↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
PR

死刑執行ボタン

作者: あざみん
掲載日:2026/09/15


マイナンバーに紐づいたアプリに「死刑執行」ボタンが実装されてから、すでに十年以上が経っていた。


国が死刑執行を妥当と判断した場合、全国民のアプリにボタンが通知される。死刑囚は二ヶ月間、執行施設で待機する。その間にランダムに選ばれた国民の誰かがボタンを押すと、執行される。二ヶ月を超えると仮釈放され、半年の執行猶予を経て本釈放となる。

このシステムは導入以来、過去に三十回ほど実際に作動した前例があった。

誰が『本物』のボタンを割り当てられているのかは、今も誰にもわからない。

押した人間の特定はされず、責任も問われない。

ただ、ボタンを押す者がいなければ、執行は回避される。

それだけの仕組みだった。


僕が初めてそのボタンを気にしたのは、ある死刑囚の名前がアプリに載ったときだった。

連続殺人。児童への残虐行為。被害者の遺族を法廷で嘲笑した男。

国民のほとんどが「間違いなく極悪人だ」と思っていた。

過去三十回の前例を見ても、これほど世論が一致したケースは少なかった。

だから、僕はボタンを押さなかった。

どうせ誰かが押すだろう。

自分が押さなくても、執行は行われるはずだ。

過去の例を思い浮かべながら、そう信じた。

ボタンを押す期間は二ヶ月もある。

その間、僕はアプリを開かなかった。

開く必要もないと思っていた。

死刑は執行される。当然のこととして。


二ヶ月が過ぎた日、ニュースが淡々と報じた。

「法的手続により、死刑は執行されませんでした。死刑囚は本日仮釈放されます。法律で定められた執行猶予は六ヶ月です」

画面の向こうで、アナウンサーが感情を殺した声で読み上げていた。

SNSは騒然とした。

「三十回も作動したのに、今回は誰も押さなかったのか」

「こんなシステム、意味ないだろ」

「あいつを生かしておくのか」

僕は、ただ黙ってテレビを消した。

あの赤いボタンのことを、少しだけ思い出した。

しかし、すぐに忘れることにした。

終わったことだ、と。冷蔵庫からパックに少しだけ残った牛乳を飲み干した。



一人暮らしの叔母が殺されたのは、仮釈放からわずか三日後だった。

叔母は、両親が共働きだった頃、よく面倒を見てくれた人だった。

優しい人だった。いつも笑っていて、僕の小さな成功を誰より喜んでくれた。

大学に合格したとき、就職が決まったとき、彼女は泣いて喜んだ。

犯人が死刑囚だとわかったとき、僕は何も感じなかった。

正直に言えば、感じることを拒否した。

怒りも、悲しみも、すべてを遠いところに押し込むしかなかった。

警察の説明は簡潔だった。

「被害者は抵抗した痕跡があります。犯人は現行犯逮捕されました」

現行犯逮捕。

また、裁判が始まる。

また、死刑になるかもしれない。

僕は、その夜、初めて真剣にあのアプリを開いた。

赤いボタンは、そこにあった。

画面の片隅に、静かに存在していた。

過去三十回の前例を経て、国民の多くはこのボタンの存在に慣れきっていた。

「もし、あのとき自分が押していれば……」

その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。

叔母は死ななかった。

あの男は、この世にいなかった。

そう思うと、胸の奥が熱くなった。

僕は、ボタンを押した。

指が画面に触れた瞬間、何も起きなかった。

ただ、ボタンの色が少しだけ濃くなっただけだった。

翌朝、ニュースが報じた。

「死刑囚、留置施設内で急死。死因は現在調査中」

午後になると、続報が入った。

「死刑執行システムが作動した可能性が高い。過去三十一回目の執行となる」

誰が押したのかは、公表されない。

システム上、公表できない。公表してしまえば、誰も押さなくなる。

「複数の国民が同時に押した可能性もある」と、専門家は言った。

過去の三十回と同じだった。

僕は、自分が押したことを誰にも言わなかった。

言う必要もないし、他の人が押していたのかもしれない。

法律上、罪はない。

このシステムは、国民に「執行の権限」を分散させただけだ。

誰が押しても、押さなくても、個人の責任は問われない。

国がそう決めた。過去三十回も、そうだった。

なのに、夜になると、頭の中で同じ声がする。

「自分が押していれば、叔母は死ななかった」

同時に、もう一つの声も聞こえる。

「結局、自分が押したから死んだわけじゃない。同じタイミングで、同じ状況にいた人間が、他にもいたかもしれない」

その思いは、救いにはならなかった。

むしろ、罪の意識をより深く、静かに僕の心を削り取っていく。

誰も僕を責めない。

誰も、僕が押したことを知らない。

僕は毎日、自分を裁いている。


「仕方ない。押すしかなかった。押さなければもっと被害は増えていたかもしれない。俺が押すしかなかった。俺がみんなを守ったんだ」

最初は、そう自分に言い聞かせていた。

その言葉は、しばらくの間、僕を支えてくれた。

自分が正しいことをしたのだ、と。

必要悪を引き受けたのだと。

でも、日が経つにつれて、その言葉は少しずつ色褪せていった。


「俺がみんなを守った」

…本当にそうか?

守ったのは、結果的にそうなっただけじゃないのか。

最初に押さなかった自分を、後から正当化しているだけじゃないのか。

叔母の笑顔が、夜な夜な夢に出てくる。

「どうして押してくれなかったの?」

実際にそんな言葉を言われたわけではない。

わかっている。

わかっていても、声は止まらない。

「僕が押さなかったから、叔母は死んだ」

「僕が押したから、あの男は死んだ」

「どちらにしても、僕は何かを殺した」

論理では否定できる。

法律では無罪だ。

誰も責めていない。

過去に三十回も同じことが繰り返されてきた。

それでも、胸の奥に沈んだ重りは、日ごとに重くなっていく。

自分を守るための言葉が、逆に自分を追い詰めていく。

「仕方なかった」と言えば言うほど、最初に押さなかった事実が鋭く突き立ってくる。

「俺が守った」と繰り返すほど、その「守り」が後付けのものだったことを認めざるを得なくなる。



ある日僕は唐突に気づいてしまった。

自分にしか押せないボタン。

誰かが代わりに押してくれることも、責任を分散することもできない。

ただ、自分で選ぶことができるボタン。

押すということは、自分で自分を終わらせる選択をするということだ。

国が何かをするわけでもない。

ただ、僕が、僕自身を終わらせる。

逃げ道は、もうどこにもなかった。

「誰かが押すだろう」も、「仕方なかった」も、「俺が守った」も、全部が空虚に響く。


僕は、自分だけが持つ死刑執行ボタンを押した。


ただ、地面が赤くなっただけだった。

その後のことは、よくわからない。


何も罪のない罪に、押しつぶされたまま。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。