第9話 龍の巣へ
上空の風が巻いて大きな雲を吸い上げると、それはまるで空に昇る龍に見える。まだ気象について何の知識もなかった昔の人達が、雲から立ち上る一筋の白い渦を見て、大空を自由に飛び回る空想上の生き物、龍を生んだ。
昔の人達の想像力はどうも現代の僕達と違った角度で物事を捕らえていたようだけど、なかなかセンスがあると思う。
長く空にいる僕でもまだ3回しか見ていない、雲の竜巻き。
今日、僕は「龍の巣」にぶちあたった。
低い雨雲にぽっかりと穴が開いていた。
荷物を運び終え、あとは帰るだけ。進路に大きな雨雲がごろんと横たわっていたので、海上の島を目印に迂回しようと大きく回った時、アイスクリームにストローを刺して柔らかいところだけ吸い取って食べたように、小豆色した雨雲に真っ白く真っ直ぐな穴が開いていた。
初めて見た。竜巻きが雲を吸い出した痕跡。飛行機乗り達はそれを「龍の巣」と呼んでいる。
まだ人間が空を飛び始めて間もない頃「龍の巣」は生きては帰れない魔の穴と恐れられていた。でも、現代の気密性も出力も高い飛行機なら理論上は何の問題もない。そんな軽い気持ちで「龍の巣」に飛び込んでみた。
穴の直径は飛行機の両翼の4倍くらい。かなり大きい。が、進むにつれて先細りになっていく。雨雲に突っ込んでしまうと目視は効かず計器飛行になるな、その程度の心配でどんどんどんどん突き進む。
すると、突然視界が開けた。空洞に出たのだ。
雨雲の外側とまるで様子が違って、柔らかそうな真っ白い壁がぐるりすべてを包んでいる。陽の光をなんとか通しているようでぼんやりとほの暗いけれども、頭上も右も左も真下もすべてほのかに光るような白い雲で囲われていて、不思議と暖かい錯覚さえ感じてしまう。
「龍の巣」のできた雲の中にこんな空洞があるなんて聞いた事もない。竜巻きが空気を吹き込んで雲が膨張し中に空間ができたのだろうか? 飛行機を自由に振り回せるだけの大きな空間。龍が住んでいても不思議じゃない。あり得そうだ。
原因は何にしろ、これはまさしく「龍の巣」だ。昔の飛行機乗り達の想像力は尊敬に値する。
やがて、僕は方向感覚も時間感覚も失っていくのを感じた。全方位同じ色の壁なのだ。視力が急速に奪われていくような、どこを見ても色に変化がない。距離感が掴めず、雲の壁に突っ込みそうになる。ぶ厚い雲は真綿のようだけれど、ぼふんと跳ね返されそうにも見える。ぐるぐるぐるぐると飛び回り、重力の感覚すら失われた。
僕は出口を見失っていた。
どこを見ても同じ光景。
高度12000メートルを目指したあの日の透き通った青色だけの空のように、周囲に展開する世界は色を失い僕を魅了する。
確かに、これは生きては帰れないな。昔の人なら。
計器を読む。大丈夫、速度も高度も十分いける。
出口がないならば作ればいい。
僕は機体を水平に保ち、雲の壁に突っ込んだ。
たぶん、洗濯機の中で泳いだらこんな感覚だろう。気流に乗り上げるようにぐいと持ち上げられ、滑り落ちるように振り回される。視界はまるで効かない。何百人の子供達が綿飴を突き出してこちらに突進しているような視界。
そして、雲を抜けた僕は途方にくれた。
ここ、どこだ?
海面がまるで違っていた。目印にしていた島がない。記憶にある島の形を思い出すと、僕は西の方角にかなりの距離を移動していた。
僕はどれくらい飛んでいた? 数分? 数時間?
燃料計を見でもほとんど減っていない。太陽の高さも角度もほぼ変わらず。お腹も減っていない。つまり、そんなに飛んでいない。
あとで調べてわかったのだが、僕はどうやら100キロくらい瞬間的に移動してしまったようだった。
「龍の巣」に飛び込んで数分。あるいは十数分。僕は100キロも移動していた。
無事仕事場に帰り着いた時、チェリコ先輩にどこでさぼっていたかと怒られたが、この事は僕だけの秘密にしておこうと思う。
説明したって、バカにされるだけだろうし。