
「盟約を完成させる日が近づいてきてるんだね。思い出してしまったんだから」
「最近まではあなたの事はおろか盟約の事まで忘れていたし道だって私に教えてもらって初めて思い出せた。まして正しい死に方なんて何の事なのか・・・」
「それがわかるのは盟約を完成させるときだ」
彼女の中にいる少年は彼女に近づいた。
「まだ、その時は来ていないよね」
不安げに目の前の少年の瞳を見つめながら言う。
「思い出すべきときはまだ来ていないよ。盟約は、まだ、僕が完成させない」
彼は彼女を抱きしめた。マリンははっきりと彼の存在を感じた。今までよりもずっと。かつてのように。
「管理者さん・・・有難う・・・」
誰かの声が突然彼女と少年の間に割り込んでくる。急速に世界が明るくなっていく。無音の世界に音が混ざりこんでくる。彼女は瞳を使えば見る事が出来るとを知った。目を開いていれば光が目の前を覆うことを知った。マリンは激しく首を振り、無理やり自らの想像の世界を押し込んだ。ベッドの上で眠っている男はシルヴィス。彼女の近くを立っている女性はライア。彼女はそこまで確かめて、やっと現実に価値を見出した。
「現実と想像をごっちゃに・・・。すごい魔法ね・・・」
そう言いながらライアは彼に向けて一歩歩み宝珠をつきつけた。その後ろにいるまだ夢に半身を捕らわれている少女の瞳が紅く染まる。彼女が見つめるのは二つの光。彼が指の指輪の輝きと彼女の手の宝珠の炎。指輪の光は彼を護るかのように、彼の周りに留まっている。
「最初から指輪を着けていたんでしょ。どう、答えてよ」
彼は答えなかった。男の目は指輪と同じ色で彼女を見つめていた。
「言葉を失ったのね。可哀想に・・・」
突然、彼の手を指輪の光が覆い、獣の口と形作り、彼女に向けて振り下ろされた。後姿を見ているだけで彼女が死への恐怖を感じているのが分かる。だが彼女は判断を誤らなかった。炎を空間に織り交ぜてその塵を自らの幻影のように散らしながら、彼女はこの場から姿を消した。
「・・・・・・」
指輪の男の目がマリンの方に向かう。彼女は彼に指に光る物が普通のものではない事は分かった。だが彼女はそれにまつわる伝承など一つも知らなかったのだ。
「私に何か?」
「・・・・・・」
彼は彼女のほうへ足を進めようとしたのだろう、だが何故か彼の足は動こうとしないのだった。
「さっさとその指輪はずした方がいいよ。まだ言葉を忘れただけで済むうちに」
「ね・・・」
彼女は大空を駆けるそれと全く同じ風を起こした。外の香りがじめじめとした暗い地下室を明るい外の広場へと変えていく。でもどうやらこの風は彼の元にまでは届いていないようだった。指輪がそれを邪魔しているのだ。
「・・・・・・」
「せめて言葉を・・・思い出させることが出来れば・・・」
「シルヴィスの時と同じやり方で?・・・・・・出来るの、答えて・・・」
宝珠は答えようとはしなかった。彼女はそれが不可能であると知った。
「シーファーグス・・・謎の宝珠にも無理な事はあるんだね」
彼女はそう言いながら宝珠に触れようと思いズボンのポケット両方共に手を入れた。だがそこにあるのは彼女の予想に反して右のポケットにある例の木の葉だけだった。彼女はそれに触れてしまった。
『言葉なんて要らない』
頭に直接語り掛ける誰かの声。
『心が繋がっているんだから』
『でも、あの男とは違うよ・・・』
何故か彼女にもその声の主の心に直接語りかける事が出来た。
『あたしは・・・あたしに語りかける事が出来る・・・?あなたが・・・そうなのね』
『勝手に話を進めないで』
『いずれ全ては繋がってしまうのよ・・・。あたしたちがそうだったように、ね。全ては予定調和に過ぎないのかも』
彼女は今まで彼女に面と向かって話していたのが何となく分かった。彼女が背を向けた事はもっとはっきりと分かった。姿はまったく見えないにもかかわらず。
『あたしが思うにあの男を止めるには指輪を指ごと切り落とす以外に手は無いはず。それと・・・あの指輪・・・ねえ、宝珠持ってるの?』
彼女の問いと一緒に彼女が抱く様々な感情が流れ込んでくる。それは恐れにも似ていてそう、相手がかつて抱いていた恐怖であり、不安であり、それが再び相手の中で甦っているのだ。
『持ってるよん。青い奴を』
『シーファーグスね。・・・いい、あの指輪はあなたの宝珠と似た性質を持ってるように感じる。だから、宝珠を持っていても多分通じない。全ての基盤となっているあの宝珠だったら別だけど、ね・・・』
最後の言葉と一緒に彼女の旅の最後の想い出も断片的に流れ込んでくる。とても懐かしい気配のするかつての自然に囲まれたその場所は、自らが最後に向かうべき場所であるような気がした。そして、最初からそこにいたのだ。翼を持った彼女が。
『・・・・・・私に語りかけてきていたのはあなただったの?』
突然声が変わる。夢の中の羽の生えた少女と同じ声に。
『そう、私はわかっていたのよ・・・』
マリンは彼を睨み、威圧しながら一歩ずつ迫っていった。彼女の右の人差し指からは光の刃が生じていて、虚空を切り裂き彼方へと消えていく。これで直接切り取ってしまうのだ。男は黙って彼女の様子を見ていた。指輪も今は光を失っている。彼女は左手で彼の手を自らの胸の高さまで持ち上げ、刃を彼の左手に当てる。それでもまだ何の抵抗も示そうとはしない。彼女が意思を決めると簡単に彼の皮膚を貫き、肉を、骨を露呈した。
「僕の声が聞こえない?僕が言葉を忘れた?何を勘違いしているんだ。言葉を忘れたのは君の方だ。理解できないものをどうやって受け入れるつもりなんだい?」
まるで赤い肉が白い骨を震わせて発する血の声が聞こえてくるかのようだった。彼女はその言葉によって自らがそうである事を知った。全ては自らの思い違いであることを知った。彼女は再び声に語りかけた。
『・・・どうにかならないの?』
『私には最初から言葉は無いよ』
『あなたは夢に出て来る・・・?一体何者なの?』
『それはあなたが良く知っていると思う。私が何かはあなたが決めるの』
『私が決める・・・?・・・・・・ううん、なんでもない』
遠い場所で誰か、他の誰かが叫んでいるのが聞こえる。彼女は耳ではなく、目を使う事によってそれを瞬時に理解した。
『指輪はまだ彼の指にある?あるんだったら・・・!』
彼女が目を開き見ると、彼女の思った通りなのか彼の手には左手の切り落としてしまったはずの指が甦り、その付け根ではガラスの指輪が悠然と光っていた。それを見た彼女に声はもう一度語りかけた。彼女の右横で、長い髪を結ぶ白いリボンを解きながら。
『あなたは言葉を失ってしまったと本当に思う?』
『わからない』
言葉を選ぶうちに勝手に彼女に心は伝わってしまう。何を思い、どうそれを言語で表現しようとしたのかまでが。
『じゃあ指輪の力でそういうことが起こせると思う?』
『思う』
『シーファーグスを、あの輝きで全てを見極めて。ニーズライアがあれば一瞬なんけど・・・』
彼女はマリンの手を無理に動かして上着のポケットに入れた。そのとき確かにマリンは存在しない女性の手の温もりを感じていた。彼女の吐息を、彼女の強さを。
『後は自分で何とかできるでしょ。頑張って』
彼女は宝珠の輝き、絶対なる海、生命の輝きを開放した。彼女の意思を受けて宝珠は内に秘める力を外に放出する。彼女の力で宝珠はその真価を発揮する。彼女の祈りは宝珠にかつての物語を思い出させる。その昔天空高い所から海を見下ろしていた頃の物語を。光は海に届いてそのまま吸い込まれていく。そのまま。届かないほどに深い場所まで。
青い光がビスタを照らした。白く発光する指輪にその光が重なり鈍い新たな光を生み出す。宝珠と共にマリンはその光が指輪を中心に広がっていくのを見た。光は男を、彼女の立つ世界を、彼女自身をも飲み込んでいく。宝珠に向かってガラスの光が這ってくるかのようだった。部屋の壁は光に触れると溶け出してしまう。そして後には虚無が現れる。既に男は鈍く発光する波に飲まれてしまっている。彼女は虚無が自らを囲んでいる事を知った。宝珠を通して世界を見るがために気がつかなくても良い事にまで気づいてしまうのだ。彼女は虚無を受け入れるしかない事を知った。瞳に虚無とそれを生み出す光を映す少女はじっと闇の中に佇んだ。
ガラスの指輪が天から彼女の元へ音も立てずに落ちてくる。闇の中彼女はそれを右手の平で受け止める。魔力を持っている為かそれには質感が無かった。
「・・・・・・」
何か言おうとしたのだが言葉が出ない。あの男が言ったことは本当だった。言葉を失ったのは彼女だったのだ。自らのうちで次から次へと生まれれ来る言葉は表に出ることが出来ずに自身のうちに積もっていく。言葉は表に出ない限り消えずに残るのだ。そしてただひたすらその中身を心に曝け出すのだ。
「・・・・・・」
それに堪え切れずに思わず口を動かす。だがやはり言葉は出ない。一体今何を言おうとしたのか。言葉が溜まりすぎてどれが外に向かって旅立とうとしたのかももう分からない。
「・・・・・・」
彼女の中の何もかもが言葉の山に押しつぶされてしまう。何か話さなければいけない。彼女は考えた。自らが言葉を失った理由を。
「話し相手がいないから」
結論は一瞬で出た。そしてその言葉は表に出ることを許された。
「でも・・・一人の方が楽しいよね」
彼女は言葉を取り戻した。
「闇・・・か。いい加減飽きたよ・・・」
光を生み出すものといえばあの宝珠しかない。彼女は右手を動かして宝珠を取り出そうとした。その瞬間、何かが、彼女がその存在を忘れていたとても重要なものが虚無の海に落ちた。海面にぶつかった時、それは存在しない音、無の楽器の音を奏でた。
「無の楽器?そんなの私知らない。なのになんで知ってるの?それに虚無なんてありえるの?私は最初からここにいたの?違う、ここは・・・違う・・・」
孤独を望む少女の持つ宝珠はひとりでに光を発し、その光で彼女の表も裏も何もかも全てを照らした。生命の輝きは彼女の中でひとりでに大きくなっていた。そして彼女の中で辺りにたち込める虚無を打ち砕いた。
瞳の中で燻る命の輝きが薄れていく。視界が再び広がっていく。
「ライア!!シルヴィスも!?ここは・・・?」
彼女は何時の間にか元の地下室に戻っていた。何もかもが元のままだ。ガラスの指輪はビスタの指に光っているしマリンの目の前で銀髪の女性が魔法を使おうと意思を高めている。
「魔法がやっと解けたのね。おめでとう」
「魔法?」
「ライア、僕が君の難解な説明よりも簡潔で分かりやすく彼女に解説しようか?」
「名前で呼ぶなって言ったのを覚えていないの?学習能力無し、と・・・生きてる価値無いわね」
だがライアは決して魔法を放とうとはしなかった。
「どっちでもいいからさっさと説明してよ」
「あの男は最初から指輪を身に付けていた。私達はこの部屋に入った瞬間から彼の魔法によって現実と想像、それも私のものとあなたのものを混ぜた世界に徐々に迷い込まされていたのよ」
彼女の方を向くでもなく淡々とそう言い、ライアは後ろ手でマリンを掴みビスタに面と向かわせた。
「指輪が光ったら要注意。どうあっても光につかまらないように」
マリンは彼の指先に細心の注意を払いながら先ほどそうしたように人差し指から全てを切り裂く光を出した。夢の中のものとは違い、それが空気を切り裂くとそこに向けて渦巻く気流が起きていた。だが彼女が魔法を使う気配を感じたライアはやはり前を見たままでこう言った。
「・・・指輪はあらゆる魔力を吸い取るわ。無駄よ。物質的な力も通じない。一体どうやってディアス一行はフレアを止めたのか・・・」
「単に指輪を抜き取れればそれでいいんじゃないの?」
彼女に倣い彼の指輪から目を離さずに言う。
「それは出来ないことぐらい分かっているでしょ」
「それは出来ない。何故ならこれはもう僕でも抜き取れないからさ」
嫌味な口調。出来るものなら抜き取ってみな、とでも言いたいようだった。
彼女は靴の中が湿っているなと思った。視界の範囲にある彼のさらに向こう側の床に目を凝らすとどうやら水が床下から沸いてきているようだった。何時の間にか彼が魔法を使っていたのだろう。だが彼女がそれの存在に気づいたためなのか突然彼と彼女の間の床板を突き破って噴水のように噴出した水柱が彼女の脳天にぶつかり彼女はそのまま激しい水流に押しつぶされた。床に伏せる自身の身体を何とか起き上がらせようとするのだがあまりの水の重さに身体が言うことを聞かない。
彼女はこんな状況でも水の音と人の足音をしっかりと聞き分ける事が出来た。人の奏でる音は何時も何処かで矛盾しているからだ。彼女に向かってくるのは間違いなくビスタ。ライアのいる方を見ても水しぶきが邪魔で何も見えない。
「・・・・・・僕が指輪持っていることを外に知らされては困るんでね」
今までの単にライアを挑発する事を目的とした声とは違う。彼女はもう一度全身に力をこめて立ち上がろうとした。だがやはり水には勝てなかった。
「私よりも先にライアを殺った方がいいんじゃないの?」
「ライアは後だ。目的達成のためにはそれを後ろ盾する者から消していくべきなんだよ」
「どうあっても私を殺すつもりなのね・・・。でも、残念だけどこれは正しい死に方ではないから」
彼女は先ほどから動かしていた手を何とか宝珠に届かせた。だがポケットに入れた右手の手首を彼に踏みつけられてしまった。
「何をやろうとしているんだ?今の僕相手に」
「生命を生み出すのよ。私にはそれができる」
「魔法使いが得意とする詭弁か。命を生み出したところでどうにも成らないだろ」
彼が何かの魔法を使う気配を感じた。首に触る空気が冷気を帯びてきているから多分そこらの水を凍らせて氷の刃を作り出したのだろう。
「・・・あなたの生命を消し去ることだってできる」
彼女は自らの背中に間もなく振りかざされるであろう鋭い氷の刃に怯えながら言った。彼女の背を撫でる細かい水がなんとも言えず皮肉的だった。
「妙な自信があるようだな。だがこの世からコーデリア家を消すため、死んでくれ」
彼女は背中をビスタの高級そうな革靴に踏みつけられた。そこから直接彼の殺気が伝わってくる。もうどうあっても逃げ切れない。
『生命・・・人間にある生命・・・』
誰かの言葉。これは夢に出て来る翼のある少女の声だ。
『シーファーグスの力では人間の生命はどうしようもないわ』
『彼女がそう考えているから』
『だったら私はどうすればいいの?』
初めからそうすることが出来たかのように彼女に話し掛ける。
『私にはわからない。人間の事は結局最後までわからなかったの』
ライアは彼女にかけられたそれと同じ魔法の影響も受けずにいたのだが、彼女には歩む事も考える事も出来なかった。なぜなら彼女はビスタの手によって意思を奪われていたから。彼女の予想以上にビスタは指輪の影響下にあったのだ。彼は指輪の力を自分なりに用い、自身の得意とする他人の精神に介入する魔法を使い彼女の意思をなくしてしまったのだ。さらに悪い事にライアはその類の魔法に関する知識があまり無かった。しかし彼女には意思が残されていた。見る意思と聞く意思が。彼女は幻想の中で幻想の音を聴きその中に身を置いていた。だがそれでも彼女の何処かに現実へ回帰したい願望がありそれを消す事は男には出来なかったのだろう。
だから彼女は宝珠の声を聞くことが出来た。そしてその声は彼女の危機を伝えた。死す事の無い少女に迫る死を。
宝珠の言葉はライアの意思に別の色を与えた。彼女は自分の意思ではなく、意思の意思で魔法を使ってしまった。彼の魔法を一瞬にして取り払う。彼女は生まれてはじめて現実の存在を強く意識した。もしもここが現実だったら。彼女は魔法使いで彼は指輪を持った男。男は水を凍らせて少女を今にも貫こうとしている。ライアは指輪を持った者を僅かな時間でもいいから止める事のできる魔法を探した。それは一つしかない。
『グラーナ・ソー・ライア』
彼に聞こえると対応されてしまうから心の中でだけその名を呟いた。
マリンは自由の利くもう片方の手でいま自分を踏みつけている彼の足を掴んだ。さらに彼に行動する隙も与えずに身体を横に転がす。何故か思っていたよりも遥かに簡単に彼の身体は床に叩きつけられた。そして場に溢れていた魔法の水も消滅した。
「油断大敵・・・か。ライアの言ってた通りあなたはただの能無しね」
「なんだかもう幻想でもなんでも良いわ」
彼女はどうやら頭を打った衝撃でまだ立ち上がれないように見える彼の左手を掴んだ。彼女は右手で指輪をつまみ、そのままの状態で宝珠に話し掛けた。
『この指輪、外せる?』
『・・・外せるのね。わかった。ありがと』
彼女は自らの意思を何一つ変えずに指輪を彼の指の先端に向けて動かした。途中彼が起き上がろうとする気配があったのだがどうやらライアが止めてくれたらしい。マリンは何も言わずに彼の手から指輪を外した。力を失った男が目覚めることは少なくとも彼女達の前では二度と無かった。
彼女はその指輪を何も言わずに宝珠と一緒にしまいこんだ。その指輪は近くで見ているとその美しさに惹かれ、思わず身に付けてしまいたくような魅力に満ちていた。遠くから見ていただけでは絶対に分からないが表面と裏の両方に細かい細工、それと光のハーモニーを最大限に高めるための、そして人の深層心理に訴えるための特殊なレリーフが刻まれているのだ。どうやら何かの女神のようだった。マリンは知らなくて当然だがこれのモデルとなった女神はカトルラの有名な女神像である。
「ライア、ここからどうやって戻るの?」
わざとらしく床に転がる男の身体を踏みつけながらマリンが言った。
「あなたが担いでいきなさいよ。私はしばらくは魔法は使わないつもりだから」
「なんで?」ついでにマリンは彼の背中に片足立ちになった。
「彼をここに引っ張ってくる時に使ったから。わかった?」
「そんな事言わずにさぁ・・・」
マリンはその状態からさらにつま先立ちに成り、上で何度か飛び跳ねてみた。
「無理な事は無理。あなただってそれは分かるはずよ」
「だったらライアが・・・」
「何が悲しくてこの私がそんな事・・・」
2人はそう言って笑顔を合わせると仲良くビスタの顔面に何度も蹴りを入れた。
少し離れたところから見るとまるで少女の足が四本に増えたかのように見えたのかもしれない。マリンはシルヴィスを背負い歩いてはいた。だが、およそ頭一つ分ある身長差を考えれば分かるように彼女が彼の身体を背負いきれるわけがない。そういうわけでいまシルヴィスの膝から下は地面に接して引きずられているのだった。ライア曰く『完全に固めたから何やっても大丈夫』という事もあって彼女は安心してそのような方法でけが人を運んでいるのであった。
彼女には一つ気になることがあった。彼の手にしていた透明な指輪のこと。今は自分が持っているガラスの指輪の事である。
「ねえライア、ガラスの指輪ってなんなの?」
マリンは横を歩いて時々落っこちそうになる彼の身体を支えてくれる人に話し掛けた。
「知らないの?有名な話よ」
「田舎育ちにそんな事は関係ないもん」
「サンライズ=ディアスを中心とする四人組の話。聞いた事本当にないの?」
「歴史上の有名人なんてカノン=クラウディアしか知らないよ」
マリンは突然彼をここにおいて空に向けて走り出したい衝動に駆られたが何とか押さえた。
「無知なら無知らしく魔法を使わなかったらいいのよ」
「無知は無知。知は知。だから?」
「あのね・・・魔法に関する理論の一つや二つを学んだ事もないの?」
半ばあきれた様子でライアが言った。
「ない」
そんな彼女の様子にかまう事など全くなく、何時ものようにマリンは答えた。
「それ以上魔法使わないほうがいい。これは誰のためでもなくあなたのために言ってるの。死にたくないならね」
「別に死んでもいいんじゃないの?」
「無知も知の一種である・・・一体誰の言葉だったか・・・彼女にぴったり・・・」
ライアはマリンに聞こえないようにそう言い、不思議そうな、しかし深刻そうな顔をして返事を待っている彼女に指輪の話を語り始めた。きっとこれが終わる頃には街中まで戻っているだろう。
それは親が子に歌う子守唄だろうか。それは恋人達が交わす愛の歌だろうか。今宵彼
らが奏でるは英雄の詩。遥かなる遠い時代に生きた者達の物語。
フレア=コーデリアは禁忌を破った。
ガラスの指輪。
決して身に付けてはいけないといわれるかの指輪。
たとえハインが甦っても二度と生まれてこない奇跡の指輪。
彼女は指輪を手に取った。それは禁忌。
願望。
わからない。
詩を歌う者たちに彼女の気持ちは決してわからない。
フレアの右の中指に新しい光が生まれた。
魔王の生まれる時代。
最初の変化が起こった時代。
人々は未だ気づかない。
何故気づかないのだろう。
その時代を生きる人々と
現在を生きる我々といったい何が違うのだろう。
指輪の生み出す虚空に包まれつつあることに。
どうして気づかなかったのだろう。
魔王の生まれる時代。
次の変化が起こった時代。
それは確かな変化。
魔法が生まれた。
分からない事がまた生まれる。
それと同時に有ってそれと同時になくなるもの。
わからない。
まだ、何も。
魔王の生まれる時代。
魔王の言葉が生まれた時代。
そして恐怖が何かに混ざり始めた時代。
それでも人々は歌っていたのだろう。
恐怖に未だ気づいていないから。
かつて生きた人々は気づかなかった。
手遅れである事に。
フレア=コーデリアが旅立ってしまったのだから。
魔王のいた時代。
それは始まった。
明日の姿が全く見えない。
魔王が隠したのだ。
その時代は
魔王のいた時代。
魔王のいた時代。
誰一人止める者がいなかった時代。
一体誰が。
伝説をとめる事ができるだろうか。
己が伝説である事を知る者がどこにいるだろうか。
ただ一人、最初の少女を除いては。
魔王のいた時代。
恐怖が明日を覆い先が見えない。
振り返ることも恐い。
昨日は本当に存在したのだろうか。
不安。
昨日までそこにあったものが今日ない。
今日は何時だろうか。
昨日は何時だろうか。
疑問を生み出す。
それも魔法。
魔王のいた時代。
楽しさに溺れ、現在を見る努力を人々は忘れた。
かの男もそのうちの一人だった。
だがそれも終わる。
男は突然目覚めたから。
きっかけさえなかった。
魔王のいた時代。
その男は彼を見つけた。
彼は笛を巧みに奏でる。
それが彼。
詩を書き音楽を書き物語を残す。
それが彼。
魔王のいた時代。
そしてそれが始まった時代。
何故だろう。
「俺はここに居てはいけない気がする。君について行っても良いか?」
それが変化を示す会話。
魔王の時代は終わりつつある。
魔王のいた時代。
何事にも気づけなかったもの達が呼び出してしまった時代。
そして気づいた者達が集まり物語を生みだした時代。
誰も超える事が出来ないと云われたかの物語に匹敵するものを。
彼女はいつものように木々の枝を掻き分け湖を目指す。
黄昏時。
「あの、冒険者さんですか?」
ああ。
彼らは答えた。
「ここの水は美味しいですよ」
彼女は見ていた。
彼女は見ていたのだ。現在と呼ばれるものを。
「そろそろ霜が降りる時期です。私の住む村へご案内します」
魔王のいた時代。
生まれるべくして生まれた激動の時代。
それがなければそのまま人々は全てを失った。
失われるべきものも。たとえ魔物が甦っても護らなければいけないものも。
何もかも。
彼らは村へと案内された。
数えるほどの家もない小さな村。
彼らを案内した女と村人全員分の薪を用意する親切な男と詩を知る老婆。
彼女と共に歩く道中出会った。
人は少ない。
生まれるべくして生まれたものはこの場所には
生じていない。
雪の降る季節。
そして魔王のいた時代。
彼は村人のために詩を書くことを決意。
男は親切な男を手伝うのみ。
彼女の生活を邪魔しないよう。
彼女の助けになるよう。
セーンを乗り切れるよう。
寒空の下で詩が生まれた。
彼は詩の最後の一文を書かずに眠りについた。
いったいどうした。
わからない。
わたしたちにはわからない。
文字が人間にしか生み出せないと知っているから?
誰がそれを教えた。
それは間違いである。
彼が目覚めると全く違う詩が書き記されていたのだから。
彼らとガラスの魔王の詩が。
魔王のいた時代。
彼は自らが詩人である事を知った。
詩人の詩がどんなものであるのか幸いにも村の人々は知っていた。
男は教えられて初めてその意味に気づく。
詩人の詩は完成されるべき。
詩人の詩は完成されるべき。
彼女は
詩を完成させるのが自身であることを
何時の頃から知っていたのだろうか。
魔王のいた時代。
男と詩人と彼女は
旅に出た。
終わりの見える旅に。
だが成さなければいけないことがある。
本の終わりにたどり着くためには読まなければいけない。
詩の終わりにたどり着くためには歌い聞かなければいけない。
忘れられし物語を完成させるには忘れなければいけない。
人が足りない。
まだいるのだ。
魔王が生まれた本当の理由を知る者が。
魔王のいた時代。
彼らが海をまたぎ混沌の海までもたどり着かんとする強さで大地を蹴った時代。
終わりはある。
見つければいいのだ。
魔王のいた時代。
それはかの物語と同様の展開を成す。
発見があるはかの大地。
かつて途上大陸と呼ばれたあの大地。
英雄の娘の物語が終わったかの大地で。
魔王のいた時代。
彼女は剣士を見つめた。
「ねえ、知ってる?」
彼は知っていた。
一体何を?
知らないものを。
「私が魔法を使えば」
最後の夜彼女は言う。
彼女は魔法を使った。
昨夜の言葉どおりに。
魔王の降り立ったかの地に自らも赴くために。
詩人の詩に記されし仲間を連れて。
そこにいた。
右の中指に光が見える一人の女性が。
魔王を止めるは詩人の詩。
そう記すは彼の詩。
彼は歌を奏でる。声を聞かぬ魔王に聞こえるよう。
何故だろう。それは魔王に届くのだ。
詩が届き、彼女の言葉も届く。
でもどうしても出来ない事がある。
指輪を魔王から離す。
それはどうしても出来ない。
詩人の歌に書かれていないからだろうか。
さあ。どうだろう。
彼は傍観者。
見ることが彼の役割。
見なければいけない。
これから起こる事が詩と寸分違わないことを。
魔王は久しぶりに話し掛けられた。
「帰ろう。私はあなたがどうしてここに来たのか知っている」
魔王は答えようとした。
でも出来ない。
男が邪魔だ。
小さなナイフが右の人差し指に当たっている。
「さあ。でも私たちが求めるものは手に入らない。かつてのようにね」
魔王はかつてあったことを思い出そうとした。
でも出来ない。
男が邪魔だ。
詩が耳障りだ。
「でも私たち2人でも・・・」
魔王は・・・。
でも出来ない。
男が邪魔だ。
詩が耳障りだ。
彼が全てを見つめている。
動いた!!
男はナイフを引いた。
血が流れる。
赤いもの。
「こんなのが私の中にあったのか・・・」
「指輪を離すにはこうするしかないんだ。すまない」
「何故だ」
「詩に書かれているから」
「あの男が歌う詩か?」
「そうだ」
刃は
魔王の指を切り落とした。
「帰ろう。私たちの目指す場所へ」
「何故あの男は私を見つめているのだ。
せめて睨んでくれれば」
「かつてとは違う。誰がいても不思議じゃない。ここは現在なんだから」
かつて魔王だった女性は時間をかけてゆっくりと頷いた。
「いくよ。私の最後の魔法」
彼女は去った。
後に残るは詩人の詩。
彼が見たもの。
ガラスの指輪。
戻らなければいけない。
元の大地に。
どうやって?
戻るべき存在は必ず戻る。
戻り方は
そこにある。
彼女は過去から吹いてくる風が自らを包んでいる事を知った。それは語り部が最後の一言を言った直後の事だった。マリンは昔の情景を正確に思い描く事が出来た。ライアは彼女をそこへ誘ったのだ。
「端折り過ぎだ」
何時の間にか起きていたシルヴィスがマリンの背にもたれたまま言った。
「端折り過ぎってどこが?」
彼が自力でバランスを取るようになったので自由に使えるようになった左手で先ほどの魔法の所為でびしょ濡れになってしまった髪の毛を絞りながらマリンが言った。
「いくらなんでもシャインの一人語り省略はいただけないな」
「それにこれじゃあ『彼』が『詩人』になることの意味がさっぱり伝わらないな」
ライアは彼のほうを向いた。別に立ち止まったわけではない。
「私のやり方に文句言うのやめた方がいいわよ。あなたの傷は私が魔法で無理やり止めただけ。意思一つでいつでもまた血が噴出すわよ」
「本当はそれなりにまともな治療する気も少しはあったけど内出血が酷すぎて手におえなかったから」
「分かりやすく言うと今のあなたの体の中は魔法で繋がっているだけで実際は動脈は千切れてるしあるはずの無いところに臓器があったりするの」
マリンは今度は服の裾を絞り始めた。少ししわが残る代わりに大量の水分が地面に一気に落ちていく。続いて服の右袖、手を変えて左袖。最後に胸元に手を伸ばしてリボンを解き、左で外してみるがこれはどうやらあまり水気を吸っていないようだった。彼女は片手では結べないのでライアに頼む事にした。
「ライア、これ結んでくれない?」
「嫌よ」
古井戸のある空き地は低い日に照らされて赤く染まっていた。その横を下るとやっと街の大通りに出る。どうやら今日最後の馬車が出てしまったようでこの辺りは人の数はそう多くは無い。ライアは夕日の射してくる方、宿屋のあるほうに向かおうとするマリンを手を掴んで止めた。
「なに、ライア?」
「私の知り合いの家を借りましょう。宿よりはよっぽど良い筈よ。彼氏の治療も出来るしね」
マリンは向きを正反対に変えて、彼の体を支えながらゆっくりと彼女に追いついた。 通りを一番端まで行きさらにそこから何本か別れている小道の内の一つを選びライアを案内役にして進む。家が陰になっていてあたりはとても暗い。マリンは両脇に立ち並ぶ民家の壁に彼の体が引っ掛からないように注意しながら早足であるくライアについていかなければならないので大変だった。
とうとう小道も終わってしまった。それに影の間を歩いているうちに日も落ちていたらしい。荒野は暗く、風が吹き、冷え冷えとしていた。
「もう少しよ。頑張りましょう」
ライアはコートの裏から一本の木から削りだした杖を取り出した。彼女がそれを掲げると、杖は先端に光を帯びる。所々に緑の面影が僅かに見えるだけの荒地が彼女の光によって浮かび上がる。それもそのはずである。ここは海岸に面しているのだから。マリンは波の音を光の音だと思った。
歩きながらライアはこれから会う人物について簡単に話してくれた。彼はかなりの年月を生きた老人で薬草に精通している事、ある日ルーテクス大学で出会ったこと、そして多くの物語に触れてきた人物であると聞いた。話しながらライアは時々杖を振るような動作をしていた。後で分かったのだがどうやらこれは光によってくる虫を払っていたらしい。
彼女の言う老人の家は大きめの小屋といった感じだった。屋根からは鉢植がぶら下がっている。本来ならば美しい花とその香りが訪問者を歓迎するはずなのだろうがあいにく今は夜。花は閉じている。ライアは木の板に虫食いの穴が見える扉の前に立ち、杖の明りを消した。
「さてと・・・鍵を外さないと・・・」
彼女はそう言い杖を扉に突き付けた。木と木はぶつかり、そしてそれぞれに込められた魔力がぶつかり、美しい音とに七色の光を発する。
「・・・また鍵が変わってる・・・」
「オーキピトさん!!ライアです。出てこないなら扉壊します」
彼女はそう言いながら錆び付いた蝶番で止められた扉を杖でガンガンと叩いた。しばらくそうしていたが人が出てくるような気配は無い。ライアは仕方ない、といった感じでため息をつき、向きを変えて蝶番に杖を当てた。魔法で補修されていただけで実際にはもう壊れていたそれは簡単に外れた。金具が壁とドアの両方から外れたにもかかわらず何故かそれは扉と壁の両方に張り付いたままで地面にむけて落ちようとはしなかった。
「これって鍵の意味無いんじゃ・・・」
「彼の魔法は強力だから少なくともあなた程度じゃ外せないわ」
支えが二つほど外れたものの、地面に直立はしている扉を二人で外の壁に立て掛けてから彼女達は中に入った。
中は一部屋しかなく、その一つしかない部屋の中央にある丸テーブルの周りの、来客たちとテーブルを挟んで反対側の位置に老人は座っていた。
「来るのならば手紙でもよこせば良いものを・・・。何も急ぐ事など無いじゃろうに」
頬杖をついたまま老人は言う。
「鳥たちは羽を休めます。私たちは休息を取るためにここへ来ました」
ライアの後ろからマリンが言った。本人は小さめの声で言ったつもりだったが部屋に居る者たちには充分聞こえた。
「どこの土地の挨拶じゃ、それは」
「今思いつきました」
老人はゆったりと座れる大きな椅子の背もたれに寄り掛り、しわの寄った目じりが作り出す老人特有の眼光を彼女に向けた。
「背中の男は?」
「怪我人です」
「そうか・・・ベッドはいるかね?」
「お願いします」
オーキピトは立ち上がりベッドを整え、マリンはベッドに背を向けて座り、彼を降ろした。
「ちょっとは自力で動いてよ!」
「動かないんだよ・・・無茶苦茶に止められて」
老人はベッドの反対側の壁にずらりと並んだ本棚の前に立った。真ん中の棚から青い表紙の本を一冊取り出してテーブルに戻り椅子に座り本を開く。まずは目次を。指で欄を上からなぞっていき、ある一点で止める。老人はそのページを開いた。
「彼はライアが魔法で繋いであるんじゃろ?」
「そうよ。私にはそれ以外に出来そうに無かったから」
「これだけの怪我になるとそれが正解じゃ・・・」
老人は本を閉じた。
「まあその内また身体も繋がるじゃろう。薬草を当てにせず気長に待つことじゃ」
「・・・また大学行きが遅れるの?」
テーブルの端に座り、両手をついているマリンが言った。
「本ならここにもある。それに・・・」
老人はマリンの想像どおりライアの方に向き直った。
「彼女も・・・」
「いい教師になるって言いたいんでしょ。最初からそのつもりだったから」
「私には教える事は出来ないよ。何期待してるの」
ライアはそう言いながら杖をコートの中に仕舞った。
オーキピトはテーブルに伏している少女達の散らばる髪の毛を踏まないように慎重にテーブルの上に立ち上がりランプを天井の金具から外した。
「爺さん、ちょっと話を聞いてくれないか?」
老人はランプを持ったままベッドの元に向かった。その横にある小型の机にランプをおき、彼の話が長くなりそうな気配だったので一旦戻り椅子を持ってきた。
「なんじゃね?」
「・・・命術のこと知ってるか?」
オーキピトは思わず平静さを失いそうになった。しかし何とかそれを保って、いつもどおりの声で彼に言った。
「その名はあまり口にしてはいけんぞ・・・」
「そう・・・か・・・。俺の昔の連れがエーノで色々有ったから気になったんだ」
オーキピトはまたも落ち着きを無くしそうになった。
「お主・・・エーノで何が有ったんじゃ。教えてはくれんか?」
「・・・長老の家での話なんだが連れがな、なんだかよくわからない事をいったら奥に連れて行かれたんだ。でその後聞いたら『お主、もしかして命術の奥義を知っておるのか』と言われたんだそうだ」
シルヴィスは寝返りをうとうと全身をくねらせた。が思うようにはいかないようだ。
「動かしてやろう。・・・気になるの・・・。その連れは一体なんと言ったんじゃ?」
「こんな感じだったかな・・・『もしかして、命が無いの?』とかそんな・・・」
「その連れの名は?」
「・・・レイズ=イナヴィク=エルファース」
「エルファース!?お主、今エルファースと・・・」
「無関係じゃないのか?」
「さあ・・・わしにはよう分からんが・・・。命が無い・・・気になるの・・・」
昼間と同じように木の実で空腹を満たして彼らは再び深い雪原を歩み始める。唯一熱を持っていた太陽の光も今ではもう消え去り、底知れぬ寒さを蓄えた地面と冷気を肌に与える闇が広がるばかりである。身体を動かせば動かすほど血液は凍りつき、筋肉は眠りに落ち、骨に痛みが走る。
「ここって・・・月が無いんだ・・・」
シルヴィスはレイズに明りを付けてもらおうと思って彼女のほうを向いたのだが今の彼女にそんな気はないようだった。
「月?ってことはツートラト大陸に居たのか?」
「ううん・・・もっと別な場所・・・」
「ツートラト以外で月が見えるところなんて知らないぞ」
彼はそう言って空を見渡した。雲ひとつない透明なガラス版のような空に星が点在している。どの方向を見ても月は見えない。
「私しか知らないところなの。それに月がないと私・・・」
「月がないと?」
レイズは両手で背中に触れていた。左手の鞄がやや邪魔そうだった。
「今の私に月は関係ないのに・・・。何でだろう・・・」
シルヴィスが頼むとレイズは頷いて右手の平に光の玉を生みだした。まるで星が集まったかのような優しい光を放つそれは彼女の一声で手元を離れ二人のやや前方の空中に落ち着いた。彼が丁度手を目一位伸ばしたらつかめそうな位置にある光に向けて手を伸ばしてもそれは宙を飛び逃げさってしまう。そして後ろに一歩下がると彼の歩幅と同じ分だけそれは後ろに下がり前に進むとその逆の結果になった。
「ありがと、レイズ」
彼は月を求めて星空を映す彼女に向けてそう言って彼女より速く一歩目を踏め出した。
2人はさらに歩きつづけた。星が弱々しい幾銭もの光を放つ時間の凍りついた白い草原を。だがこんな時間にこの場所に居るのはなんと彼らだけではなかったのだ。二人は聞いた。闇夜に響く人間のものではない足音を。
「誰か近づいてくるな・・・。エーノの人間かも」
「・・・・・・」
彼女は不安げにシルヴィスの腕にしがみ付いた。
「大丈夫だって」
レイズが自力で動こうとしないので彼女の身体を引きずりながらさっきまでと同じように彼は歩んだ。そうしていても雪原でのそりと人間の足の差は凄まじく、彼はあっという間に2人の元までやってきた。
「明り目指してやって来たのですが・・・。旅人さんでしたか」
「そりには乗せてくれるか?」
「ええ。訪れた者たちには新たな思い出を与えなければいけませんから」
彼はそりの後ろ半分の荷物の山を工夫して椅子のような形の部分を二箇所作り上げた。
「さてと、レイズ、乗るぞ」
レイズは何故かそりを引く天馬の翼を撫でていた。そのときの彼女の落ち着き払った、何か別なものを想像させる瞳は彼の中に焼きついて永遠となった。レイズは天馬の羽を軽く撫でると、そりの縁に手をかけて飛び乗った。
旅人達を乗せてそりは走る。雪の上をすべり、吹き溜まりを飛び越え、雪の夜空へ。レイズの魔法の光は何時の間にか彼らの傍を離れてしまい、もうそれの助けを借りる事は出来そうにない。
「はあ・・・」
彼の横で少女がため息を漏らす。彼はこのとき初めて彼女の肩に羽飾りが付いている事に気づいた。
「ん・・・これ良いな・・・」
彼はその羽根に触れようとしたのだが、レイズの左手が彼の右手を受け止め制止した。
「触っちゃダメ」
「そうか・・・ゴメン・・・似合ってるからつい・・・」
何故かシルヴィスは彼女に触ってはいけない理由を尋ねる事が躊躇された。彼は右手を代わりに後ろに伸ばして荷物をずらし、そりの後ろの荷台にベッドを作ると背を後ろに倒した。
「お休み・・・俺はもう寝る・・・」
「お休みなさい・・・」
彼女は耳元で男の気配を感じた。音を聴く限りではどうやら何か金属をいじっているらしい。彼女はテーブルの上に立つ老人の姿を思い描いた。彼が手を上に伸ばして触れているのは明り。そう、老人はランプを消そうとしているのだ。今までよりもやや大きめの音の直後に何かが変わった。老人はテーブルから降りるつもりのようだ。腕を組んで顔を伏せたまま彼女はその音を聴きつづけた。
予想に反して明りは消えなかった。老人はシルヴィスに声をかけられ、何を思ったのか椅子をベッド際まで引きずっていったのだ。彼女は耳に全神経を集中した。
「なんじゃね?」
「・・・命術のこと知ってるか?」
彼女は一瞬で二人の会話に興味を失った。彼女は魔法に関する細かい知識には大して興味がなかった。彼女は開きかけていた瞼をまた閉じた。
「こんな感じだったかな・・・『もしかして、命が無いの?』とかそんな・・・」
だがそんな気分もこの一言で一気にうせた。彼女は自分の体が微かに震えたのが分かった。彼女は再び声に集中した。だがその後の会話は彼女にとって殆ど無益なものばかりだった。マリンは生命を司る青い宝珠のことを考えていた。
『生命がないってどういうこと?』
『言葉の通り』
それの言葉は彼女の中ではじめて意味をなした。
『じゃあ何で生命がないのに生きているの?』
『生命を失う事が出来ないから』
『魔法を使えばそれが出来るようになるの?』
『望めば・・・あなたなら・・・』
「死ぬ事が出来ない・・・か・・・」
「私なら・・・ううん、ある意味では私と似ているのかも」
「でも・・・それを考えたいんだったら思い出さないと」
「ね、管理者さん・・・それが叶わない願いだって言う事はわかってはいるけど・・・」
彼女は翼を広げた。全てを感じる翼、全てを感じてしまう白い翼を。月光を受け青白く輝くそれを羽ばたかせて彼女は森の上へ舞い上がった。何時ものように風と話をするつもりだった。彼女は自分の翼がそのためにあると思っていた。
だがその日はどこまで飛んでも風には会わなかった。彼女は月に近づいている事を知った。眩しさを感じないはずの羽までが光を拒みつつあった。彼女は原初の記憶が羽根の中に甦りつつあると強烈に感じた。もっと月に近づけば全てが見える。記憶。
『一体何時の?』『仲間がいた頃の』『それは何時?』『ずっと昔・・・』
『どれくらい?』『2人が出会う前』『一体何時出会ったの?』
『・・・・・・』
彼女は翼が蓄えた記憶の終わりを知った。彼女は2人が誰の事なのかさえわからなかった。彼女の翼には地上から見るのとは比べ物にならないぐらいに大きくなった月の強い光が白く反射していた。
ここまでお読みいただいてありがとうございます。
いつも悩むのですがあとがきって何書けばいいんでしょうね。
途中の謎ポエムはあんまり気にしないでください




