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第3話 雲を泳ぐ乙女

 仕事復帰。


 プラウタ・ラッツェル、上空1万600メートルより見事生還いたしました。液体燃料エンジン非搭載、プロペラ未使用、手作りの自家製蒸気飛行機の世界最高度記録まであと1200メートル。次はやります。次こそ一気に12000メートルの蒸気機関の壁をぶち破ってみせます。行くぞ、プラウタ。蒸気航空史に名を残せ。


 と、職場のみんなは誰も応援してくれなかった。僕を待っていたのは、まずはデスクワーク。一週間分、きちんと僕の分を残していてくれたようだ。みんな、とってもとってもこんちくしょう。


 月曜日は書類とのにらめっこと、職場復帰記念飲み会であっと言う間に終わった。そして、火曜日。リハビリとして、まずは近くの島への宅配便がてら、4時間連続未帰投飛行。


 そして、いきなり死にかかった。



 やたら雲が重そうな日だった。陽の光も鈍く遮ってしまうとてもとてもぶ厚い雲が空に蓋をしたように積み重なっている。今にも雨粒となって落っこちてきそうだった。こんな空模様の日は雲が低い。雲を抜ければそこには澄み切った広い広い青空が見え、雲の海に浮かぶ船のような気持ちで空を飛べる。雲を抜こうと思ったのが、彼女と出会ってしまった原因だろう。


 予想通り雲は低く、雲を抜けたそこは別世界だった。風にさざ波を立てる海原のような雲の平原。高層雲もなく、視界はすべて青い空に埋め尽くされる。失速するぎりぎりの低速で飛び、雲の波に乗るように高度をぎりぎりまで調整する。今日の雲はやっぱり重かった。機体は雲の上をすべるように飛び、まるでほんとうに雲に浮いているみたいな浮力を感じる。


 そして、彼女を見つけた。



 最初は小さな雲のコブのように見えた。やがてそのコブに小さな黒点が二つ、ぱちぱちとまばたきするように現れた。その二つの小さくて丸い黒点はきっちり真正面に僕の機体を捕らえるようにゆっくりゆっくりこちらを追いかけてくる。

 いくら失速寸前まで速度を落としているとは言え、こちらは液体燃料エンジン搭載の業務用飛行機だ。かなりの速度はでている。しかし、その二つの黒点がついたコブは、確実に近付いてきている。そして、それがだんだんと人の頭のように見えてくる。


 まるで、海面から首だけ出して様子を見ているアザラシのように。


 向こうも僕を気にしているようだが、僕も向こうが気になり、機体を傾けてそれに近付いてみた。すると、僕が近付いているのに気が付いたのか、そのコブはぶくんと雲に潜ってしまった。


 なんだったんだろう?



 ふと計器に眼をやり、視界を正面に戻した僕は、そこで思わず声を上げてしまった。


 いきなりコクピットのすぐ側の雲が盛り上がり、爆発するように弾け飛び、人のカタチをした真っ白い雲がキャノピーに飛びついてきた。濡れた布を強く木の板に叩き付けたような潰れた音が響き、僕の真正面に真っ白い人形がへばりついた。

 そして真っ白い顔の部分に、二つの真っ黒い丸い点がぱちくりぱちくりとまばたきをして、そして、黒い点が下から押し上げられるように細くなっていく。今度は黒い点の下にすうっとナイフで切ったように黒い線が浮かび上がり、下弦の月のようにゆっくりと両脇が吊り上がって行く。


 笑っている。



 小さな頭に黒点が二つ。にっと笑ったような黒い線が一本。長い髪をなびかせているように白い雲が頭部から流れている。首は片手で握れてしまう程に細く、肩は少し力を込めているように見えるけど、やっぱり細い。わずかに膨らむ胸。腰のあたりまで柔らかそうにくびれている。緩やかな曲線がしなやかに伸びている脚線。


 女の子が僕を覗き込んで笑っているんだ。


 思い出した。マナクモだ。

 子供の頃聞いた事がある。飛行機乗りを惑わせる雲に住む女。無人の飛行機が墜落したら、飛行士はマナクモにさらわれたのだと昔から言われている。よくある昔話だと思っていた。おとぎ話だと思っていた。

 しかし、僕の目の前に、彼女はいた。


 密閉式コクピットだからよかったものの、これがオープンキャノピーだったらどうなっていたか。僕はぞっとして彼女を引き剥がそうと急上昇をかけた。

 笑っていた彼女の黒点が真ん丸に戻る。

 身体の中身が口から飛び出しそうな急降下をする。透明な筋肉男にぐいと髪の毛をわし掴みにされて持ち上げられるような感覚。そのまま操縦桿を捻り込む。速度を限界まで落とす。機体はきりもみするように落下した。

 キャノピーにしがみついていた白い女の姿が風に飛ばされ、急速に小さくなっていく。それを確認し、僕はすぐさま機体を立て直して彼女の行方を眼で追った。

 彼女は雲の海原に落ち、すぐさままた出会った時のように顔を出した。


 何故か、ほっとした。怪我はないようだ。


 でも、黒点は丸ではなかった。外側に垂れ下がり、まるで、泣いているようにも見えた。



 頭上にはどこまでもどこまでも、あきれるくらいに青い空が続いている。どんなに僕が手を伸ばしても、その青には届かない。視線を落とすと、そこには雲が溢れている。波打つように迫り、渦を巻くように遠ざかる。ここには、空と雲と太陽しかいない。そこに、彼女はたった一人でいる。

 彼女は、ただ、淋しかっただけじゃないのか?


 僕は動かない彼女にゆっくりゆっくり近付いてみた。今度は彼女は動かない。ただ、垂れ下がった黒点がまた真ん丸に戻り、そして下から押し上げられるように細くなる。


 すっと、泳ぎ出した。僕の機体に合わせて。


 どれくらいの時間を彼女と過ごしたんだろうか。赤く点滅した燃料計が僕を現実に引き戻してくれた。帰投限界残量だ。

 時計を見ると、8時間も飛んでいた。空も、青さがぐんと濃くなって群青に染まっている。いつのまにか星がまたたいていた。



 帰らなきゃ。


 彼女に手を振ってみた。

 彼女は黒点を真ん丸に戻し、僕の真似をするようにぎこちなく手を振り返し、そしてじっとその自分の手を見つめていた。

 僕はゆっくりと機体を傾ける。また、自分の部屋に帰るため。それに気が付いた彼女は、今度は、きっと自分の意志で手を振ってくれたのだと思う。小さくなる彼女の姿。やがて僕は雲に沈み、僕の帰るべき世界へと舞い戻ってきた。


 燃料ぎりぎり。危なくまた墜落するところだった。


 もし、頭上にものすごく重そうな、いまにも雨が落ちてきそうな雲があったら、ひょっとしたら、彼女がそこで泳いでいるかもしれない。友達を待ちながら、いつまでも、たった一人で。

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