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 硝子越しの王都は、粉砂糖を振り撒いたかのように雪が積もっている。愛染は結露した窓を擦ると、透明になった景色を一目見て、息を吐きまた窓を曇らせた。


「今年はおかしいですね。王都に雪が降るなんて」


 王都は緑あふれる土地ではあるが、その周辺は灼熱の砂漠に囲まれている。雪なんてもっての外だ。それは人民がおいそれと王都に近づけない理由の一つでもあった。王都周辺は日中にはとても人間には生きていけないほどの気温になる。そのため、入城の際は近隣都市のサーグラタットを伝い、海路で王都入りするしかない。


 王は盃に口をつけた。盃には濃紺の釉薬が塗られており、撒かれた砂金は、まるで光ひとつない荒野から見る天の川のようだった。螺鈿が散りばめられた卓には酒以外何も置かれてはいない。王は愛染に目もくれず、じっと盃の鏡面を見つめている。


「おかしくはない。暦をずらしたとて、抗えないということだろう」


 王はまた一口、酒を口に含む。その表情は何も変わらない。


「何から、ですか」


「私がこのシャンバラを建国して、次の春で丁度千五十二年だ」


 切りの良い数字ですらなかった。愛染が首を傾げていると、王は何の感慨もないといった風に続ける。


「建国前、この年を世の終焉の意味で末法と呼ぶものがあった。システムを組む時に引用した思想にこれも含まれている。基礎がこれである以上、滅びは避けられない」


「今年で世界が終わると言いたいのですか」


「そうはさせない。私は、最後まで抗う」


 機械的な王であった。しかし、この世界を脅かすものの話題になると、微かに眉間に皺が寄ることを愛染は薄々気づいていた。神の苦悩など、ただの人間の愛染には知る由もない。しかし、この瞬間だけ、この国の唯一神である王が、人間に戻ったように感じるのだ。相手は千年以上この国を統治してきた、絶対の支配者だというのに。


「なぜ、そのような顔をする」


 言われてハッと口を覆う。王の表情が愛染にも移っていたらしい。


「失礼いたしました。王が、苦しそうだったもので」


 王を一人間として扱うのはご法度である。この国の生殺与奪は全て王のものであり、その地位が脅かされることがあってはならない。


「愛染、お前は……」


 しかし王は怒るでもなく、ただその暗闇を集めたような瞳でじっと愛染を見た。王が一人の人間に興味を移すのは稀だった。


「どうかされましたか」


「似ている。私の唯一の友に」


「友?」


「思えばあの人喰い娘の髪も、あれと似ていた。コード書き換えの際、徹底的にあれの要素は排除したというのに」


 王は立ち上がり、愛染の隣に立った。曇った窓の外の景色を、ぼんやりと見つめている。


「世界が求めているのは、一人一人与えられた役割を演じ、その範囲内でうまく立ち回ることだ。決して逸脱があってはならない。私は神王だ。そこに人間が垣間見えることがあってはならない。それだというのになぜ、ここに来てそれを脅かそうとする」


 王は愛染を見ていた。しかしその二つの奈落で見ているものは、愛染であって愛染ではない。愛染は今、王にとって、他人を想起するための、()()()でしかない。


「来太、見ているんでしょう」


 確かに王から発せられた言葉だった。震える声だった。泣きそうな顔だった。


 愛染はこの顔を、夜叉に就任した直後に見たことがあった。サーグラタットの領主は、領地が王都の出入り口となっている関係で、他の夜叉や天部よりも高い地位が約束されていた。自然と王との距離も近くなる。王が行幸する際の警護を任されることもある。


 その日は、嵐に破壊された河岸の巡察に来ていた。王都の川べりにはなぜか枯れ木が植えられていて、生を謳歌し彩り溢れる王都の中で、その木だけが異彩を放っていた。どうやらそれらは建国当時からあるらしく、王都の民はその木に関心を持つことすらしなかったが、愛染は花をつけることのないその老木を不思議な気持ちで眺めていた。


「気になるか」


 王は言った。王の前で嘘をついたところですぐに分かってしまうので、率直にはい、と返した。


「この木は死だ。本来なら許されざる存在だが、例外的に残している。この木があることによって、私は建国時の誓いを思い出すことができる」


「王は、この木が好きなんですね」


 愛染は言った瞬間にしまった、と思った。王の表情が曇ったからだ。そもそも王に人間のような好き嫌いなどあるわけがない。


「好き、か」


 王はそう呟いただけだった。しかしその顔は歪み、悲しみとも取れるような表情が浮かんでいた。


 滲み出る王の人間性に、愛染は思った。この国は実は神が治めているわけではない。一人のちっぽけな人間の肩に全てを預けているだけではないのかと。王は世界を運営するための機械仕掛けの神ではない。人々が神だと思いたいだけなのではないか。


「王」


 降りしきる雪は次第に風に乗り、吹雪に変わろうとしていた。


「私には王の御心は計りかねません。しかし、これだけは解ります。王は、ずっと無理をしておられる」


 王は目を見開いた。


「無理をしているわけはない」


 言われた王が狼狽えているのが、愛染には手に取るようにわかる。その様子を見て、愛染は自分の役割を再認識した。愛染は普通の人間だ。王でも賎民でもない。しかし、王の心も賎民の思いも見てきた唯一の人間である自分が、この世界のためにできることは、なにか。


 都に夜の帳が降りてきていた。王都はますます冷え切っていく。燃え盛る暖炉の火だ


 けが、この部屋の中で息をしているようだった。



***



 幾度も山脈を越え、渓谷を越え、雨の中風の中それでも在太たちは進んだ。王都に一歩一歩近づくほどに気温は上がり、緑はなくなる。砂塵舞う大地になっていく。山が途切れ、辺り一面が平野になる頃には、周囲に人も動物も存在しなくなっていた。もちろん、リンガもどこにも見えない。生のない世界はとても静かだった。


 リンガの影響が及ぶ範囲外は、生存するのが難しい。それでもところどころにオアシスの村はあり、オアシスごとに貿易を中心としたコミュニティが営まれている。所属の郡の外に出る必要がある者は基本的に賎民だけなので、コミュニティも賎民によって賄われているところがほとんどだった。郡には領主がいるが、砂漠を支配している「人間」はいない。オアシスは王の手から逃れた者の溜まり場でもあった。月の砂漠をキャラバン隊の助けを借り進みながら、在太一行は、この砂漠で一番大きいオアシスへと辿り着いた。


「砂漠の真ん中なのに、こんなにも大きな街があるなんて」


 日干し煉瓦造りの街並みは、ハーヴァの木造住宅の街並みとは全く違う。建物の間には日差しを遮るための布が渡され、そこら中に気枯れ除けのための硝子細工がかかっている。硝子がぶつかる音や鈴の音は、気枯れを祓うことができると信じられているのだ。街は泉から引いた水路で整備されており、賎民の町とはいえど荒んだ雰囲気はない。視界にリンガはないが、街の中心に玉葱を乗せたような屋根の城郭が聳え立っているのが見える。白い城郭は、そこらの領主邸より美しい造りだった。


「領主邸はどこでも威張っているんですね」


 釈天は砂漠を移動するのがあまり好きではなかったため、王都周辺の砂漠地帯に近づいたのは在太でも初めてだった。


「ああ、あれは領主邸ではないよ。療養所さ」


 沙羅の鮮やかな着物は、ハーヴァの山の中にいた頃はかなり目立ったが、砂漠の民は極彩色を好むのか景色によく馴染んでいた。


「今日はあそこに泊まるよ。アタシの恩師が院長をやっているんだ」


「あそこに泊まれるんですか!?」


 たまは幸姫時代に砂漠に来たことがあるはずだが、記憶にはないようだ。見知らぬものに触れる度、相変わらず新鮮な反応を見せる。


「ああ。療養所は来るものを拒まない。誰でも無料で滞在することができるよ」


「夢みたいです! あんな宮殿のような場所に泊まれるだなんて」


 石畳を飛び回るたまを横目で見ながら、在太はため息をついた。


「何か裏があるんでしょう?」


「裏なんて聞こえが悪い。泊まる代わりに、動ける者は看護や警備の仕事を任されるだ


 けさ。断頭衆の運営方法と同じさ。ねえ荼鬼様」


 今まで黙って後ろを着いてきていた荼鬼は、急に足を止めた。


「私はあそこには泊まらない。宿屋に行く」


 そのまま小道に逸れようとしたのを、沙羅が諌める。


「荼鬼様。気持ちはわからないでもないけど、宿代が嵩むだろ。サーグラタットに入れるかすらわからないのに、駄々をこねるんじゃないよ」


「あれの息が掛かっている施設に足を踏み入れるのは危険だろう。思い返してみろ、私たちはあれに村を焼かれたんだ」


 ここはサーグラタットから近い。愛染の管理下ということだろう。荼鬼の言うことには一理あるが、その言葉には理屈以上に意地も滲んでいた。


「そんなに愛染様が気になるかい」


 ため息をついて言う沙羅に、荼鬼の体が跳ねる。


「そりゃあそうだろう。用心に越したことは……」


「荼鬼様だって分かっているはずだよ。王都突入の後、愛染様は賎民事業ときっぱり手を切った。賎民事業は汚職と同義だから、王の黙認を通り越し、表沙汰になった瞬間に足を洗った。もうあそこは、愛染様とは関係ない」


「……だから、だからだ。あいつは私たち賤民を裏切った。そんな偽善者が建てた施設に、泊まりたくはない。宿代は自分で稼ぐ。心配はかけない」


 荼鬼は在太たちに背を向けた。沙羅もこれ以上引き止められないと悟ったのか、追うことはしなかった。


「本当に困ったちゃんだねえ」


 遠ざかる荼鬼の背中に向かって、ただそれだけ呟いた。




 療養所の中は本当に宮殿のようだった。窓は一面大理石が透かし彫りされ、よく風を通すようになっている。中庭には泉が沸いており、植物も植えられ、心地の良い空間が演出されていた。どうやら患者たちの交流の場所になっているようだ。沙羅は顔見知りなのか、人に会うたびに挨拶をしながら、宮殿の奥に進んだ。


 辿り着いたのは、この建物の三階部分にあたる院長室。この街にこれほどまでに高い建物はない。大きな窓からは、街全体が見下ろせる。


「おう! 沙羅じゃねえか!」


 背筋のまっすぐ伸びた、初老の男性だった。癖のある黒髪に銀髪がチラホラ混じっている。療養所を営むくらいだから、もちろん賎民だろうが、賎民にありがちな後ろ暗い雰囲気を全く感じさせないどころか、品のあるいでたちをしている。


「久しぶり。薬袋(みない)先生」


 男は顎に手をやって、在太たちを見下ろした。


「お、また珍獣を連れてんな」


「珍獣じゃないです!」


 全力で顔を顰めてぷりぷり怒るたまに、薬袋はガハハと笑う。


「幸姫様じゃなくてだな、そっち」


 薬袋は在太に視線を移した。


「え、俺ですか?」


 在太はごくありふれた来迎屋である。街中でも特に目立った覚えはないし、逆に影が薄いと言われるくらいだ。


 薬袋は久しぶりに孫に会った祖父のような、それでいて念願のおもちゃを手に入れた時のような、なんとも形容し難い顔で言う。


「お前、らい……釈天が作ったウイルスだろう」


「うい……?」


「あ、釈天から聞いてなかったか。すまんすまん。とりあえずかけてくれ」


 院長席の前には、硝子の嵌った卓と籠の椅子がある。椅子は座り心地が良い。賎民の施設にこんな豪華なものがあるのはやはり不自然な感じがする。


「断頭衆のことは聞いた。残念だったな。なに、三人程度ならうちで賄える。ゆっくりしていくといい」


「薬袋先生。わざわざ貴方のところにきたのは身を寄せるためではないんだ。たま……幸姫様のたっての願いでね。なんとかして、王城に入りたい」


 薬袋は目を見開いた。


「そのためには、サーグラタットを通過しなければならないんだよ。サーグラタット港は愛染のお膝元だ。ただでさえリンガの倒壊が相次いているし、船に乗るにも、警備が厳しくなっているだろう。我々にはせめて用心棒が必要だ。先生は四方と連絡は取れるかい?」


「申し訳ないが、俺でもあのポヤポヤ侍がどこにいるかはわからない」


 俺もサーグラタットの賎民全員を把握しているわけじゃない、と薬袋はこぼした。


「サーグラタットも最近きな臭くなっている。倒壊の関係で、以前よりも流れ者が多いんだ」


 サーグラタットには関所がない。もとより海運の街で、出入郡の管理は海側しか行っていない。周囲は灼熱の砂漠であるため、わざわざ陸路から入ってくるものは少ない。愛染も、関所に金をつぎ込むだけ無駄だと思っているのだろう。


「それに加えて、変な集団も噂になっていてよ。アガルタというその集団は、夜な夜な高慢な商人や貴族といった悪人を襲う。そいつらは、第三の目を持つ嵐の王がいつか現れるとか言って、賎民たちを扇動しているらしい」


「前途多難ですね……」


「危険は伴うが、四方を探し、港を突破したいのなら、アガルタに接触するのが一番手っ取り早いかもしれないな。良くも悪くも、賎民を今一番知っている組織だ」


「でも、どうやって」


「在太、お前がいればすぐ見つかる」


 名乗ってもいないのに、薬袋は在太の名前を呼んだ。



***



 薬袋の指示で、沙羅と在太たちは別行動をとることになった。療養所のオアシスとサーグラタットは目と鼻の先であり、涼しいタイミングを狙えば、すぐに移動することができる。特にここ最近は異常気象で気温が低く、馬を使えば数刻ほどで花街の一番端に辿り着く。昨今の治安の悪化も、異常気象で砂漠側から人が流入することが拍車をかけているのだろう。


 サーグラタットの花街はこの国随一の規模を有しており、その全容を知るものは少ない。沙羅は馬屋に馬を繋ぎ、花街に入る。見慣れた街並みは、一年前と何も変わらない。建物は高くひしめき合い、大通りでもなんとなく薄暗い。その一方で、店の看板は派手なものが多かった。


 路地裏の鍛冶屋に入る。店の間に挟まるようにある鍛冶屋は、慣れたものでなければなかなか出入り口を見つけることができないであろう。


「こんにちは」


「あ、沙羅姉さん!」


 暖簾を押すと、少年が出迎えた。沙羅は長らく花街で芸妓をやっていたため、顔が効く。


「薬袋先生に言われて、鉄を探しているんだ。鋳潰した塊はあるかい。できれば錆びていないものがいい」


 サーグラタット一の用心棒、四方を探す方便であった。四方は前回の王都襲撃の時にその場に居合わせた関係で、指名手配されている。本人は侍だが、腐っても鍛冶屋である梵天衆の裔なので同業の者に紛れている可能性は高い。


「あるよ。ちょっと待ってね」


 少年は棚をゴソゴソと引っ掻き回しながら言う。


「そういえば荼鬼様がさっき砥石を買って行ったけど、どうしたんだろうね」


「荼鬼様が……愛染様の所領に?」


「随分物々しい感じだったなあ」


 おかしい。荼鬼は愛染のことを思い出したくないから一人宿屋に泊まると言ったのだ。その荼鬼が、わざわざ自分から愛染の領地に舞い戻ってくるなんてことがあるだろうか。しかも、なぜ砥石を買う必要がある。まさかとは思うが、先ほどの態度は全部嘘で、沙羅たちから距離を取るために行動していたとしたら。


 砥石は刃を研ぐものだ。荼鬼がその肉切り用の介錯刀を使うとしたら、相手は一人しか思い浮かばない。


「ごめんね、ちょっと用を思い出した! 後で買いにくる!」


 急いで店を出る。港町には、夕闇が迫っていた。坂道から見える大海は、斜陽を反射して赤黒く煌めいていた。



***



 荼鬼が部屋に入ると、夕凪に黒髪がたなびいているのが見えた。


 サーグラタットの領主邸は、市街を見下ろす高台にあった。愛染はバルコニーから、未だ活気のある眠らない街を見つめていた。


「そろそろ来ると思っていたよ」


 領主の寝室は薄暗かった。就寝用のランプはついているが、広い寝室の全てを照らすほどのものではなかった。振り向いた愛染の顔は、揺れる灯で橙色に切り取られる。


「門扉の警備が手薄だった。お前、わざと内に入れただろ」


 狐面の下から、くぐもった声を出す。荼鬼はしばらく愛染の屋敷に滞在していたが、こんなに警備がザルだったことはない。


「なんの話かな」


 愛染は不敵な笑みを浮かべている。


 荼鬼は鞘から二本の黒い刃を抜いた。大きさの違う肉用包丁だった。それはダキニ族の伝統武器であり、調理道具であった。荼鬼は族長を継いで、今の今までずっと、この母譲りの武器を使い続けていた。手に馴染む包丁を逆手で持ち、横一文字に切るように薙ぐ。愛染はひらりと交わして、欄干に手をかけたかと思うと、屋内に転がり込んだ。腰の太刀を抜き、白刃を構える。


「以前よりも動きが速い。強くなったね、荼鬼ちゃん」


「誰の、せいで……!」


 愛染が断頭衆に火を放ったあの日から、荼鬼は人知れず鍛錬を続けてきた。全ては今日のためだった。愛染を殺すためだった。


「はぁっ!」


 目にも止まらぬ速さで切り付ける荼鬼の攻撃を、愛染は華麗に受け流す。静まり返った領主邸に、心地の良い剣戟が響く。


「くっ……」


 荼鬼の刃が愛染の頬に赤い線を一筋走らせる。巨躯が一瞬崩れる。その隙を狙って、突進する荼鬼を愛染は太い腕で振り払った。


「そんなものか? お前は、王が信頼を置く夜叉なのだろう!」


「いや、まだまだ!」


 愛染の刀が荼鬼の仮面を二つに割った。荼鬼の顔が顕になる。


「やはりそう来なくては、私の仇に相応しくない!」


 不思議だった。目の前の男は女の仇で、女は男の敵だと言うのに、刃をぶつけるたびに、お互いが言いようのない感情に支配されていた。剣を交わらせる高揚感、息を合わせ全身の筋肉を支配する愉悦、それは幸福にも似ていた。二匹の獣が作り出す無駄のない軌跡は、まるで剣舞のようだった。今この時だけは、愛染と荼鬼だけの世界だった。


 触れ合う刃。


 感じる吐息。


 命のやり取りをしているというのに、そのやり取りは恋人の駆け引きにすら感じられた。


 この時間が、いつまでも続けばいいのに、と荼鬼は思った。


 しかし、永劫にも似た剣舞にも終曲が訪れる。


「はあっ……はぁ……」


 剣先が弾かれる。傷だらけで息を切らす二人に、もうあまり体力は残っていない。


「そろそろ終いか」


「ああ、ここで決着をつけよう」


 愛染は汗に濡れた額を袖で拭うと、しっかりと荼鬼を見据えた。


 二匹の獣は、真っ直ぐに走り出した。狐は地面を蹴り宙を舞い、男を目掛けて最後の刃を突き立てんと、双刀を一本放った。大ぶりな方の肉切り包丁を両手で持ち直すと、その心臓めがけて一気に振り下ろした。


 しかし、男の動きは、狐の予想と少し違う方向に逸れた。


 二人は豪奢な寝台に倒れ込む。包丁は男の脇腹に深く突き刺さった。


「愛染!?」


 愛染の口端から、血が垂れる。


「っはは! やっぱり苦手なことはするもんじゃないね」


「なんで」


 最後の一振りで、愛染は太刀を捨てた。荼鬼の介錯刀を生身で受けたのだった。


 愛染はそのまま、荼鬼を強く抱きしめる。荼鬼の重みで、包丁が脇腹を貫通した。状況がうまく飲み込めなかった。私はこの男を殺したくて、男は私を殺そうとしていて、でも、最後にこの男は、武器を捨てて。


 荼鬼の耳元で、掠れた声がする。


「俺がいなくなれば、サーグラタットは混乱状態になる。それに乗じて、王都へ向かうといい。道は作ってある、案内も用意してある」


「え……」


「王は今、統治に疲れている。役目を終えさせるなら、今だよ」


「そんなことを聞いているんじゃ……」


「俺さ、考えたの。身分の違う俺が、荼鬼ちゃんにできることは何かって。賎民の待遇は俺なんかじゃ変えられない。王にかかっている。ならばもう一度、王城への道を作ろうと思ったんだ。でも俺は夜叉だからさ、王に逆らうことはできない。前回のこともあって、俺への王の見張りは強固になっている。だから、王に従うふりをして、荼鬼ちゃんの村を焼いて、俺を殺してくれるよう仕向けた……荼鬼ちゃんに寄り添うことができないのなら、せめて俺は、荼鬼ちゃんのために死のうって。俺が悪者になればいいって」


 汗の匂い、香油の匂い、血の匂い。


「ごめんね」


 愛染の腕の中で、荼鬼は混乱した。私は、ずっとこの男を殺したいと思っていたはずだ。絶えた命に報いる方法はこれしかないと思っていたはずだ。許せない、許さない。それなのに。


 なぜ、私の視界は歪んでいるのだろう。


 愛染は腕を緩ませる。荼鬼が体を持ち上げると、藍色の瞳が潤んでいるのが目に入った。それはさも愛おしそうに、私を見つめていて。


「俺の見る最期の景色が、荼鬼ちゃんでよかった」


 震える手が、荼鬼の頬に触れる。温かくて大きな手。私には勿体無いくらい、優しい手。その中で、金色の指輪だけが冷たい。


「伊綱。ずっと、ずっと、愛してる」


 それは、族長になる前の、本当の私の名前だった。今となっては、世界で唯一あなただけが知っている名前だった。あなたは、ずっと優しくしてくれたのに、ずっと私を好きでいてくれたのに、裏切ったのは間違いなく私の方だ。でも、だって、私があなたを好きになってしまったら、結婚してしまったら、あなたの寿命が短くなって、私はあなたを食べたくなって。そんなの、言い訳でしか。


 あなたの、呼吸が、止まる。


 その整った顔に、塩辛い滴が落ちる。


「愛染、起きろ! 起きてくれ! 頼むから……誰か……いやだ……」


 荼鬼は襟首を掴み、体を揺すった。起き上がる様子はない。嘘だって言ってほしかった。いつもみたいに、笑い飛ばして欲しかった。もう、復讐なんて、どうでもよかった。


「私のために死んで欲しかったんじゃない。貴方と一緒に生きたかったんだ。なんでわかんないんだ、ばか……」


 絹の柔らかな布団に、鉄臭い赤が染み込んでいく。荼鬼は力尽きたように襟首を離した。脇腹に刺さった包丁を引き抜いた。


 荼鬼は虚な目で、愛染を見つめる。


「愛染。私も、ずっと、貴方を愛している」


 まだ温みの残る唇にくちづけをする。もう動かない舌を絡ませる。愛染の血の味は、今の荼鬼にとっては蜜だった。


 首筋に、牙を突き立てる。


 ダキニ族の掟。それは、子を成したら、相手の男と離別しないといけないという掟だった。女しかいない狐の人喰いにとって、一番美味と言われているもの、それは、好いた男だ。妊娠中飢餓が強くなるのも相まって、相手の男を食べてしまわないようにと決められた掟。


 もう、そんなものは、必要ない。


 噛み切って、咀嚼して、飲み込んで。口の周りを真っ赤に染めて。


 夢中で食べた。熱い血潮が冷めないうちに、私があなたの全てを飲み込み、一つになって。


 夜の帳が降りた。月明かりが大洋を見下ろす領主邸を冷たく照らしている。


 遠く、波の音が聞こえていた。


 一匹の人喰い獣が、喉を鳴らす。


「大好き」


 それは、今まで食べたどんな肉よりも、美味しかった。



***



 やっとのことで領主邸に着くと、ちょうど裏口から荼鬼が出てくるのが見えた。


「荼鬼様! 無事かい」


 沙羅は話しかけたことを少し後悔した。荼鬼は心ここにあらずといった様子だった。頬は紅潮し、白い髪に、褐色の肌に、乾いた血が張り付いている。何が起こったのか、聞くまでもなかった。


 荼鬼はこちらに気づくと、蕩け切った赤い瞳を沙羅に向けた。


「領主は死んだ。明日の朝には、港が混乱するだろう。その隙を突いて出港しよう」


 荼鬼の指先で、何かが光った。沙羅が視線を移すと、荼鬼の左手の薬指には、ひとまわり大きな金の指輪が嵌っていた。



***



 少し時間は巻き戻って、沙羅が領主邸に向かった同時刻。


 在太とたまは、違う方向からサーグラタットに入り、港の偵察に来ていた。薬袋が渡してくれた地図は詳細だったが、脱出するのにゆっくり見ておいた方がいいだろうとのことだった。さすがシャンバラ一の貿易港ともあって、遠目から見ただけでもかなり大きかったが、実際に降り立つと本当に祭りのような賑わいだった。たまは立ち並ぶ商店に心を躍らせている。衣服、雑貨、宝飾品、食料。他の郡からの珍しい交易品は、たまの目に新鮮に映ったらしい。


「こんな時じゃなければ、思い切り買い物したいんですけど!」


「またの機会な」


「それにしても、行けばわかるってなんでしょう?」


 薬袋は在太に何かを期待している。釈天のことも知っているようだったが、詳細は伝えられていなかった。しかし、在太としても、このサーグラタットに入った瞬間から、何か胸のざわつきのようなものを感じていた。たまを見つけた時と同じような、虫の知らせを。


「在太、なにかおかしいと思っていたんですけど」


 たまは猫の仮面の下から、小さな声を出した。その声は、容易く喧騒に紛れる。


「リンガが倒れて規制が敷かれたわけでもないのに、ハーヴァの時より、圧倒的に賎民が少ないです」


 在太は周囲を見渡した。こんなに人間がいるのに、仮面をつけている人はちらほらとしか見当たらなかった。しかも、皆来迎屋だ。繁華街なら物乞いや仮面をつけた娼婦などもいるはずなのに。


「薬袋さんは賎民が増えているって言っていましたよね。そのせいで、犯罪も増加していると。その人たちはどこにいるんでしょう」


「サーグラタットにも貧民街みたいなところがあるんじゃないのか」


「そんな大きな貧民街が、王都の隣にあるものでしょうか。あの潔癖の王の目の届く範囲に」


 その時だった。どこからか怒鳴り声が聞こえた。


「いたぞ!」


 在太の横を、仮面の男が横切った。揃いの白銀の鎧を装備した二、三人の男たちがそれを追う。


「サーグラタット自警団だ! アガルタめ、逃さんぞ!」


「アガルタ!?」


 薬袋が言っていた犯罪者集団ではないか。まだ太陽の沈んでいない時から、出会えるものなのか。あまりの出来事に固まっていると、在太の腕を誰かが掴んだ。


 振り向くと、白銀の鎧と、絹のマスクのがっしりした男。まるで、一寸たりとも穢れを許さないとでも言いたいかのようなその装備。


「おい、そこの来迎屋。お前もアガルタの仲間だろう」


 たまの手を握る。こういう時は物怖じしてはいけない。在太は毅然とした声で言い放った。


「違います」


「そんなはずはない。その少女、仮面を被ってはいるが、貴族の娘だろう。どさくさに紛れて連れ去ろうとしたのではないか」


「在太はそんなことしません!」


 男の目は、夕日に逆光になって冷たく二人を見下ろしている。確かに、仮面をかぶっていなかったらたまは賎民に見えない。しかしたまがいくら反論しようと、男の中で在太はアガルタだということが決定しているようだった。この様子だと、どれだけ言い訳をしても無駄だろう。


 逃げられない、そう思ったその時だった。


「すいませ〜ん、ちょっと伏せてください!」


 背後から間伸びした声が聞こえる。在太とたまは咄嗟に頭を下げると、目の前の男の顔を裂くように、一本、赤い線が走った。跡がつくほど強く握られていた腕が、ふわりと離れる。男は地面に頭から倒れ、痛みにもがく。


 在太が振り向くと、黄土色の髪の侍が、袖で血振した剣を鞘に戻すところだった。侍は不思議だった。人を斬った後だというのに、彼自身は柔らかな雰囲気を纏っている。背中には、大きな緋色の包みを背負っていた。


「さて、逃げますよ……あれ?」


 侍の腰にささったもう一本の刀から、黒い煙のようなものが噴き出した。来迎屋の在太には、それは気枯れの塊に見えた。死臭がする。どくん、どくん、と鼓動が波打っている。


 呼んでいる、呼ばれている。


「まさか」


 侍は冷や汗を垂らしながら黒い刀を腰から抜くと、鞘のまま在太に差し出した。


「やっと見つけた。君が、王を殺す者ですね」


 黒い脇差を、受け取る。在太は、そうするのが自然だと感じていた。


 全身に力が溢れてくる。自分はこの瞬間を待っていた。ずっとずっと待っていた。黒い。全身が黒く染まる。この世の全ての気が現王のものであるのなら、この世の全ての気枯れは在太のものであった。それは、酷く明確なもので。


 まるで、「在太はこのために生まれてきた」かのような。


恐ろしき者(バイラヴァ)破壊者(ハラ)獣たちの王(パシュパティ)


 こんな言葉は知らなかった。しかし、自分のことを呼ばれているのはわかった。一人でに四つ目の仮面が落ちた。額に一筋ヒビがはいる。ヒビは光り輝きながら、赤い瞳を形成する。肌の黒いあざは、全身に広がり出す。


「最後の来迎屋、賎民の王」


 いつの間にか、普段着ている着物ではなく、漆黒の着物の上に虎の毛皮を纏っていた。背が伸び、爪は黒く染まり、髪は腰まで垂れ千々に波打っていた。傷だらけの肌を彩るのは、黒の宝飾品。


 「世界を(吉祥なる)終わらせるもの(シヴァの神よ)


 もはや在太に意識はなかった。


 太陽の沈んだ空に、黒い雲が集まり始める。ごうごうと風が叫び声を上げる。


 天が裂けるような、大きな音がした。地面が揺れる。


 その場にいた誰もが恐れを抱いた。


 その場にいた誰もが平伏した。


 そしてその場にいた誰もが、ずっと待ち侘びていたことを、思い出したのであった。


 嵐の王を。



***



 シバの塔、中央官制室。


「リンガが倒壊している……!?」


 文殊は呟いた。液晶に映し出されたリンガが、絵の具を垂らしたかのように赤く染まっていく。北から、南から、王都目掛けて。文殊は管制室のコンピュータ管理を任されている関係で、今年は大変なことが起こるかもしれないとは聞いていた。それでも、全国のリンガが一斉に倒れ始めるなんて、想像のはるか上だった。


「龍脈が反転することにより、リンガを倒壊させる呪いが発動し始めたのか……!? 龍脈が途切れれば、王都回す電力も賄いきれない、どうすれば」


 返事は返ってこない。文殊は、恐れながら後ろにそそり立つ王に目をやった。


「嘘だ……計算は完璧だったはず」


 常に無表情だった王の顔に、戸惑いが浮かんでいた。


「何が、間違っていたというんだ」


 王は宙に向かって口をぱくぱくと開ける。


「愛染を、愛染を呼べ」


「通信をしていますが、反応がありません!」


 天部の一人が叫ぶ。愛染は夜叉だが、いつもなら呼べばすぐ反応が返ってきたというのに。


「そんなことはない、そんなことは……」


 取り乱す王に、誰も手をつけられなかった。こんなことは初めてだった。誰も、どうしたらいいのかわからなかった。


 まさか、王がただの人間になるなんて。


 このコンピュータの仕組みを知っている者も、リンガの仕組みを知っている者も王以外いなかった。今まではそれでも大丈夫だった。王は絶対に死なないし、判断を間違えることもないのだから。


 そのシステムは、この日をもって、完全に崩壊した。


「シバの塔の出力を上げろ! 癌を絶対に王都に入れてはならない!」


 焦りの滲んだ声で、王は叫んだ。


 そこにいるのは、もはや神ではなかった。

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