↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

姉の婚約者だった人から、五年ぶりに名前を呼ばれました

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/30

「美緒さん?」


 名刺を差し出しかけた手が、止まった。


 店の奥から出てきた人は、五年前より少し髪が短かった。

 シャツの袖を肘までまくり、腰に濃い灰色のエプロンを巻いている。

 こんな格好をする人だっただろうか。

 そう思ってから、私はこの人のことを、ほとんど知らなかったのだと気づいた。


「……直哉さん」


 岡崎直哉。

 姉の婚約者だった人。

 そして五年前、私が嘘をついた人だった。


 四月の半ばだった。制作会社で編集の仕事をしている私が、その店へ行ったのは、開店二周年の小冊子を作るためだった。

 依頼は会社の問い合わせ窓口から入り、店名と内容だけを見て、私が担当になった。

 最初の打ち合わせを調整したのは店のスタッフで、店主とは今日、初めて会う予定だった。


 隣にいた先輩の窪田さんが、私と彼を見比べた。


「お知り合いでしたか」

「以前、少し」


 私が答えるより先に、直哉さんが言った。


「どうぞ。まだ開店前なので、奥の席を使ってください」


 私は差し出したままの名刺を、ようやく渡した。

 彼の指が、紙の端を持つ。

 瀬川美緒、と印刷された自分の名前を見ている、その顔から何か読み取ろうとしてしまった。


「今、こちらのお仕事をされているんですね」

「はい」

「よろしくお願いします」


 姉の話は、出なかった。


     *


 家族が姉の失踪に気づいたのは、結婚式の十日前だった。


 その二日前、私は車で姉を駅まで送った。

 後部座席には、大きなキャリーケースが一つと、紙袋が二つあった。

 姉は助手席で、ずっと指を組んだりほどいたりしていた。


「私、このまま結婚できない」


 信号待ちで、そう言われた。


 私は、直哉さんに話したの、と尋ねた。

 姉は首を振った。


「話したら、行かせてもらえなくなる」

「直哉さんが?」

「違う。あの人は、きっと、ちゃんと話そうって言う。お父さんたちも、式はどうするのって。そうやって話しているうちに、私、何も言えなくなる」


 姉は二十七歳だった。

 私と直哉さんは、二十五歳。

 姉は泣くと、私にはいつもより幼く見えた。

 子供のころには、私を学校まで連れていってくれた人なのに。


「ほかに、好きな人がいるの」


 姉は仕事先で知り合った男性と、二か月前から会っていた。

 その人が転勤する。一緒に来てほしいと言われた。

 直哉さんとの結婚をやめて、その人と暮らしたい。


 私は車のハンドルを握っていた。


「でも、いなくなるのは違うでしょう」

「わかってる」


 姉は泣いた。


「わかってるけど、今、誰にも会いたくない。美緒だけ、お願い。あとで絶対に連絡するから」


 何をお願いされているのか、本当はわかっていた。

 黙って送り出してほしいということだ。

 姉が自分で説明しなければならない時間を、私にも隠してほしいということだった。


 私は、そこで車を引き返さなかった。


 駅へ着くと、姉は私の手を握った。


「ありがとう。ごめんね」


 あとで泊まる場所を送るから、と言って、荷物を引いていった。

 私は実家へ戻った。

 その夜、姉から、新しく住む部屋の住所が届いた。

 仙台だった。

 相手の男性の名字も、部屋番号も、私は画面で見た。


 二日後、直哉さんが実家へ来た。


 姉とは連絡が取れなくなっていた。

 一人暮らしの部屋は、身の回りのものだけが片づけられていたという。

 彼は玄関で母と話し、それから、居間から出てきた私を見た。


「美緒ちゃん。沙月がどこにいるか、知らない?」


 彼の声は、少し嗄れていた。


 私は姉の居場所を知っていた。

 もう駅から離れた場所にいて、誰と暮らしているかも知っていた。

 それでも、首を振った。


「知りません」


 直哉さんは、私の顔をしばらく見た。

 そのとき、姉からのメッセージが、鞄の中の携帯に届いた。

 通知の振動を、私は聞かなかったふりをした。


「何か連絡が来たら、教えてもらえるかな」


 私は頷いた。

 彼は、お願いします、と言った。


 姉が両親へ無事を知らせたのは、その翌日だった。

 結婚はできない、探さないでほしいと。

 直哉さんも、その後は姉が自分の意思で出ていったと知った。


 式は中止になった。

 姉が彼へ直接連絡したのは、さらに後だった。

 両家の間で準備費用や荷物の話が進み、数か月後には、婚約解消の手続きは終わったと母から聞いた。


 私は、あの二日前に何をしたかを、誰にも言わなかった。


 止められなかった。

 私がいなくても、姉は行った。

 そう考えれば、自分がしたことが少し軽くなる気がした。


 けれど、知りません、と答えたのは私だ。

 それを姉に代わりに言ってもらうことはできなかった。


     *


 五年ぶりに会った直哉さんは、小さな喫茶店の店主になっていた。


 店の名は「つづり」。

 住宅街へ入る手前の、角の建物だった。

 表の大きな窓から、カウンターと、窓際の長い席が見える。


 冊子は店で販売するものではなく、六月の二周年の日から来店客へ渡す予定だった。

 店の紹介に、開店からの写真と、近所を歩く短い地図を添える。

 窪田さんは最初の確認だけ立ち会い、取材と構成は私が引き受けることになっていた。


「お店の歴史、というほど長くないんですが」


 直哉さんは、卓上へ写真を並べた。


「この棚を作った人とか、花を持ってきてくれる人とか。自分のことだけより、そういう人のことも残せたらと思って」


 私は写真を見た。

 まだ何も入っていない店内。

 壁に棚を取り付ける人。

 カウンターに、初めてカップが並んだ日の写真。


 私が姉から送られてくる近況へ、曖昧な返事をしていたころ。

 この人は、この店を作っていた。


「全部の方を載せると、説明が足りなくなるかもしれません」


 私は、仕事の声を出した。


「今回は何人かに絞って、お店との関わりがわかるように見せるのはどうでしょう」

「そのほうが、読みやすいですか」

「はい。詳しく聞く時間をいただけるなら」

「もちろん」


 彼は頷き、写真をこちらへ寄せた。

 私はそれを、裏に書かれた日付ごとに分けた。


 窪田さんが先に帰ったあと、確認することが幾つか残った。

 彼は会社の仕事を辞めて、三年前に店の準備を始めたのだという。

 会社員のころから、いつか自分で店をやりたいと考えていたらしい。


「知りませんでした」


 私が言うと、彼は少し笑った。


「そういう話を、する機会はなかったですね」


 あったのかもしれない。

 でも、私は姉の隣にいるこの人を、姉の話を聞いている人としてしか見ていなかった。

 実家の食卓で、父に酒を注がれていた姿は覚えている。

 何が好きか、何をしたいかは、知らなかった。


 打ち合わせを終え、鞄を持つ。

 直哉さんは店の扉まで送ってくれた。


「久しぶりに会えて、驚きました」

「……私もです」

「やりにくければ、会社へ相談してもらって構いません」


 私は顔を上げた。

 彼は、私を責めるような顔をしていなかった。


「その、ご家族のことがありますから」

「大丈夫です」


 口から出たあとで、しまったと思った。

 大丈夫かどうかを、私だけで決めてはいけなかった。


「お仕事は、きちんとやります」


 言い直すと、彼は、お願いします、と答えた。

 その声が、五年前の玄関と重なった。


     *


 会社へ戻ってから、窪田さんに事情を聞かれた。

 私は、姉の元婚約者だとだけ話した。


「それは、先にわかっていれば、担当を考えたけど」

「店名では、気づかなくて」

「続けられる?」

「はい」


 窪田さんは少し考えた。


「困ったら早めに言って。相手先にも確認するから」


 私は頷いた。

 自分のしたことまで話す代わりに、取材の予定を説明した。

 仕事で会うだけ。

 終わった関係について、今から口を挟む必要はない。


 そう言い聞かせたのは、私だった。


 夜、姉とのメッセージを開いた。

 姉はあの男性と暮らし、後に結婚した。

 今も仙台にいる。

 年に一度か二度、実家で顔を合わせることがある。


 近況は、短い言葉で届く。

 新しい店に行った。

 仕事が忙しい。

 今度のお正月は帰れないかもしれない。


 姉の生活は、あの駅の向こうで、普通に続いていた。


 私は「今日、直哉さんに会った」と打った。

 しばらく見つめて、消した。

 彼との再会を姉へ報告すること自体が、何か間違っている気もした。


 代わりに、取材用の音声を聞き直した。

 店を始めた理由を話す、彼の声。

 途中でカップを動かした音まで入っていた。


 私はその音を聞きながら、何を言い出せずに帰ってきたのかを考えていた。


     *


 二度目の取材は、翌週だった。


 開店前の店内で、私は写真を撮った。

 カップを全部きれいに並べた棚より、洗って伏せた二つが残っている棚のほうが、店の朝らしい気がした。

 そのことを話すと、直哉さんは、じゃあ片づけないでおきます、と笑った。


 店の裏口には、小さな鉢が並んでいた。

 花壇の写真も欲しいと言われていたが、まだ花は少なかった。


「今のままで、撮ってもいいですか」

「これで?」

「葉っぱが増えていく途中なのも、二年目らしくていいと思います」


 私はしゃがんで、鉢と、その横の古い椅子を写した。

 見せると、彼が画面に顔を寄せた。

 私は、カメラを持つ手を少し引きそうになった。


「この椅子、載せられるんだ」

「お好きなものですか」

「最初に買った店の備品です。椅子だけ先に決めちゃって」


 棚を作るより前に、ここへ置く椅子を買った。

 その話を聞き、私は記事の順番を変えたくなった。


「最初のページは、この写真にしませんか」

「店内のほうが、いいかと思っていました」

「お店ができる前に、ここで過ごす時間を想像していたことが伝わると思います」


 彼はもう一度、画面を見た。


「……そういうの、俺は自分で説明できないです」


 私は、その言葉を嬉しいと思った。

 仕事を褒められたのだから、喜んでよかった。

 それなのに、家へ帰ってからも彼の顔を思い出しているのは、仕事のためだけではなかった。


 取材の途中で、彼がサンドイッチを二つ作った。

 開店後に出すものの確認も兼ねているという。

 私が帰ってから昼食を取るつもりだと話すと、食べていきませんか、と言われた。


 厚く焼いた卵と、薄く切った胡瓜。

 パンの端から少しだけ卵が出ていた。

 私はカメラを持ちかけて、やめた。


「撮りませんか」

「これは、食べるほうに集中したいです」


 彼が笑った。


 姉と一緒に実家へ来ていたころ、彼は食卓の端で、母の出すものを何でもおいしいと言っていた。

 自分で料理をする人だとは知らなかった。


「昔から、お料理は?」

「一人暮らしをしてから。店のメニューは、その後、かなり練習しました」

「そうだったんですね」

「美緒さんは?」

「私は、作り置きで乗り切るほうです。平日は帰ると面倒になって」

「休みの日に?」

「はい。作りすぎて、木曜あたりで飽きます」


 彼は吹き出した。

 私は自分でも笑ってしまった。


 誰かの妹だから席にいるのではなく、私が何を食べ、どう暮らしているかを聞かれていた。

 答えると、彼が次のことを尋ねた。

 そういう会話を、私はこの人としたことがなかった。


 片づけを手伝おうとすると、彼は、今日はお客さんなので、と皿を取った。


 姉にも、こういうものを作っていたのだろうか。

 そう訊きかけて、口を閉じた。言葉にはしなかった。


「何ですか?」

「いえ。ごちそうさまでした」


 彼は、お粗末さまでした、と答えた。

 その優しさを受け取るたび、言える言葉が減っていく気がした。


     *


 姉から電話が来たのは、取材の翌日の夜だった。


 実家から送ってもらった荷物に、私の本が混ざっていたという。

 学生のころに買った文庫本。

 いらなければ処分してもよいかと訊かれ、私は、欲しいから置いておいて、と答えた。


「まだ、ああいうの読んでるんだ」

「読むよ」

「そう。わかった」


 姉の声は、普通だった。

 向こうで、食器の触れ合う音がした。

 隣に夫がいるのかもしれない。


「沙月」


 呼ぶと、姉が、何、と答えた。


 直哉さんと再会した。

 私はその一言を、なかなか出せなかった。

 姉に言えば、仕事をやめたほうがいいとでも言われるのだろうか。

 それとも、もう昔のことでしょう、と笑うのだろうか。


「本、今度、持って帰るから」


 私がそう言うと、姉は、うん、と返事をした。

 電話が終わった。

 私は、何も言わないまま終わらせた。


 姉には幸せでいてほしかった。

 あのとき、そう思った。

 今も、不幸になればよいとは思わない。


 けれど、あの日のことを言わずにいれば、自分もこの人と笑っていられるのではないか。

 そう思い始めたことのほうが、怖かった。


     *


 三度目の打ち合わせで、初めて原稿を見せた。

 取材した人たちの確認も取り、写真の使い方まで組んだものだった。


 直哉さんは、最初のページを長く見ていた。

 鉢の横の椅子の写真。

 その下に、彼が一番先に買ったものだと書いてある。


「これ、母親が見たら喜びそうです」

「お母様、お店には?」

「たまに。あの椅子で休んでから、帰ります」


 私は、五年前、姉との顔合わせで会った彼の母親を思い出した。

 父と母に何度も頭を下げていた、穏やかな人だった。

 式の中止を、誰に、どんなふうに伝えたのだろう。


 私は原稿の端を揃えた。

 言わなければならないと思った。


 けれど彼は、次のページへ手を伸ばした。


「この地図、こっちの道も載せたんですね」

「……はい。大通りからだと迷いませんが、住宅街を抜ける道も、歩いていて楽しかったので」


 私が一度歩いて作った地図だった。

 駐車場の入口を避け、春になると花の鉢が並ぶ路地へ回る。

 店への最短経路だけではない。


「近道じゃなくてもいいんだ」

「急いでいる日は、表を通れますから」


 彼が笑った。

 私はまた、その笑顔を見てしまった。


 確認が終わって、店の前へ出た。

 まだ明るかった。

 直哉さんは地図を持ち、路地の入口を見た。


「今日、そこを歩いて帰るんですか」

「はい。駅まで」

「俺も少し、歩いていいですか。道のどこを目印にしたのか、見ておきたくて」


 道の説明なら、仕事の続きだと思うことができた。

 私は頷いた。


 路地は、夕食の匂いがした。

 彼は地図と建物を見比べ、ああ、ここか、と言った。


「見慣れていると、わからなくなりますね」

「私も、自分の家の周りは説明しづらいです」

「美緒さんは、こういう道を探すのが好きなんですか」

「好き、ですね。本屋と古い建物があると、遠回りします」


 彼は、駅の反対側にも小さい本屋があると教えてくれた。

 私は行ったことがなかった。


 別れ際、彼が言った。


「次の休み、もし空いていたら、一緒に見に行きませんか」


 私は、返事の前に彼を見た。

 冊子の確認で、本屋へ行く必要はない。

 彼は、そのことがわかっている顔をしていた。


「仕事とは別に。嫌でなければ」


 断らなければと思うより先に、行きたいと思った。


「……はい」


 彼が笑った。

 駅の階段を下りながら、私は返事をした自分の声を、何度も思い出した。


     *


 その日の夜は、眠れなかった。


 姉がいなくなったあと、直哉さんと偶然、駅で会ったことがある。

 仕事帰りの私へ、彼は軽く頭を下げた。

 美緒ちゃんには、いろいろ気を遣わせたね、と言った。

 私は、そんなことはありません、と答えた。


 あのときも、嘘をついた。


 居場所を知っていたと話す機会は、五年前にもあった。

 婚約の解消が決まったあとでも、姉が両親と話すため実家へ来たときでも、私は黙っていた。

 今になって急に難しいことになったのではない。

 私はずっと、話さずに済ませてきた。


 それなのに、彼が私を見てくれるようになった途端、その沈黙を守りたくなった。


 本屋の約束を断れば、それで終われるだろうか。

 仕事だけを終えて、もう会わない。

 彼は少し気まずく思うかもしれないが、傷ついた理由を知ることはない。


 私は携帯を手に取った。

 断る文面を書こうとして、指が動かなくなった。


 知らないまま、私と会うかどうかを決めさせる。

 それも、自分に都合がよいように、彼の選べるものを減らしている気がした。


 私は一度、画面を閉じた。

 水を飲み、もう一度、携帯を開いた。


『本屋に行く前に、お話ししなければならないことがあります。五年前のことです』


 何度も読み直すと、送れなくなりそうだった。

 私は送信を押した。

 すぐに返事は来なかった。


 布団の上で、朝まで待つつもりはなかった。

 それでも、携帯を伏せて置くことはできなかった。


 翌朝、短い返事が来た。


『わかりました。日曜、店の休みの日でよければ、少し話せますか』


 私は、お願いします、と返した。

 仕事の原稿ではない。

 初めて、何も隠さずに会いに行こうと思った。


     *


 五月に入って最初の日曜、店には看板が出ていなかった。

 入口を開けると、直哉さんが奥から出てきた。

 エプロンはしていなかった。


「座ってください」


 私は、最初に打ち合わせをした席へ座った。

 彼は向かいではなく、斜めの席に腰を下ろした。

 紙も、写真も、卓上にはなかった。


「五年前、姉がいなくなったときのことです」


 私は膝の上で手を重ねた。

 用意した言葉の、最初だけを言った。


「私、姉がどこにいるか、知っていました」


 直哉さんの指が止まった。

 椅子の背に置いていた手が、ゆっくり膝へ戻った。


「……いつから」


「直哉さんが実家へ来た日の、二日前からです。姉を駅まで、車で送りました。その夜、仙台の住所も送られてきていました」


 私は彼の顔を見た。

 彼は何も言わなかった。

 続きを待っているのだとわかり、私は息を吸った。


「ほかに好きな人がいて、その人と暮らしたいと、聞いていました。直哉さんに話していないことも、知っていました」


「それで、俺には、知らないって」


「はい」


 頷くと、膝の上の指が震えた。


「知っていたのに、知らないと言いました。そのあとも、言いませんでした。ごめんなさい」


 店の外を、自転車が通った。

 金属が小さく鳴る音がした。

 それが遠ざかるまで、彼は口を開かなかった。


「あのとき、君も何もわからなくて、困っていると思ってた」


「……はい」


「君にも連絡するのは、悪いと思ってた。家族だって大変だろうから、沙月が無事だとわかってからは、もう訊かなかった」


 私は頷いた。

 返事をする声が出なかった。


「誰かと一緒にいるって、知ってたんだ」


「はい」


 彼は一度、目を閉じた。

 それから椅子の背へ体を預けた。


「住所を教えてほしかったっていう話だけじゃないんだよ」


 私は顔を上げた。


「無事にいるって、言ってもらえたら。本人が連絡するとか、俺とは結婚しないつもりだとか、そこだけでも知ってたら、あの晩、違うことができた」


 彼は私を見ていた。

 怒っているのだとわかった。

 声を荒らげられるより、その言葉のほうが、私は怖かった。


「朝になったら帰ってくるかもしれないと思って、部屋の前にいた。携帯が壊れたとか、仕事で何かあったとか。違う理由を、ずっと探してた」


 私は唇を噛んだ。

 彼のその時間を、私は知らなかった。

 姉が着いたという連絡を見たとき、私は、もう心配しなくていいと思った。その無事だけでも、彼に伝えられたのに。


「なんで、言わなかったの」


「姉に、黙っていてほしいと頼まれて」


 そこまで言って、私は首を振った。


「……それだけではありません。姉に嫌われるのが怖かったし、私が言ったら、そのあとの話に巻き込まれると思いました。だから、何も知らないことにしました」


 直哉さんが、卓上へ視線を落とした。


「姉さんの味方だったんだね」


 私は頷いた。


「はい。あの日は、そうでした」


 涙が出そうになった。

 泣いてしまったら、彼が続きを言いづらくなるかもしれない。

 私は足の裏を床へ押しつけた。


「今日まで、言えなくて、ごめんなさい。今、話しても、五年前に戻せないことはわかっています」


「だったら、なんで今?」


 私は手をほどいた。

 指先を、膝に置いた鞄の縁に押しつけた。


「直哉さんと、仕事以外でも会いたいと思ったからです」


 彼が顔を上げた。


「本屋に、行きたかったです。誘ってもらって、嬉しかった。でも、知らないまま私と会うかどうか、決めてもらってはいけないと思いました」


 彼は何も言わなかった。

 私は続けた。


「最初に会った日に、話すべきでした。姉の話をなさらないから、終わったことなのだと思おうとしました。でも、私がしたことは、知られていなかっただけでした」


 彼が、両手で顔を覆った。

 少しして、手を下ろす。


「俺は、美緒さんに会うのを、楽しみにしてたよ」


 私は頷いた。

 頷く以外のことをしたら、泣きそうだった。


「君に、埋め合わせをしてもらおうと思って、会ってたんじゃない。そういうつもりじゃなかった」


「はい」


「なのに、今、何を考えたらいいのか、わからない」


 私は頭を下げた。


「今日は、帰ってもらえるかな」


 彼が言った。

 私はすぐに立ち上がった。


「はい。お仕事の連絡は、会社を通して整理します。私からは、個人的な連絡を控えます」


 扉へ向かうと、直哉さんが立った。

 いつものように送ってくれるのかと、一瞬思ってしまった。

 彼は席の横で止まった。


「謝ってくれたことは、聞いた。でも今、大丈夫とは言えない」


 私は頷いた。

 彼にそう言わせたのは私だった。


「……はい。聞いてくださって、ありがとうございました」


 外へ出ると、近くの家から子供の声がした。

 日曜の昼前だった。

 家族でどこかへ出かける人が、駅へ歩いていく。

 私は店の前から離れ、角を曲がった。


 涙が出たのは、そのあとだった。


     *


 月曜、窪田さんに担当の変更を申し出た。


「先方と、何かあった?」


 私は、五年前に姉の行動を知りながら嘘をついたこと、その話を昨日、本人へしたことを説明した。

 仕事を受けたときに事情を伝えきっていなかったことも、謝った。


 窪田さんは、話を聞いてから息を吐いた。


「それを、私が知っていたら、あなた一人には任せなかった」


「はい」


「先方に確認する。担当を替えて、私と別の人で引き継ぐ。今ある取材資料は整理して渡して」


 私は頷いた。


「美緒。ここで仕事を投げ出すことと、私的なことで距離を取ることは、分けて考えて」


 窪田さんは、私の机の原稿を指した。


「話した方の確認も取ってあるんでしょう。引き継げる形にして。自分に罰を与えるために、原稿まで捨てないで」


 私は、はい、と答えた。


 直哉さんは、担当変更を了承した。

 原稿と写真は、既に確認していた内容を使ってよいという返事が、窪田さんへ来た。

 追加の確認は、彼と店のスタッフが窪田さんと進めることになった。


 私が彼へ直接、仕事のメールを送ることはなくなった。


 写真の元データを整理し、取材の確認履歴を揃える。

 誰から何を聞いたか、まだ返事が来ていないのはどこか。

 曖昧なまま、引き継いではいけなかった。


 終わると、共有フォルダに原稿を置いた。

 最初のページの椅子の写真を、一度だけ見た。

 彼が笑った顔を思い出したが、画面を閉じた。


     *


 姉へ電話をしたのは、その週の水曜だった。


 直哉さんと仕事で再会したこと。

 五年前のことを話したこと。

 姉を送ったのは自分だと、初めて伝えたこと。


 黙って聞いていた姉は、最後に、どうして今さら、と言った。


「姉が嫌になったからじゃない。私が嘘をついたから、私が話した」

「でも、もう終わった話でしょう。費用のことだって、ちゃんと終わらせたよ」

「直哉さんと沙月の婚約は、ね」


 私は、携帯を持つ手を替えた。


「私が何も知らないと思っていた人に、知らないふりをして会った。私は、それを続けたくなかった」

「それで、お店の仕事もできなくなったの?」

「担当は替わった」

「……そんなの、美緒まで損をすることないのに」


 私は少し黙った。

 姉の言葉を聞いていると、五年前にも、同じように頷けた気がした。

 この人は、私を困らせたいわけではない。

 でも、自分が困らずに済む答えと、私が引き受けられる答えが、いつも同じになるわけではない。


「沙月。駅へ送ったことを、私も選んだんだよ」


 姉が黙った。


「頼まれて、断れなかっただけだって、ずっと思おうとしてた。でも、車を出したのも、直哉さんに知らないと言ったのも、私だった」


「……私が、巻き込んだから」


「巻き込んだと思うなら、あの人が傷ついたことまで、もう終わったって決めないで」


 姉が息を吸った。

 私は初めて、少し強い声を出したのだと気づいた。


「沙月と暮らす人を、私が決めることはできない。だからといって、誰かを傷つけるところを、これからも手伝うことはできない」


 姉は、しばらく何も言わなかった。

 やがて、私が彼とどんな話をしたのか訊いた。

 私は、そこまでは話さないと答えた。


 電話を切ったあと、姉から短いメッセージが来た。


『五年前、助けてもらって、ありがとうって思ってた。あれを助けてもらったって言っていいのか、考えてなかった。ごめん』


 私はすぐには返さなかった。

 翌朝、「読んだよ」とだけ送った。


     *


 週末には、実家へ行った。


 父と母にも、駅へ送ったことと、姉の住所を知っていたことを話した。

 二人とも知らなかった。

 母は、どうしてそのとき言ってくれなかったの、と言った。


「お姉ちゃんが心配で、こっちも探していたのに」


「ごめん」


 私は頭を下げた。


 父はしばらく黙っていた。

 やがて、直哉さんにも話したのか、と尋ねた。

 私が頷くと、そうか、と答えた。


「沙月が結婚をやめたことは、沙月がしたことだ。お前が全部、背負う話じゃない」


 私は父を見た。


「だが、知らないと答えたことまで、沙月がしたことにはならないだろう」


「……うん」


 私は頷いた。

 誰かにそう言ってほしかった気もしたし、言われるのが怖かった気もした。


 帰り際、母が、直哉さんに何かできることはないかと言った。

 私は、今は自分から連絡をしないでほしいと頼んだ。


「私を許すように、頼まないで。私からも、そういうお願いはしない」


 母は一度、口を開き、閉じた。

 それから、わかった、と頷いた。


 実家を出ても、何も軽くなった気はしなかった。

 言ったから終わるのなら、もっと早く話せたかもしれない。

 ただ、これから誰かに訊かれても、違う話を作らずに済む。

 今は、それだけだった。


     *


 六月、冊子が出来上がった。


 窪田さんが、会社へ届いた見本を一部、私の机へ置いた。

 薄い紙を折った、小さな本。

 表紙には店の窓があり、めくると、鉢の横の椅子の写真があった。


「予定通り、配れるって」

「そうですか」


 私はページをめくった。

 原稿は少し直っていた。

 写真の順番も一か所変わっていた。

 店の人たちと、窪田さんと、ほかの担当者が、最後まで仕上げてくれたものだった。


 自分が取材した部分だけを、特別なもののようには思いたくなかった。

 でも、捨てられていなかったことには、ほっとした。


「先方、喜んでたよ」


 窪田さんは、それだけ言って自分の席へ戻った。

 私がどう受け取るべきかまでは、教えなかった。


 私は冊子を鞄へ入れた。

 帰宅してから、もう一度読んだ。

 直哉さんが話してくれたこと。

 私が聞き、知らなかった顔を知った時間。

 その全部が、なかったことになったわけではなかった。


 それでも、出来上がった礼を言うために、彼へ連絡はしなかった。

 私が引き受けた仕事については、会社を通して終わっている。

 仕事を理由に、個人的な返事を取りに行きたくなかった。


     *


 彼からメッセージが来たのは、六月の終わりだった。


『少し、会って話せますか』


 その一行を見たあと、私はしばらく携帯を持ったまま座っていた。

 嬉しいと思った。

 嬉しいと思ってはいけない気がした。


 でも、会うと決めたのは彼だった。

 会いたいと答えるかどうかは、私が決めることだった。


『はい。お会いしたいです』


 返事を送った。

 日曜の昼、店ではない場所で会うことになった。

 駅の近くの、小さな公園だった。


 直哉さんは、先に来ていた。

 ベンチの前で立っていて、私を見ると、軽く手を上げた。

 私は近づき、頭を下げた。


「来てくれて、ありがとう」

「こちらこそ」


 それから二人とも、少し黙った。

 謝罪をもう一度すれば、どこかへ進めるのだろうか。

 そう思ったが、彼が話し始めるまで待った。


「冊子、出来上がりました」

「会社で、見本をもらいました」

「いいものにしてもらって。ありがとう」


 私は頷いた。


「ほかの人たちも、最後まで見てくださったので」

「うん。窪田さんにも、お礼は言った」


 彼は、公園の道へ目を向けた。


「俺、美緒さんに、あの話を聞かなければよかったと思った日があった」


 私は、顔を上げた。


「聞かなければ、一緒に本屋へ行けた。普通に話せた。帰ってから、今日は楽しかったって思えたかもしれない」


「……はい」


「でも、それを続けて、もっと後で知ったら、今よりつらかったと思う」


 彼はベンチを指し、私が頷くと隣へ座った。

 間に、一人分くらいの隙間があった。


「一つ、訊いてもいいかな」

「はい」


「沙月に頼まれたとか、俺に何かしてやろうとか、そういう理由で、店の仕事を受けたわけではないんだよね」


「違います。店主が直哉さんだとは、初めて伺った日まで知りませんでした」


 彼は頷いた。

 私はその横顔を見た。


「ただ、最初の日に担当を替わることは、できました。そうしなかったのは、私の判断です」


「どうして、替わらなかったの」


「姉の話をされなかったから。仕事だけなら、五年前のことに触れずに済むと思ったのも、あります」


 私は手元を見た。


「それから、直哉さんの話を聞くのが、面白かったです。こういうことを考える人だったのだと、初めて知って。それが、嬉しくなりました」


 彼は黙って聞いていた。

 私は続けた。


「その嬉しさをなくしたくなくて、話すのが遅くなりました」


 直哉さんは、両肘を膝へ置いた。


「俺は、君が何も知らなかったから、好きになりかけたわけじゃないんだ」


 私は、息を止めた。


「でも、あのとき一緒に隠していたって聞いたら、何も変わらないとも思えなかった。姉のことは関係ないって言って、それで済ませられる話じゃなかった」


「はい」


「だから、離れた。そのまま、もう会わないほうがいいのかもって思った」


 彼は、私のほうを向いた。


「でも、話したことを思い出すんだよ。木曜に作り置きに飽きるとか、本屋があると遠回りするとか。あの路地も、実際に歩いてみたんだなって」


 私は目を伏せた。

 そんな小さな話を、覚えていてくれた。


「もう一度、会ってみたいと思った。五年前のことを知ったうえで、それでも」


 私は顔を上げた。

 彼は、私の返事を待っていた。


「私は、会いたいです」


 声に出すと、目が熱くなった。


「許してもらいたい気持ちも、あります。でも、そのために私と会ってほしいとは、頼めません」


「うん」


「だから、直哉さんが会いたいと思ってくださったことが、嬉しいです」


 彼は一度、息を吐いた。

 それから、小さく頷いた。


「まだ、言い方がうまくできないんだけど。何もなかったことにするとは、約束できない」


「はい」


「君が毎回、謝るために来るようになるのも、違うと思う」


 私は頷いた。

 その二つを、どちらも覚えていたかった。


 公園の向こうから、小さな子供が走ってきた。

 母親らしい人が追いかけ、二人で笑いながら通り過ぎた。

 私たちは少し黙って、それを見ていた。


「本屋、まだ、行きたい?」


 直哉さんが尋ねた。

 私は一度、彼を見てから頷いた。


「行きたいです」


 彼が立ち上がった。

 私も立った。

 並んで歩き始めたときには、まだ、少し距離があった。


     *


 本屋は、古いビルの二階にあった。

 一階の階段脇に、新しい本の表紙が何冊か飾られている。

 直哉さんは、先に上がってもよいかと私を見た。

 私は頷いた。


 店の中は、紙と木の匂いがした。

 彼は写真集の棚へ向かい、私は文庫の背表紙を見た。

 ずっと隣にいなくても、同じ場所にいることがわかった。


 一冊、手に取った本があった。

 姉から返してもらうはずの、あの作家の新刊だった。

 私は少し迷い、そのまま持った。


「それ、どんな話ですか」


 隣に来た直哉さんが尋ねた。

 私はあらすじを読み、まだわからないけれど、この人の文章が好きだと答えた。


「買いますか」

「はい」

「読んだら、感想を聞いてもいい?」

「……はい。読み終わったら」


 私はレジへ向かった。

 次に話すことが、一つできた。

 それを、償いの約束にはしたくなかった。


 帰り道、彼は店を始める前に買った本の話をした。

 料理の本より、店の写真集のほうを何度も見ていたのだという。

 私は、自分が編集の仕事を選んだ理由を話した。

 大した理由ではなく、読んだことを誰かに話すのが好きだったからだ。


 彼は、そういうところは昔から変わっていないんですね、と言いかけて、首を傾げた。


「……いや、俺が知らなかっただけだね」


 私は少し笑った。


「私も、直哉さんのことを知りませんでした」


 姉の婚約者。

 それが、この人について、私がいちばんよく使っていた説明だった。

 今は、それだけでは足りなかった。


     *


 七月には、二度、会った。

 一度は駅前で昼食を取り、一度は互いに読み終えた本を持ってきた。


 ぎこちなくなる日もあった。

 彼が、昔、沙月と、と言いかけて止まったことがある。

 私は、聞こえなかったふりをしなかった。


「その話が必要なら、話してほしいです」


 そう言うと、彼は少し考えて、今話すほどのことではないけれど、気を遣って全部を消すつもりもないと答えた。


「はい」


 私は頷いた。

 彼の過去に私の姉がいることを、私の都合でなくすことはできなかった。


 私からも、姉と電話で話したことを伝えた。

 内容を一つずつ説明するのではなく、今後、誰かに同じように黙っていてほしいと頼まれても、そのまま引き受けるつもりはないと話した。


「直哉さんに、何か言うよう頼んではいません」

「うん」

「家族からも、私を許してほしいと連絡しないように、話しました」


 彼は頷いた。

 それで、私のことを褒めたりはしなかった。

 私も、そのために話したのではなかった。


 八月の初め、店の休みに、二人で川沿いを歩いた。

 日差しが強く、途中から木陰を選んで進んだ。


 直哉さんが、歩く速さを落とした。


「美緒さん」


 呼ばれて、私は顔を上げた。


「今、好きです」


 私は立ち止まった。

 彼も止まった。


「昔からとか、そういうことじゃなくて。今、会って話している君のことが、好きです」


 私は、すぐには返事ができなかった。

 嬉しかった。

 その嬉しさの中に、五年前の記憶もあった。


「私も、好きです」


 言うと、彼の表情が少し緩んだ。

 私は続けた。


「でも、姉に会うことを、無理にお願いしたりはしません。家族だから、うまくやってほしいとも、言いません」


「それは、俺に決めさせてほしい」


「はい」


 彼は頷いた。


「沙月と俺の話を、君と俺の交際で片づけるつもりはないから」


 私は、その言葉を聞いていた。

 姉がしたことも、私がしたことも、この人と付き合えたから正しかったことにはならない。


「一緒にいてもらえますか」


 彼が訊いた。

 私は頷いた。


「はい。私も、一緒にいたいです」


 直哉さんが、ゆっくり手を差し出した。

 私はその手を取った。

 指が触れたあと、二人とも、少し力を込めた。


 五年前のことが、消えたのではなかった。

 彼は、知ってから、私を選んだ。

 私は、知ってもらってから、隣へ行けた。


     *


 秋、私たちは、もう一度あの本屋へ行った。


 店主に声をかけられ、私は新しく買った本の話をした。

 直哉さんは写真集の棚を見ていたが、帰るときには料理の本を持っていた。

 今度、店の新しいメニューに試したいという。


「じゃあ、味見は?」

「まだ、頼んでないです」

「私は、空いてます」


 言うと、彼が笑った。


 交際を始めたことは、両親にも伝えてあった。

 駅まで歩く途中、母から電話が来た。

 私は画面を見て、彼に、少しだけ話してもいいかと訊いた。

 彼が頷いたので、道の端へ寄った。


 母は、次の週末、実家へ来られるかと尋ねた。

 姉も帰ってくる予定だという。


 私は一度、彼のほうを見た。

 彼は少し離れた場所で、書店の袋を持って待っていた。


「今、直哉さんと出かけてる。あとで私の予定を確認して、返事するね」


 私はそう答えた。

 姉が来ることを伏せても、逆に彼へ全部の判断を頼んでも、違うと思った。


 電話を切り、彼のところへ戻った。


「来週、姉が実家へ戻るそうです。私は、行くかどうか、あとで考えます」


 直哉さんは、わかった、と答えた。

 私が彼を誘うために言っているのではないことは、伝わったと思った。


「言いづらかった?」

「少し」

「うん」


 彼は頷き、私の手に指を触れた。

 私は、その手を握った。


 まだ、うまく話せないことはある。

 一度で正しい言葉が出るようにも、なっていない。

 けれど、言わなければ何も起きないと思うのは、もうやめたかった。


 駅の前で、彼が私を呼んだ。


「美緒。来週、あの本の話、聞かせてくれる?」


 呼び捨てにされたのは、初めてだった。

 私は、返事の前に少し笑ってしまった。


「うん。本も、ちゃんと持っていく」


 彼が私を見て笑った。

 私は、借りた本が机の上にあることを思い出した。

 読み終えて、話したいところに、小さな紙を挟んである。


 姉に借りたものでも、姉から頼まれたものでもない。

 私が好きだと言って、彼が貸してくれた本だった。


 私は彼の手を引いて、駅へ向かった。

 次に会う日は、二人で決めていた。


~完~

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。