姉の婚約者だった人から、五年ぶりに名前を呼ばれました
「美緒さん?」
名刺を差し出しかけた手が、止まった。
店の奥から出てきた人は、五年前より少し髪が短かった。
シャツの袖を肘までまくり、腰に濃い灰色のエプロンを巻いている。
こんな格好をする人だっただろうか。
そう思ってから、私はこの人のことを、ほとんど知らなかったのだと気づいた。
「……直哉さん」
岡崎直哉。
姉の婚約者だった人。
そして五年前、私が嘘をついた人だった。
四月の半ばだった。制作会社で編集の仕事をしている私が、その店へ行ったのは、開店二周年の小冊子を作るためだった。
依頼は会社の問い合わせ窓口から入り、店名と内容だけを見て、私が担当になった。
最初の打ち合わせを調整したのは店のスタッフで、店主とは今日、初めて会う予定だった。
隣にいた先輩の窪田さんが、私と彼を見比べた。
「お知り合いでしたか」
「以前、少し」
私が答えるより先に、直哉さんが言った。
「どうぞ。まだ開店前なので、奥の席を使ってください」
私は差し出したままの名刺を、ようやく渡した。
彼の指が、紙の端を持つ。
瀬川美緒、と印刷された自分の名前を見ている、その顔から何か読み取ろうとしてしまった。
「今、こちらのお仕事をされているんですね」
「はい」
「よろしくお願いします」
姉の話は、出なかった。
*
家族が姉の失踪に気づいたのは、結婚式の十日前だった。
その二日前、私は車で姉を駅まで送った。
後部座席には、大きなキャリーケースが一つと、紙袋が二つあった。
姉は助手席で、ずっと指を組んだりほどいたりしていた。
「私、このまま結婚できない」
信号待ちで、そう言われた。
私は、直哉さんに話したの、と尋ねた。
姉は首を振った。
「話したら、行かせてもらえなくなる」
「直哉さんが?」
「違う。あの人は、きっと、ちゃんと話そうって言う。お父さんたちも、式はどうするのって。そうやって話しているうちに、私、何も言えなくなる」
姉は二十七歳だった。
私と直哉さんは、二十五歳。
姉は泣くと、私にはいつもより幼く見えた。
子供のころには、私を学校まで連れていってくれた人なのに。
「ほかに、好きな人がいるの」
姉は仕事先で知り合った男性と、二か月前から会っていた。
その人が転勤する。一緒に来てほしいと言われた。
直哉さんとの結婚をやめて、その人と暮らしたい。
私は車のハンドルを握っていた。
「でも、いなくなるのは違うでしょう」
「わかってる」
姉は泣いた。
「わかってるけど、今、誰にも会いたくない。美緒だけ、お願い。あとで絶対に連絡するから」
何をお願いされているのか、本当はわかっていた。
黙って送り出してほしいということだ。
姉が自分で説明しなければならない時間を、私にも隠してほしいということだった。
私は、そこで車を引き返さなかった。
駅へ着くと、姉は私の手を握った。
「ありがとう。ごめんね」
あとで泊まる場所を送るから、と言って、荷物を引いていった。
私は実家へ戻った。
その夜、姉から、新しく住む部屋の住所が届いた。
仙台だった。
相手の男性の名字も、部屋番号も、私は画面で見た。
二日後、直哉さんが実家へ来た。
姉とは連絡が取れなくなっていた。
一人暮らしの部屋は、身の回りのものだけが片づけられていたという。
彼は玄関で母と話し、それから、居間から出てきた私を見た。
「美緒ちゃん。沙月がどこにいるか、知らない?」
彼の声は、少し嗄れていた。
私は姉の居場所を知っていた。
もう駅から離れた場所にいて、誰と暮らしているかも知っていた。
それでも、首を振った。
「知りません」
直哉さんは、私の顔をしばらく見た。
そのとき、姉からのメッセージが、鞄の中の携帯に届いた。
通知の振動を、私は聞かなかったふりをした。
「何か連絡が来たら、教えてもらえるかな」
私は頷いた。
彼は、お願いします、と言った。
姉が両親へ無事を知らせたのは、その翌日だった。
結婚はできない、探さないでほしいと。
直哉さんも、その後は姉が自分の意思で出ていったと知った。
式は中止になった。
姉が彼へ直接連絡したのは、さらに後だった。
両家の間で準備費用や荷物の話が進み、数か月後には、婚約解消の手続きは終わったと母から聞いた。
私は、あの二日前に何をしたかを、誰にも言わなかった。
止められなかった。
私がいなくても、姉は行った。
そう考えれば、自分がしたことが少し軽くなる気がした。
けれど、知りません、と答えたのは私だ。
それを姉に代わりに言ってもらうことはできなかった。
*
五年ぶりに会った直哉さんは、小さな喫茶店の店主になっていた。
店の名は「つづり」。
住宅街へ入る手前の、角の建物だった。
表の大きな窓から、カウンターと、窓際の長い席が見える。
冊子は店で販売するものではなく、六月の二周年の日から来店客へ渡す予定だった。
店の紹介に、開店からの写真と、近所を歩く短い地図を添える。
窪田さんは最初の確認だけ立ち会い、取材と構成は私が引き受けることになっていた。
「お店の歴史、というほど長くないんですが」
直哉さんは、卓上へ写真を並べた。
「この棚を作った人とか、花を持ってきてくれる人とか。自分のことだけより、そういう人のことも残せたらと思って」
私は写真を見た。
まだ何も入っていない店内。
壁に棚を取り付ける人。
カウンターに、初めてカップが並んだ日の写真。
私が姉から送られてくる近況へ、曖昧な返事をしていたころ。
この人は、この店を作っていた。
「全部の方を載せると、説明が足りなくなるかもしれません」
私は、仕事の声を出した。
「今回は何人かに絞って、お店との関わりがわかるように見せるのはどうでしょう」
「そのほうが、読みやすいですか」
「はい。詳しく聞く時間をいただけるなら」
「もちろん」
彼は頷き、写真をこちらへ寄せた。
私はそれを、裏に書かれた日付ごとに分けた。
窪田さんが先に帰ったあと、確認することが幾つか残った。
彼は会社の仕事を辞めて、三年前に店の準備を始めたのだという。
会社員のころから、いつか自分で店をやりたいと考えていたらしい。
「知りませんでした」
私が言うと、彼は少し笑った。
「そういう話を、する機会はなかったですね」
あったのかもしれない。
でも、私は姉の隣にいるこの人を、姉の話を聞いている人としてしか見ていなかった。
実家の食卓で、父に酒を注がれていた姿は覚えている。
何が好きか、何をしたいかは、知らなかった。
打ち合わせを終え、鞄を持つ。
直哉さんは店の扉まで送ってくれた。
「久しぶりに会えて、驚きました」
「……私もです」
「やりにくければ、会社へ相談してもらって構いません」
私は顔を上げた。
彼は、私を責めるような顔をしていなかった。
「その、ご家族のことがありますから」
「大丈夫です」
口から出たあとで、しまったと思った。
大丈夫かどうかを、私だけで決めてはいけなかった。
「お仕事は、きちんとやります」
言い直すと、彼は、お願いします、と答えた。
その声が、五年前の玄関と重なった。
*
会社へ戻ってから、窪田さんに事情を聞かれた。
私は、姉の元婚約者だとだけ話した。
「それは、先にわかっていれば、担当を考えたけど」
「店名では、気づかなくて」
「続けられる?」
「はい」
窪田さんは少し考えた。
「困ったら早めに言って。相手先にも確認するから」
私は頷いた。
自分のしたことまで話す代わりに、取材の予定を説明した。
仕事で会うだけ。
終わった関係について、今から口を挟む必要はない。
そう言い聞かせたのは、私だった。
夜、姉とのメッセージを開いた。
姉はあの男性と暮らし、後に結婚した。
今も仙台にいる。
年に一度か二度、実家で顔を合わせることがある。
近況は、短い言葉で届く。
新しい店に行った。
仕事が忙しい。
今度のお正月は帰れないかもしれない。
姉の生活は、あの駅の向こうで、普通に続いていた。
私は「今日、直哉さんに会った」と打った。
しばらく見つめて、消した。
彼との再会を姉へ報告すること自体が、何か間違っている気もした。
代わりに、取材用の音声を聞き直した。
店を始めた理由を話す、彼の声。
途中でカップを動かした音まで入っていた。
私はその音を聞きながら、何を言い出せずに帰ってきたのかを考えていた。
*
二度目の取材は、翌週だった。
開店前の店内で、私は写真を撮った。
カップを全部きれいに並べた棚より、洗って伏せた二つが残っている棚のほうが、店の朝らしい気がした。
そのことを話すと、直哉さんは、じゃあ片づけないでおきます、と笑った。
店の裏口には、小さな鉢が並んでいた。
花壇の写真も欲しいと言われていたが、まだ花は少なかった。
「今のままで、撮ってもいいですか」
「これで?」
「葉っぱが増えていく途中なのも、二年目らしくていいと思います」
私はしゃがんで、鉢と、その横の古い椅子を写した。
見せると、彼が画面に顔を寄せた。
私は、カメラを持つ手を少し引きそうになった。
「この椅子、載せられるんだ」
「お好きなものですか」
「最初に買った店の備品です。椅子だけ先に決めちゃって」
棚を作るより前に、ここへ置く椅子を買った。
その話を聞き、私は記事の順番を変えたくなった。
「最初のページは、この写真にしませんか」
「店内のほうが、いいかと思っていました」
「お店ができる前に、ここで過ごす時間を想像していたことが伝わると思います」
彼はもう一度、画面を見た。
「……そういうの、俺は自分で説明できないです」
私は、その言葉を嬉しいと思った。
仕事を褒められたのだから、喜んでよかった。
それなのに、家へ帰ってからも彼の顔を思い出しているのは、仕事のためだけではなかった。
取材の途中で、彼がサンドイッチを二つ作った。
開店後に出すものの確認も兼ねているという。
私が帰ってから昼食を取るつもりだと話すと、食べていきませんか、と言われた。
厚く焼いた卵と、薄く切った胡瓜。
パンの端から少しだけ卵が出ていた。
私はカメラを持ちかけて、やめた。
「撮りませんか」
「これは、食べるほうに集中したいです」
彼が笑った。
姉と一緒に実家へ来ていたころ、彼は食卓の端で、母の出すものを何でもおいしいと言っていた。
自分で料理をする人だとは知らなかった。
「昔から、お料理は?」
「一人暮らしをしてから。店のメニューは、その後、かなり練習しました」
「そうだったんですね」
「美緒さんは?」
「私は、作り置きで乗り切るほうです。平日は帰ると面倒になって」
「休みの日に?」
「はい。作りすぎて、木曜あたりで飽きます」
彼は吹き出した。
私は自分でも笑ってしまった。
誰かの妹だから席にいるのではなく、私が何を食べ、どう暮らしているかを聞かれていた。
答えると、彼が次のことを尋ねた。
そういう会話を、私はこの人としたことがなかった。
片づけを手伝おうとすると、彼は、今日はお客さんなので、と皿を取った。
姉にも、こういうものを作っていたのだろうか。
そう訊きかけて、口を閉じた。言葉にはしなかった。
「何ですか?」
「いえ。ごちそうさまでした」
彼は、お粗末さまでした、と答えた。
その優しさを受け取るたび、言える言葉が減っていく気がした。
*
姉から電話が来たのは、取材の翌日の夜だった。
実家から送ってもらった荷物に、私の本が混ざっていたという。
学生のころに買った文庫本。
いらなければ処分してもよいかと訊かれ、私は、欲しいから置いておいて、と答えた。
「まだ、ああいうの読んでるんだ」
「読むよ」
「そう。わかった」
姉の声は、普通だった。
向こうで、食器の触れ合う音がした。
隣に夫がいるのかもしれない。
「沙月」
呼ぶと、姉が、何、と答えた。
直哉さんと再会した。
私はその一言を、なかなか出せなかった。
姉に言えば、仕事をやめたほうがいいとでも言われるのだろうか。
それとも、もう昔のことでしょう、と笑うのだろうか。
「本、今度、持って帰るから」
私がそう言うと、姉は、うん、と返事をした。
電話が終わった。
私は、何も言わないまま終わらせた。
姉には幸せでいてほしかった。
あのとき、そう思った。
今も、不幸になればよいとは思わない。
けれど、あの日のことを言わずにいれば、自分もこの人と笑っていられるのではないか。
そう思い始めたことのほうが、怖かった。
*
三度目の打ち合わせで、初めて原稿を見せた。
取材した人たちの確認も取り、写真の使い方まで組んだものだった。
直哉さんは、最初のページを長く見ていた。
鉢の横の椅子の写真。
その下に、彼が一番先に買ったものだと書いてある。
「これ、母親が見たら喜びそうです」
「お母様、お店には?」
「たまに。あの椅子で休んでから、帰ります」
私は、五年前、姉との顔合わせで会った彼の母親を思い出した。
父と母に何度も頭を下げていた、穏やかな人だった。
式の中止を、誰に、どんなふうに伝えたのだろう。
私は原稿の端を揃えた。
言わなければならないと思った。
けれど彼は、次のページへ手を伸ばした。
「この地図、こっちの道も載せたんですね」
「……はい。大通りからだと迷いませんが、住宅街を抜ける道も、歩いていて楽しかったので」
私が一度歩いて作った地図だった。
駐車場の入口を避け、春になると花の鉢が並ぶ路地へ回る。
店への最短経路だけではない。
「近道じゃなくてもいいんだ」
「急いでいる日は、表を通れますから」
彼が笑った。
私はまた、その笑顔を見てしまった。
確認が終わって、店の前へ出た。
まだ明るかった。
直哉さんは地図を持ち、路地の入口を見た。
「今日、そこを歩いて帰るんですか」
「はい。駅まで」
「俺も少し、歩いていいですか。道のどこを目印にしたのか、見ておきたくて」
道の説明なら、仕事の続きだと思うことができた。
私は頷いた。
路地は、夕食の匂いがした。
彼は地図と建物を見比べ、ああ、ここか、と言った。
「見慣れていると、わからなくなりますね」
「私も、自分の家の周りは説明しづらいです」
「美緒さんは、こういう道を探すのが好きなんですか」
「好き、ですね。本屋と古い建物があると、遠回りします」
彼は、駅の反対側にも小さい本屋があると教えてくれた。
私は行ったことがなかった。
別れ際、彼が言った。
「次の休み、もし空いていたら、一緒に見に行きませんか」
私は、返事の前に彼を見た。
冊子の確認で、本屋へ行く必要はない。
彼は、そのことがわかっている顔をしていた。
「仕事とは別に。嫌でなければ」
断らなければと思うより先に、行きたいと思った。
「……はい」
彼が笑った。
駅の階段を下りながら、私は返事をした自分の声を、何度も思い出した。
*
その日の夜は、眠れなかった。
姉がいなくなったあと、直哉さんと偶然、駅で会ったことがある。
仕事帰りの私へ、彼は軽く頭を下げた。
美緒ちゃんには、いろいろ気を遣わせたね、と言った。
私は、そんなことはありません、と答えた。
あのときも、嘘をついた。
居場所を知っていたと話す機会は、五年前にもあった。
婚約の解消が決まったあとでも、姉が両親と話すため実家へ来たときでも、私は黙っていた。
今になって急に難しいことになったのではない。
私はずっと、話さずに済ませてきた。
それなのに、彼が私を見てくれるようになった途端、その沈黙を守りたくなった。
本屋の約束を断れば、それで終われるだろうか。
仕事だけを終えて、もう会わない。
彼は少し気まずく思うかもしれないが、傷ついた理由を知ることはない。
私は携帯を手に取った。
断る文面を書こうとして、指が動かなくなった。
知らないまま、私と会うかどうかを決めさせる。
それも、自分に都合がよいように、彼の選べるものを減らしている気がした。
私は一度、画面を閉じた。
水を飲み、もう一度、携帯を開いた。
『本屋に行く前に、お話ししなければならないことがあります。五年前のことです』
何度も読み直すと、送れなくなりそうだった。
私は送信を押した。
すぐに返事は来なかった。
布団の上で、朝まで待つつもりはなかった。
それでも、携帯を伏せて置くことはできなかった。
翌朝、短い返事が来た。
『わかりました。日曜、店の休みの日でよければ、少し話せますか』
私は、お願いします、と返した。
仕事の原稿ではない。
初めて、何も隠さずに会いに行こうと思った。
*
五月に入って最初の日曜、店には看板が出ていなかった。
入口を開けると、直哉さんが奥から出てきた。
エプロンはしていなかった。
「座ってください」
私は、最初に打ち合わせをした席へ座った。
彼は向かいではなく、斜めの席に腰を下ろした。
紙も、写真も、卓上にはなかった。
「五年前、姉がいなくなったときのことです」
私は膝の上で手を重ねた。
用意した言葉の、最初だけを言った。
「私、姉がどこにいるか、知っていました」
直哉さんの指が止まった。
椅子の背に置いていた手が、ゆっくり膝へ戻った。
「……いつから」
「直哉さんが実家へ来た日の、二日前からです。姉を駅まで、車で送りました。その夜、仙台の住所も送られてきていました」
私は彼の顔を見た。
彼は何も言わなかった。
続きを待っているのだとわかり、私は息を吸った。
「ほかに好きな人がいて、その人と暮らしたいと、聞いていました。直哉さんに話していないことも、知っていました」
「それで、俺には、知らないって」
「はい」
頷くと、膝の上の指が震えた。
「知っていたのに、知らないと言いました。そのあとも、言いませんでした。ごめんなさい」
店の外を、自転車が通った。
金属が小さく鳴る音がした。
それが遠ざかるまで、彼は口を開かなかった。
「あのとき、君も何もわからなくて、困っていると思ってた」
「……はい」
「君にも連絡するのは、悪いと思ってた。家族だって大変だろうから、沙月が無事だとわかってからは、もう訊かなかった」
私は頷いた。
返事をする声が出なかった。
「誰かと一緒にいるって、知ってたんだ」
「はい」
彼は一度、目を閉じた。
それから椅子の背へ体を預けた。
「住所を教えてほしかったっていう話だけじゃないんだよ」
私は顔を上げた。
「無事にいるって、言ってもらえたら。本人が連絡するとか、俺とは結婚しないつもりだとか、そこだけでも知ってたら、あの晩、違うことができた」
彼は私を見ていた。
怒っているのだとわかった。
声を荒らげられるより、その言葉のほうが、私は怖かった。
「朝になったら帰ってくるかもしれないと思って、部屋の前にいた。携帯が壊れたとか、仕事で何かあったとか。違う理由を、ずっと探してた」
私は唇を噛んだ。
彼のその時間を、私は知らなかった。
姉が着いたという連絡を見たとき、私は、もう心配しなくていいと思った。その無事だけでも、彼に伝えられたのに。
「なんで、言わなかったの」
「姉に、黙っていてほしいと頼まれて」
そこまで言って、私は首を振った。
「……それだけではありません。姉に嫌われるのが怖かったし、私が言ったら、そのあとの話に巻き込まれると思いました。だから、何も知らないことにしました」
直哉さんが、卓上へ視線を落とした。
「姉さんの味方だったんだね」
私は頷いた。
「はい。あの日は、そうでした」
涙が出そうになった。
泣いてしまったら、彼が続きを言いづらくなるかもしれない。
私は足の裏を床へ押しつけた。
「今日まで、言えなくて、ごめんなさい。今、話しても、五年前に戻せないことはわかっています」
「だったら、なんで今?」
私は手をほどいた。
指先を、膝に置いた鞄の縁に押しつけた。
「直哉さんと、仕事以外でも会いたいと思ったからです」
彼が顔を上げた。
「本屋に、行きたかったです。誘ってもらって、嬉しかった。でも、知らないまま私と会うかどうか、決めてもらってはいけないと思いました」
彼は何も言わなかった。
私は続けた。
「最初に会った日に、話すべきでした。姉の話をなさらないから、終わったことなのだと思おうとしました。でも、私がしたことは、知られていなかっただけでした」
彼が、両手で顔を覆った。
少しして、手を下ろす。
「俺は、美緒さんに会うのを、楽しみにしてたよ」
私は頷いた。
頷く以外のことをしたら、泣きそうだった。
「君に、埋め合わせをしてもらおうと思って、会ってたんじゃない。そういうつもりじゃなかった」
「はい」
「なのに、今、何を考えたらいいのか、わからない」
私は頭を下げた。
「今日は、帰ってもらえるかな」
彼が言った。
私はすぐに立ち上がった。
「はい。お仕事の連絡は、会社を通して整理します。私からは、個人的な連絡を控えます」
扉へ向かうと、直哉さんが立った。
いつものように送ってくれるのかと、一瞬思ってしまった。
彼は席の横で止まった。
「謝ってくれたことは、聞いた。でも今、大丈夫とは言えない」
私は頷いた。
彼にそう言わせたのは私だった。
「……はい。聞いてくださって、ありがとうございました」
外へ出ると、近くの家から子供の声がした。
日曜の昼前だった。
家族でどこかへ出かける人が、駅へ歩いていく。
私は店の前から離れ、角を曲がった。
涙が出たのは、そのあとだった。
*
月曜、窪田さんに担当の変更を申し出た。
「先方と、何かあった?」
私は、五年前に姉の行動を知りながら嘘をついたこと、その話を昨日、本人へしたことを説明した。
仕事を受けたときに事情を伝えきっていなかったことも、謝った。
窪田さんは、話を聞いてから息を吐いた。
「それを、私が知っていたら、あなた一人には任せなかった」
「はい」
「先方に確認する。担当を替えて、私と別の人で引き継ぐ。今ある取材資料は整理して渡して」
私は頷いた。
「美緒。ここで仕事を投げ出すことと、私的なことで距離を取ることは、分けて考えて」
窪田さんは、私の机の原稿を指した。
「話した方の確認も取ってあるんでしょう。引き継げる形にして。自分に罰を与えるために、原稿まで捨てないで」
私は、はい、と答えた。
直哉さんは、担当変更を了承した。
原稿と写真は、既に確認していた内容を使ってよいという返事が、窪田さんへ来た。
追加の確認は、彼と店のスタッフが窪田さんと進めることになった。
私が彼へ直接、仕事のメールを送ることはなくなった。
写真の元データを整理し、取材の確認履歴を揃える。
誰から何を聞いたか、まだ返事が来ていないのはどこか。
曖昧なまま、引き継いではいけなかった。
終わると、共有フォルダに原稿を置いた。
最初のページの椅子の写真を、一度だけ見た。
彼が笑った顔を思い出したが、画面を閉じた。
*
姉へ電話をしたのは、その週の水曜だった。
直哉さんと仕事で再会したこと。
五年前のことを話したこと。
姉を送ったのは自分だと、初めて伝えたこと。
黙って聞いていた姉は、最後に、どうして今さら、と言った。
「姉が嫌になったからじゃない。私が嘘をついたから、私が話した」
「でも、もう終わった話でしょう。費用のことだって、ちゃんと終わらせたよ」
「直哉さんと沙月の婚約は、ね」
私は、携帯を持つ手を替えた。
「私が何も知らないと思っていた人に、知らないふりをして会った。私は、それを続けたくなかった」
「それで、お店の仕事もできなくなったの?」
「担当は替わった」
「……そんなの、美緒まで損をすることないのに」
私は少し黙った。
姉の言葉を聞いていると、五年前にも、同じように頷けた気がした。
この人は、私を困らせたいわけではない。
でも、自分が困らずに済む答えと、私が引き受けられる答えが、いつも同じになるわけではない。
「沙月。駅へ送ったことを、私も選んだんだよ」
姉が黙った。
「頼まれて、断れなかっただけだって、ずっと思おうとしてた。でも、車を出したのも、直哉さんに知らないと言ったのも、私だった」
「……私が、巻き込んだから」
「巻き込んだと思うなら、あの人が傷ついたことまで、もう終わったって決めないで」
姉が息を吸った。
私は初めて、少し強い声を出したのだと気づいた。
「沙月と暮らす人を、私が決めることはできない。だからといって、誰かを傷つけるところを、これからも手伝うことはできない」
姉は、しばらく何も言わなかった。
やがて、私が彼とどんな話をしたのか訊いた。
私は、そこまでは話さないと答えた。
電話を切ったあと、姉から短いメッセージが来た。
『五年前、助けてもらって、ありがとうって思ってた。あれを助けてもらったって言っていいのか、考えてなかった。ごめん』
私はすぐには返さなかった。
翌朝、「読んだよ」とだけ送った。
*
週末には、実家へ行った。
父と母にも、駅へ送ったことと、姉の住所を知っていたことを話した。
二人とも知らなかった。
母は、どうしてそのとき言ってくれなかったの、と言った。
「お姉ちゃんが心配で、こっちも探していたのに」
「ごめん」
私は頭を下げた。
父はしばらく黙っていた。
やがて、直哉さんにも話したのか、と尋ねた。
私が頷くと、そうか、と答えた。
「沙月が結婚をやめたことは、沙月がしたことだ。お前が全部、背負う話じゃない」
私は父を見た。
「だが、知らないと答えたことまで、沙月がしたことにはならないだろう」
「……うん」
私は頷いた。
誰かにそう言ってほしかった気もしたし、言われるのが怖かった気もした。
帰り際、母が、直哉さんに何かできることはないかと言った。
私は、今は自分から連絡をしないでほしいと頼んだ。
「私を許すように、頼まないで。私からも、そういうお願いはしない」
母は一度、口を開き、閉じた。
それから、わかった、と頷いた。
実家を出ても、何も軽くなった気はしなかった。
言ったから終わるのなら、もっと早く話せたかもしれない。
ただ、これから誰かに訊かれても、違う話を作らずに済む。
今は、それだけだった。
*
六月、冊子が出来上がった。
窪田さんが、会社へ届いた見本を一部、私の机へ置いた。
薄い紙を折った、小さな本。
表紙には店の窓があり、めくると、鉢の横の椅子の写真があった。
「予定通り、配れるって」
「そうですか」
私はページをめくった。
原稿は少し直っていた。
写真の順番も一か所変わっていた。
店の人たちと、窪田さんと、ほかの担当者が、最後まで仕上げてくれたものだった。
自分が取材した部分だけを、特別なもののようには思いたくなかった。
でも、捨てられていなかったことには、ほっとした。
「先方、喜んでたよ」
窪田さんは、それだけ言って自分の席へ戻った。
私がどう受け取るべきかまでは、教えなかった。
私は冊子を鞄へ入れた。
帰宅してから、もう一度読んだ。
直哉さんが話してくれたこと。
私が聞き、知らなかった顔を知った時間。
その全部が、なかったことになったわけではなかった。
それでも、出来上がった礼を言うために、彼へ連絡はしなかった。
私が引き受けた仕事については、会社を通して終わっている。
仕事を理由に、個人的な返事を取りに行きたくなかった。
*
彼からメッセージが来たのは、六月の終わりだった。
『少し、会って話せますか』
その一行を見たあと、私はしばらく携帯を持ったまま座っていた。
嬉しいと思った。
嬉しいと思ってはいけない気がした。
でも、会うと決めたのは彼だった。
会いたいと答えるかどうかは、私が決めることだった。
『はい。お会いしたいです』
返事を送った。
日曜の昼、店ではない場所で会うことになった。
駅の近くの、小さな公園だった。
直哉さんは、先に来ていた。
ベンチの前で立っていて、私を見ると、軽く手を上げた。
私は近づき、頭を下げた。
「来てくれて、ありがとう」
「こちらこそ」
それから二人とも、少し黙った。
謝罪をもう一度すれば、どこかへ進めるのだろうか。
そう思ったが、彼が話し始めるまで待った。
「冊子、出来上がりました」
「会社で、見本をもらいました」
「いいものにしてもらって。ありがとう」
私は頷いた。
「ほかの人たちも、最後まで見てくださったので」
「うん。窪田さんにも、お礼は言った」
彼は、公園の道へ目を向けた。
「俺、美緒さんに、あの話を聞かなければよかったと思った日があった」
私は、顔を上げた。
「聞かなければ、一緒に本屋へ行けた。普通に話せた。帰ってから、今日は楽しかったって思えたかもしれない」
「……はい」
「でも、それを続けて、もっと後で知ったら、今よりつらかったと思う」
彼はベンチを指し、私が頷くと隣へ座った。
間に、一人分くらいの隙間があった。
「一つ、訊いてもいいかな」
「はい」
「沙月に頼まれたとか、俺に何かしてやろうとか、そういう理由で、店の仕事を受けたわけではないんだよね」
「違います。店主が直哉さんだとは、初めて伺った日まで知りませんでした」
彼は頷いた。
私はその横顔を見た。
「ただ、最初の日に担当を替わることは、できました。そうしなかったのは、私の判断です」
「どうして、替わらなかったの」
「姉の話をされなかったから。仕事だけなら、五年前のことに触れずに済むと思ったのも、あります」
私は手元を見た。
「それから、直哉さんの話を聞くのが、面白かったです。こういうことを考える人だったのだと、初めて知って。それが、嬉しくなりました」
彼は黙って聞いていた。
私は続けた。
「その嬉しさをなくしたくなくて、話すのが遅くなりました」
直哉さんは、両肘を膝へ置いた。
「俺は、君が何も知らなかったから、好きになりかけたわけじゃないんだ」
私は、息を止めた。
「でも、あのとき一緒に隠していたって聞いたら、何も変わらないとも思えなかった。姉のことは関係ないって言って、それで済ませられる話じゃなかった」
「はい」
「だから、離れた。そのまま、もう会わないほうがいいのかもって思った」
彼は、私のほうを向いた。
「でも、話したことを思い出すんだよ。木曜に作り置きに飽きるとか、本屋があると遠回りするとか。あの路地も、実際に歩いてみたんだなって」
私は目を伏せた。
そんな小さな話を、覚えていてくれた。
「もう一度、会ってみたいと思った。五年前のことを知ったうえで、それでも」
私は顔を上げた。
彼は、私の返事を待っていた。
「私は、会いたいです」
声に出すと、目が熱くなった。
「許してもらいたい気持ちも、あります。でも、そのために私と会ってほしいとは、頼めません」
「うん」
「だから、直哉さんが会いたいと思ってくださったことが、嬉しいです」
彼は一度、息を吐いた。
それから、小さく頷いた。
「まだ、言い方がうまくできないんだけど。何もなかったことにするとは、約束できない」
「はい」
「君が毎回、謝るために来るようになるのも、違うと思う」
私は頷いた。
その二つを、どちらも覚えていたかった。
公園の向こうから、小さな子供が走ってきた。
母親らしい人が追いかけ、二人で笑いながら通り過ぎた。
私たちは少し黙って、それを見ていた。
「本屋、まだ、行きたい?」
直哉さんが尋ねた。
私は一度、彼を見てから頷いた。
「行きたいです」
彼が立ち上がった。
私も立った。
並んで歩き始めたときには、まだ、少し距離があった。
*
本屋は、古いビルの二階にあった。
一階の階段脇に、新しい本の表紙が何冊か飾られている。
直哉さんは、先に上がってもよいかと私を見た。
私は頷いた。
店の中は、紙と木の匂いがした。
彼は写真集の棚へ向かい、私は文庫の背表紙を見た。
ずっと隣にいなくても、同じ場所にいることがわかった。
一冊、手に取った本があった。
姉から返してもらうはずの、あの作家の新刊だった。
私は少し迷い、そのまま持った。
「それ、どんな話ですか」
隣に来た直哉さんが尋ねた。
私はあらすじを読み、まだわからないけれど、この人の文章が好きだと答えた。
「買いますか」
「はい」
「読んだら、感想を聞いてもいい?」
「……はい。読み終わったら」
私はレジへ向かった。
次に話すことが、一つできた。
それを、償いの約束にはしたくなかった。
帰り道、彼は店を始める前に買った本の話をした。
料理の本より、店の写真集のほうを何度も見ていたのだという。
私は、自分が編集の仕事を選んだ理由を話した。
大した理由ではなく、読んだことを誰かに話すのが好きだったからだ。
彼は、そういうところは昔から変わっていないんですね、と言いかけて、首を傾げた。
「……いや、俺が知らなかっただけだね」
私は少し笑った。
「私も、直哉さんのことを知りませんでした」
姉の婚約者。
それが、この人について、私がいちばんよく使っていた説明だった。
今は、それだけでは足りなかった。
*
七月には、二度、会った。
一度は駅前で昼食を取り、一度は互いに読み終えた本を持ってきた。
ぎこちなくなる日もあった。
彼が、昔、沙月と、と言いかけて止まったことがある。
私は、聞こえなかったふりをしなかった。
「その話が必要なら、話してほしいです」
そう言うと、彼は少し考えて、今話すほどのことではないけれど、気を遣って全部を消すつもりもないと答えた。
「はい」
私は頷いた。
彼の過去に私の姉がいることを、私の都合でなくすことはできなかった。
私からも、姉と電話で話したことを伝えた。
内容を一つずつ説明するのではなく、今後、誰かに同じように黙っていてほしいと頼まれても、そのまま引き受けるつもりはないと話した。
「直哉さんに、何か言うよう頼んではいません」
「うん」
「家族からも、私を許してほしいと連絡しないように、話しました」
彼は頷いた。
それで、私のことを褒めたりはしなかった。
私も、そのために話したのではなかった。
八月の初め、店の休みに、二人で川沿いを歩いた。
日差しが強く、途中から木陰を選んで進んだ。
直哉さんが、歩く速さを落とした。
「美緒さん」
呼ばれて、私は顔を上げた。
「今、好きです」
私は立ち止まった。
彼も止まった。
「昔からとか、そういうことじゃなくて。今、会って話している君のことが、好きです」
私は、すぐには返事ができなかった。
嬉しかった。
その嬉しさの中に、五年前の記憶もあった。
「私も、好きです」
言うと、彼の表情が少し緩んだ。
私は続けた。
「でも、姉に会うことを、無理にお願いしたりはしません。家族だから、うまくやってほしいとも、言いません」
「それは、俺に決めさせてほしい」
「はい」
彼は頷いた。
「沙月と俺の話を、君と俺の交際で片づけるつもりはないから」
私は、その言葉を聞いていた。
姉がしたことも、私がしたことも、この人と付き合えたから正しかったことにはならない。
「一緒にいてもらえますか」
彼が訊いた。
私は頷いた。
「はい。私も、一緒にいたいです」
直哉さんが、ゆっくり手を差し出した。
私はその手を取った。
指が触れたあと、二人とも、少し力を込めた。
五年前のことが、消えたのではなかった。
彼は、知ってから、私を選んだ。
私は、知ってもらってから、隣へ行けた。
*
秋、私たちは、もう一度あの本屋へ行った。
店主に声をかけられ、私は新しく買った本の話をした。
直哉さんは写真集の棚を見ていたが、帰るときには料理の本を持っていた。
今度、店の新しいメニューに試したいという。
「じゃあ、味見は?」
「まだ、頼んでないです」
「私は、空いてます」
言うと、彼が笑った。
交際を始めたことは、両親にも伝えてあった。
駅まで歩く途中、母から電話が来た。
私は画面を見て、彼に、少しだけ話してもいいかと訊いた。
彼が頷いたので、道の端へ寄った。
母は、次の週末、実家へ来られるかと尋ねた。
姉も帰ってくる予定だという。
私は一度、彼のほうを見た。
彼は少し離れた場所で、書店の袋を持って待っていた。
「今、直哉さんと出かけてる。あとで私の予定を確認して、返事するね」
私はそう答えた。
姉が来ることを伏せても、逆に彼へ全部の判断を頼んでも、違うと思った。
電話を切り、彼のところへ戻った。
「来週、姉が実家へ戻るそうです。私は、行くかどうか、あとで考えます」
直哉さんは、わかった、と答えた。
私が彼を誘うために言っているのではないことは、伝わったと思った。
「言いづらかった?」
「少し」
「うん」
彼は頷き、私の手に指を触れた。
私は、その手を握った。
まだ、うまく話せないことはある。
一度で正しい言葉が出るようにも、なっていない。
けれど、言わなければ何も起きないと思うのは、もうやめたかった。
駅の前で、彼が私を呼んだ。
「美緒。来週、あの本の話、聞かせてくれる?」
呼び捨てにされたのは、初めてだった。
私は、返事の前に少し笑ってしまった。
「うん。本も、ちゃんと持っていく」
彼が私を見て笑った。
私は、借りた本が机の上にあることを思い出した。
読み終えて、話したいところに、小さな紙を挟んである。
姉に借りたものでも、姉から頼まれたものでもない。
私が好きだと言って、彼が貸してくれた本だった。
私は彼の手を引いて、駅へ向かった。
次に会う日は、二人で決めていた。
~完~




