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第11話 その人の名は……

 実はチェリコ先輩は頻繁に僕の部屋に侵入しているのではないか。


 そんな疑いを抱いたのは、昨晩の彼女の一言。


「明日、私の大学の後輩が遊びに来る。紹介してやるから、樽貯蔵葡萄酒は開けずに取っておくように」


 その時は何の疑いも持たずに「可愛い子ですか?」などと切り返していたが、よく考えてみたら、何故チェリコ先輩はワインの事を知っていたのか?


 鍵の隠し場所は鉢植えの下から郵便箱の中に移動している。ポストの中の天井にちゃんと見えないように貼付けてある。普段は小銭入れの中に合鍵を入れてあり、その鍵で出入りしているのでチェリコ先輩と一緒に帰った時でも鍵の隠し場所がばれる心配はない。

 一応確かめてみたが、テープが剥がされた痕跡はなかった。


 じゃあ何故彼女はワインの事を知っていた? しかも、樽貯蔵葡萄酒だなんて、実際ボトルのラベルを見ないとわからない樽貯蔵なんてところまで知っていた。


 いくら築十数年と言う古いアパートで壁の防音効果が薄いとは言え、僕は独り言をブツブツブツブツと言う癖はなく、電話もあまり好きじゃないのでほとんどかかってこなくて電話口から聞かれる事もなかった。

 しかも勝利の報酬のワインはすぐに冷蔵庫にしまったのだ。

 このワインの存在を知るには、冷蔵庫を開けるしか方法はない。

 でも、もしチェリコ先輩が冷蔵庫を開けたとしたら、新しく漬け始めたライチのお酒に手を出さないはずがない。


 じゃあ何故彼女はワインの事を知っていた?

 そこには、意外な盲点が存在していた。


 チェリコ先輩が大学時代の後輩を連れて来た。金曜、土曜と先輩の部屋に泊まるのはいいが、何故に僕の部屋に夕食とお酒をたかりに来る必要があったのか。そこから疑ってかかるべきだった。


 彼女の名前はフロウレラ・ティックナッカ。物静かな性格なのかあまり多くを語らず、そのくせ興味津々といった態度で僕の部屋をあれこれと観察していた。蒸気機関に関する本や、航空雑誌、お茶セットなど、女の子にはあまりおもしろいものはないと思えるこの部屋を、きょろきょろと。

 フロウレラさんは外国の血が4分の1入っているらしく赤毛の髪を短く切り、背が小さく身体つきも細く、おでこがやたら広く見えるせいかかなりの童顔に見えた。それでも僕と同じ歳だったのは意外だった。眼鏡をかけ、さっきみんなで空けたワインの送り主との勝負の碁盤を熱心に見つめるあたりは、さすが現役助教授の雰囲気がばっちりにじみでていた。


「これがさっき言ってた、勝負の碁盤?」


 ワインで口の回転も滑らかになっていた僕はぺらぺらと喋っていた。対戦相手の想像図をぺらぺらぺらぺらと。大学で昆虫の研究に没頭するあまり研究室にひきこもっているタイプで、たぶん家に帰っても何もする事もなく、研究生にもあまり相手にされなくって淋しい週末を送っているそろそろ白髪が目立って来ているくたびれた老年の教授像を。

 想像図の解説中、チェリコ先輩がニヤニヤと笑っているのを見つけ、この子を僕に紹介するとか言っていた事を思い出し、お酒で鈍くなった判断力も手伝ってそのニヤニヤの本当の意味を見失って、僕もフロウレラさんを品定めするような感じであれこれ話していた。

 そうだ。本来なら、もっと早くに気付くべきだったのだ。


 何故チェリコ先輩が勝利の報酬のワインの事を知っていたのか。

 何故おいしいお店に招待したりせずに僕の部屋を訪れたのか。

 何故特に接点もないように思える僕に彼女を紹介したのか。

 大学の後輩。

 助教授。

 フロウレラ・ティックナッカ。


「あと3手で、私の勝ちだったのに」


 その一言で、僕はやっと気付いた。彼女の正体に。

 フロウレラ・ティックナッカ、愛称「フウ・テナ」は細い指先で碁石をつまみ、気持ちいい音を立てて打った。そして僕に握手を求めて来た。皮肉たっぷりに。


「はじめまして、誰にも相手されなくって淋しい週末を送っている白髪の目立つくたびれたフウ・テナです。今後ともよろしく」


 そしてすぐさま第2戦が開始され、お酒と動揺のせいで僕はあっさりと負けた。

 明日、彼女の一日付き人となり、島を案内する事になった。

 何故か、同時にチェリコ先輩の付き人もやらされるはめに。

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