第1話 墜落、それがはじまり
層を成した雲を突き抜けた瞬間、神様が世界を創る時に手抜きしたんじゃないかと疑ってしまった。
思わず笑ってしまう程に一色しか存在しない目の前の光景。薄く薄く重ねた透き通った青が、どこまでもどこまでも続いている。いつも僕らの頭上にある大空は、近くで見ると透明な青をいくつもいくつも積み重ねたものだとわかる。
眼下にはうねるように連なる白い雲の海。頭上には太陽以外何もない空の壁。それだけの世界。僕しかいない世界。僕だけの世界。
世界が僕の二本の腕に繋がる。暴れ震える操縦桿を傾ければ、ぐいと世界は同じ方向に傾く。世界を操っているのは僕だ。
高度1万300メートル。僕は初めて雲を突き破り、大空の向こう側にさらに一歩近付けた。世界記録は1万1800メートル。まだ、1500メートルも遥か遥か頭上だ。
話に聞いていた通り、ここは風が支配する空間だった。翼はギシギシ、ギシギシと悲鳴を上げ、羽ばたいているかのように上下に揺れている。僕はシートに座っているのか、それとも飛び跳ねているのかわからない。呼吸をする事すらままならない。ぐいぐいと勝手に動き回る操縦桿を握りしめているのか、しがみついているのかわからない。何もわからなくなる。ただ一つ言える事は、まだ、僕は飛んでいると言う事だ。
目の前は青しかない。あきれる程に青しかない。計器の針が動いていなければ上昇しているのか、墜落しているのかそれすらわからない程に機体は激しく揺れている。
もし、今、たった一つだけ願いが叶うなら。
ふと、僕は思った。
もし、今、たった一つだけ願いが叶うなら、お茶が飲みたい。熱いお茶がいいな。僕はそう思った。
翼がちぎれて機体がぶち壊れませんように、とか、世界記録の1万1800メートルを越える事ができますように、とか。そんな事は不思議と思い浮かばなかった。
いつしか、揺れを感じなくなった。暴れる操縦桿を握る感覚がなくなった。計器類が読めなくなった。コクピットが見えなくなった。
青しかそこには見えなくなった。
青しか、なかった。
青しか。
気が付くと、僕は病院のベッドに寝ていた。
僕が空に挑んでから三日が経っていた。救出されてから三日も眠っていたらしい。
僕の名前はプラウタ・ラッツェル。蒸気飛行機の飛行士をしている。
飛行士、と聞こえは良いけれども、言ってみれば「空のタクシー」だ。小さな運送会社での飛行機担当。毎日、あちこちの島までいろいろな荷物やさまざまな人を運んでいる。
仕事とは別に趣味としても僕は空を飛んでいる。僕の夢は、誰よりも遠くへ飛ぶ事。まだ誰も行った事のない程に遠くまで飛ぶ事。
高度世界最高記録へ挑戦し、僕には記憶が無いんだけれども、見事に失敗して、奇跡とも言えるほぼ無意識状態で飛行機を操り、海面に墜落と言ってもいいような着水を果たした、らしい。ほんと、何も覚えていない。
目の前に広がった静かで透明な青色しか覚えていない。
いろんな人に心配をかけた。飛行機も壊した。仕事も三日休んだ。
少しだけ反省して、僕は日記をつける事にした。
僕の記録を残しておけば、いつの日か、もしかしたら僕が自分の部屋に戻る事がなくなった時でも、誰かがこの日記帳を見つけてくれれば。
そう、この日記は、僕の記録だ。
たとえ、空の彼方に消えてしまっても、僕は決して後悔しない。それが、僕の生きる意味だからだ。
などと、格好つけてみたものの、いまだ病院のベッドの上。毎日お見舞いに来てくれる会社の同僚のみんなは優しく笑ってくれるけれども、本来なら僕がこなすべき仕事は誰かが背負っているはずだ。しばらくは、みんなのわがままを聞いてあげなくてはならないだろう。
それに、飛行機の修理代。
ああ! また額に汗して働く毎日がやってくる!
身体の具合がまだ悪い、と、もう少し入院していようかと思う。