第2話 日常っぽい日常
久しぶり、と言う程の時間ではないけれども、六日ぶりの自分の部屋。真っ白い病室の病的なまでに清潔感のあるアルコール臭に鼻が慣れてしまったせいか、意外と臭いがするものだな、と思った。これが僕の臭いなのだろうか。臭い、よりも、匂い、と書きたいけれども、やはり、これは臭い、だ。
「アンタの部屋汚すぎ。部屋に粉炭こぼれていたし、何故蒸気オルガンのレコードが置いていない? あれじゃ彼女できても部屋に呼べない。片付けておいた」
とは、チェリコ先輩の台詞そのまま。あのひとは黙っていれば黒髪がきれいな大人の女性と言う雰囲気なのに、喋ると歯車とクランクで生きているんじゃないかと思う程に抑揚のない声を出す。
「でも、蒸気飛行機乗りにしてはいい酒を仕込んでいる。お礼にもらった」
チェリコ先輩の言う通り、確かに部屋は片付けてあった。チェリコ先輩は同じアパートの住人で、入院中の着替えを僕の部屋からもってきてくれると言うので部屋の鍵の隠し場所を伝えてお願いしたのだが、今思うと、彼女の目的は僕に優しくする事ではなく、冷蔵庫の酒だったのではないか。
確か3本、青空のように透き通った青いガラス瓶に僕が漬けたライチの酒があったはずなのに、1本しか残っていない。植木鉢の下の鍵をどこか他の場所に隠した方がいいだろうか?
それにしても。
確かに、部屋は片付いている。微妙に奇妙な方向性で。
同じ大きさの本がきれいに積み重ねられ、まるでサンクルサンカル遺跡の列塔群のように規則的に配置されている。茶碗や陶器類が逆さまに伏せられて軍人が整列しているようにきっちりと乱れず陳列されている。洗濯物はどれも正方形に折り畳まれ、業績が悪化していく企業の営業棒グラフのように見事に階段状に並べられていた。
チェリコ先輩の部屋にお邪魔した事はないが、彼女の部屋はいったいどんな風景が広がっているのだろうか。それとも、ただ単におもしろがってこんな片付け方をしたのか。
僕自身が言うのも変な話だが、そんなに汚くしていた覚えはない。本や雑誌類はどこに何があるのかちゃんと把握しやすいように平積みにして、よく読む本が自然と上に積み重なっていただけだし、洗濯物だって、先週の金曜日に洗濯したばかりだ。粉炭は、まあ、仕方ないだろう。ガレージで蒸気エンジンの整備をしているのだ。少しくらいこぼれていても不思議じゃないはず。それに、とりあえず、部屋に呼ぶ彼女もいない。
やはりこれは、チェリコ先輩なりの作戦であって、部屋を片付けたと言う事を印象付け、僕の秘蔵のライチ酒を獲得する事が目的だったんだろう。
何事もなく退院し、明日からまた日常が再開される。お隣さん、と言う事で毎日チェリコ先輩を車に乗せて出勤している。その通勤路中、さりげなくライチ酒の感想でも聞いてみよう。歯車とクランクでできている彼女の事だ。おそらく「また作れ。またもらうから」と機械のように言うだけだろうけど。
と、酒の空き瓶があったはず、と冷蔵庫の脇を漁って、この部屋の臭いの正体に気が付いた。生ゴミが捨てずにそのまま放置されていたのだ。これだけ機械的に部屋を片付けてくれたチェリコ先輩がゴミを出し忘れていた?
あり得ない。
やはり、この整理整頓は偽装で、僕の酒が狙いだったに違いない。
植木鉢の下から郵便受けの天井へと鍵の隠し場所を変えよう。