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「うう、やだあ〜」
来太は固いベッドに大の字で寝転がりながら、天井に向かって情けない声を出した。わざとらしい赤の天井を見つめていると気が滅入る。けばけばしい赤はまるで目を潰すためにあるかのようだった。
どうしても今日あった出来事を反芻してしまう。殿下の話も、桑原家のことも、全て自分には関係のないことだと思っていたのに。ここ数日でいきなり襲いかかってきた。桑原の真髄をまるで知らない来太にとっては、殿下の申し出はあまりに大きなものだ。どう考えても来太では役不足だ。その場では断ったはいいが、また家柄のせいで面倒ごとが増えそうな予感がして、腹が痛くなる。
「できることなら全てを投げ出したいな〜」
ゴロリと寝返りを打って、あまり弾力のない枕に顔を埋める。香水の匂いが取れないのか、色々な芳香が混ざり合っていて、あまり良い匂いはしなかった。
「来太くんは情けないなあ」
明るいミディアムショートの女が、来太の隣に座る。マッチングアプリで出会った仲であり、お互い大っぴらに素性は明かしていなかった。個人情報なんかどうでもいい。胸が柔らかく抱き心地がいいということだけが来太の興味関心だった。
「みきちゃん〜俺を養ってくれ〜」
え〜、とかなんとか言いながら、みきは煙草に火をつけた。清楚なオフィスレディーといった風なのに、喫煙者なのが良いギャップとなっている。
トントントン、と誰かが戸を叩く音がした。
「ん、なんだろう」
みきは手近にあったブラウスを羽織ると、とたとたと扉に向かっていった。来太は手持ち無沙汰になり、スマホを手に取り液晶を見た。午後二十一時十分。ここ渋谷百軒店からだと家まで四十分くらいかかる。また由那に怒られてしまうな、と思った。
「は〜い、なんでしょ……」
その声は、途中で消えた。
「みきちゃん?」
応答はない。入口の方は赤い壁に遮られて見えない。代わりに変な音が聞こえた。ばり、ぼり、といったその音は、何か硬いものを食べている時のような咀嚼音に聞こえる。来太は急いでワイシャツを着ると、入口に向かう。
ばり、ばり。
ごきゅ。
それは、こちらを見た。
「……ッ」
来太はその場に尻餅をついた。わからない。黒い「何か」が、ベッドをひとつ飲み込めそうなくらい大きな口をもぐもぐと動かしていた。その口から力なく垂れ下がっているのは、爬虫類のように目が飛び出した、ミディアムショートの女だった。来太が聞いていた咀嚼音は、骨が折れる音であり、肉がちぎれる音であった。
聞いたことはあった。そういった存在がいることも識っていた。桑原家は古来より「何か」に対峙している家ではある。しかし後継でもない来太は、実際に見て聞いて感じたことはなかった。全身の震えは止まらない。吹き出した汗は粗末なカーペットを濡らす。やられる。このまま座り込んでいれば、自分までみきのようになる。来太は手を伸ばして書類鞄を取ると、いざという時の護身用にと渡された鍔のない短刀を握りしめた。
「うわああああああ!」
時として叫び声は撃鉄になる。勢いをつけて起き上がり、カーペットを蹴った。作法や呪文などは知らなかった。考える余裕はない。鞘から抜いた黒い刃を、必死でそのぬめぬめと鱗の光る巨体に突き刺した。
グニュ、という感触だった。
「ガ、ガアアアア」
「何か」は青い血を噴き出した。蛍光色にさえ見える青はワイシャツに飛び散った。巨体から生えた触手をビタンビタンとくねらせたと思うと、力尽きたかのように地面に伸びた。来太は強張る手で「何か」から短刀を引き抜き、そのまま汚いカーペットに這いつくばる。
「はあ、はあ……うっ、おえええ」
先ほど食べたパスタとワインが、吐瀉物となりカーペットに染み広がっていく。硫黄のような悪臭が当たりに立ち込めており、ひどい頭痛で視界が歪む。
上から声が降ってきた。
「よお、桑原の若造。無事か?」
どこから入ってきたのだろう。もたげた頭を上げると、妙齢の男性だった。強く癖のある長髪には所々白髪が混じっている。こんな場所で、仕立てのいいスーツを着ているのが場違いだった。金のピアスが間接照明を反射する。
「その分だと大丈夫そうだな」
「大丈夫じゃない……あんたは……」
「俺? 俺は薬袋孝徳。薬の袋でミナイ。楢仁殿下の主治医兼ボディガードだ」
薬袋は「何か」の死体を指先でつついている。外見がチャラいのもあるが、いまいち信用できない人間だった。皇太子のボディガードともあろう人間が、こんなところで油を売っているのもおかしい。
「来太さんの様子を見に行ってくれって殿下に頼まれてな。王の選定が近いんだし、身の危険があるかもしれないってことで。まあ、桑原本家のボンボンが女の子とラブホでイチャイチャしてたってことは内緒にしといてやる」
それだったら助けてくれれば良いのに、と来太は心の中で悪態をついた。
「護衛の話、俺は断りましたよ」
「甘いな。その血筋に生まれた時点で戦争は始まっている。いくら断ろうと、もうお前は対戦相手にとっちゃあ敵将の駒だ」
逃げられない、ということだった。髪と目の色以外はごく一般人の来太でも、すでにこの戦争のプレイヤーだった。世界の主を決める生存競争の。
「理不尽だなあ」
「この分だと帰りも危ない。俺が家まで送ってやろう」
そう言いながら、薬袋は「何か」を乱暴に踏み潰して歩き出した。後ろ姿だけ見ると、危ない職業の人間にさえ見える。
「あの、これどうするんですか」
「ほっとけ。化け物にしろ、可哀想なお嬢ちゃんにしろ、敵方がどうにか折り合いをつけんだろ」
「正気か……?」
そもそも、楢仁殿下は何と戦っているかすらわからないのに。
「あんなデカブツを動かせるとなりゃ、このホテルもグルの可能性が高い。追手が来る前に早いとこ退散したほうがいい」
来太は気の抜けた体をなんとか引き起こして、非常口から外に出た。裏手には薬袋のドイツ車がつけてあった。促されるまま、革張りの後部座席に乗る。
ネオンが街を染め上げている。いつもドブ臭い渋谷の街だというのに、今日ばかりは熱帯夜が心地よかった。
玄関の引き戸を開けると、案の定由那が玄関に立っていた。
「お帰りなさいませ、来太さん。薬袋先生もありがとうございました」
由那は薬袋に向かって深々とお辞儀をした。早口で抑揚なく喋るので、機械音声のようにすら聞こえる。
「すまない。大事な本家筋のご子息を守りきれなかった。蛇が出てきた時には既に結界が張られ、近づけない状態だった」
薬袋もその無駄に大きい体を折った。この二人、最初から知り合いだったのか。来太は爪弾きにされたような感覚だった。
「心配ありません。うちの来太はその程度で倒れる人間ではありません」
「流石東京分家の当主だな、肝が据わっている」
随分勝手な物言いだった。来太は本当に超自然なことに対しての耐性がないというのに、その自信はどこから湧いてくるのだ。実際、あの時咄嗟に短刀を手にできたから良いものの、思いつかなければ「何か」に食べられていただろう。
「これから、仕事への送迎は薬袋先生に担当していただきます。来太さんからもお願いしてください」
由那はまじめ腐った表情を一ミリも変えず言った。氷を思わせる鋭い目線がやけに怖い。送迎をするとなると、しばらく夜遊びができなくなるのは明確だった。来太は大きくため息をついた。由那の視線が刺さる。由那に殿下。種類の違う圧の強い人間に囲われてしまったら、逃げ出すことなど不可能だった。
「よろしくお願いします……」
「おう、よろしくな、来太」
薬袋はドスの効いた声で言った。
薬袋が去った後、いつもに輪をかけて機嫌の悪い由那に、離れの道場に連れてこられた。確実に叱られる、と座布団の上で身を縮こませながら、蔵に行った由那を待つ。
「お待たせしました」
体感五分ほど待っただろうか。由那は、紫紺の細長い包みを抱えていた。上級な絹に包まれたそれは、外見からでもかなりの年輪が刻まれているのがわかる。
「子猫丸です。来太さんでも名前は聞いたことがあるでしょう」
それは、桑原家の祖先である菅原道真の刀と言われている脇差だった。菅原家が滅亡する時、この桑原家が宝物を引き継いだ。時代は降り、江戸に分家を移籍する際、太刀である猫丸は京都本家に、子猫丸は東京分家に分けて保存されることとなった。その一振りがこの刀。来太は唾を飲み込んだ。
「金枝の王は世界の支配者。先代を殺すことで引き継ぎが為される、というのは来太さんもご承知のことと思います」
「まあ、そのくらいは……」
「金枝の王というのは、遠くイタリアはアリキアの森の王、レックス・ネモレンシスから名が取られています。森の奥深くに生えている金の枝を折った者は、王を殺す権利を与えられる。見事王を殺せたら、自分が次代の王になる、という風習です。これは支配者がこの世界の死と再生を担っていることを示唆しています。私たちが拝する金枝の王もそれに漏れません。王が殺され次の王に成り代わることで、世界が循環し、時代が進んでいく。現王の四方田肇氏は、凶事に巻き込まれ昏睡状態ですが、当主様のことです。重要なことは何も伝えていないのでしょう?」
由那は子猫丸を来太の前に置いた。さながら正座で向かい合う二人の境界線のようだった。
「今から私は、現在起こっていることをお教えいたします」
「なぜ、俺にそんなことを」
「私は不公平が嫌いです。来太さんが無知のまま殺されたりしたら、いくら私でも寝覚めが悪いので」
キッパリと答えた。来太としても、ここで心配だからなどと言われたら正気を疑うところだったが、やはり由那は一本筋が通っている。桑原家は情に流されてはいけない、公平な選定者でなければいけない、を絵にしたような女だった。欧州などでは、自由の女神像に代表されるように、勇気や愛といった概念を芸術内で擬人化するが、正義を擬人化するなら由那のような感じになるのだろうな、と思った。現在の東京分家の当主は由那である。両親は早々に当主の座を移譲して海外で働いており、戻ってくることが少ないというから、自然と由那もしっかりした女になったのだろう。
「来太さんは、蛇、と言ったら何を想像しますか」
「蛇ですか。狡賢いイメージですかね。ニョロニョロしてて、悪者の感じがある」
「はい。大抵の人間はそういったイメージを持っているでしょう。呪術というのはそのような「なんとなくこんな感じ」を集合知として逆に利用したものになります。桃だったら瑞々しい、実りというプラスの雰囲気から連想して桃太郎の鬼退治説話になったり。白い色はなんとなく清潔な感じがする、という観点でいろいろな宗教で儀礼の衣装になったり、再生の象徴として使われたり。
要は呪術とは連想ゲームなのです。蛇は来太さんの言った通り、狡賢いイメージがあるので、各国の神話で敵として出てきて、聖書では人間を唆して知恵の実を食べさせます。イメージが先か、文献が先かはここではどうでもいいのです。現代の日本人は、蛇は悪い生き物として認識しています。
話は戻ります。金枝の王は、この世のどこかにある、世界樹の枝を守っています。世界樹の枝を折ったものは、王を殺す権利を授与されます。世界樹のある場所には、王の他に、桑原家のような、白髪紫眼を持つ人間が先導することでしか入れません。ゆえに我らは選定者と言われている。しかし先日、何者かが我らの助けなく世界樹の枝を切り落としました。察知した当主様が急いで駆けつけると、現王が息も絶え絶えになって苦しんでいました。四方田氏の体には蛇に巻きつかれたかのような痕が幾重にも重なっていました。それからです。桑原の家だけではありません。世界中の白髪紫眼の者が、蛇のような「何か」に殺され続けています……そしていよいよ、殿下のような力を持った人間にも、蛇の魔の手が及び始めました。蛇というモチーフを引用した呪術は、巨大悪のイメージに直結しますから、強大かつ狡猾です。桑原の東京分家はこうして、皇室から直々に協力要請をいただきました」
話を聞いてはいたが、映画のような話に、あまりついていけてはいなかった。自分の代でこんな差し迫った危機がくるものなのだろうか、と来太は思った。実感が湧かない。
「それならうちの父に依頼すればいいのに」
「私には知るよしもありませんが、本家と皇室は菅原の時代の因縁であまり仲が良くないようです。しかも当主様は目的のために手段を択ばないお方です。後継者の光太さんを守るために殿下や来太さんを身代わりにするなど、造作もないでしょう。実際、来太さんには、当主様の強力な監視がついていましたし」
来太は殿下の言葉を思い出した。監視がついているのでなかなか直接会話する機会が得られなかったと。仲が悪いとはうっすら聞いていたが、皇室関係の職についたのは実家の伝手などではなく、自分の判断だった。公務員だから食いぐっぱれないだろうという打算的なものではあるが。
由那は子猫丸を紫紺の袋から取り出すと、その鞘を払った。真冬の薄氷のように白い刀身が顕になる。
「私、桑原由那は、東京分家当主の座を来太さんに譲ろうと考えております」
「ええ!? 俺以外に何人もいるでしょう! なぜ知識も適性もない俺に……」
元々東京分家は十数代前の当主の双子の兄弟が仲違いしてできたもの、という話は知っている。引きつごうと思えば引き継げるのはわかるが。
「私は来太さんに適性がないとは思いません。むしろ、知識さえつければ随一の選定者になると見込んでおります。来太さんが東京分家の当主になることで、私としても動きやすくなります。もう凶刃は迫っています。逃げられませんよ、来太さん」
つまりいずれにせよ来太は身代わりの案山子なのだ。それなら、無知で殺される可能性がある方よりも、鍛えて自己防衛するほうが幾分かマシか。京都の父に判断を仰いだところで、利用されるだけだということは来太でもぼんやりと理解していた。
「承知しました。受けましょう」
由那は一文字に結んだ口を一ミリたりとも動かさず、子猫丸を差し出した。
来太はそれを受け取ると、親指の腹を切り、刀に血を吸わせる。豆粒のように盛り上がった血潮は赤い。化物の血は青かったな、と来太は思った。
あくる日の朝。迎えにきた薬袋の白いドイツ車に乗ってぼうっと外を眺めていると、職場を通り過ぎて三田の方面に車が向かっているのに気づいた。来太は慌てて薬袋を見る。
「薬袋さん、こっち職場じゃないですよ」
薬袋の車は男性ものの香水と、外車特有の年季が入った革のような匂いが混ざってダーティな世界観を形成していた。カーステレオからは古いジャズが流れている。薬袋はつまみを捻ってボリュームを下げる。
「俺たちに協力してくれるんだろ? だったら今日から来太の職場はここだ。お前さんの上司にはもう話は通してある」
薬袋は来太に目を向けることなく言った。赤い座席に、ピシッと着こなしたスーツがよく似合っている。一つに括った癖の強い長髪は、見ているとどうも暑そうだが。
視界が開け、車は見慣れた赤い尖塔の前で止まった。そのまま職員用の駐車場に滑り込んでいく。
東京タワー、誰もがその名を知っている電波塔だった。
来太は言われるがまま薬袋についていく。エレベーターに乗り込んで、地下に潜っていく。長方形の箱の中は暗くじめじめとして、空気がこもっていた。全面に貼られたカーペットに、音が吸い込まれていく。来太には、この箱は地獄へ続くエレベーターに思えた。相当古い型のようだ。
チン、と乾いたベルが鳴った。
扉が開く。粗末なエレベーターから一変。目の前に広がっていたのは、まるでNASAの司令室のような近代的な空間だった。眼前には、壁を埋め尽くすほどの大きな液晶。来太と薬袋は、半月型のバルコニーから階下を見下ろしている状態で、一段下がったところには無数のコンピュータが設置されている。しかしSF作品の司令室とは決定的に違うところがある。八角形の部屋には注連縄が渡されていて、ちょうどバルコニーの直下には、地鎮祭で見るような簡易的な祭祀場が作られている。四方を守るように札が貼られており、淡い光を放っていた。
祭祀場の前には、ワイシャツ姿の楢仁殿下が立っている。殿下はこちらに気づくと、目を細めて笑みを浮かべた。
「来太さん、薬袋、降りてきてください」
バルコニーの横に伸びた階段を降り、殿下に拝謁する。案内された会議スペースに腰を下ろす。
「東京タワーは優れた霊場の上に立っているのです。元々この場所は増上寺の墓所であり、タワー自体も米軍の戦車をスクラップした廃材から作られています。塔は仏舎利とも取れます。つまり、念の集積所、霊力を行使するのに適した塔なのです。表向きは電波塔ですが、その実は私の司令塔です。来太さんは呪術の関係には明るくないとお聞きいたしました。そこで戦力不足を補うために、由那さんから桑原伝家の秘術を、ここで私の組み上げた呪術論理を学んでいただきます。学ぶと言っても、私は自由に使える時間が少ないので、そこの薬袋に学ぶ形にはなりますが」
殿下の表情には一切の邪気がない。薬袋は承知済みなのか、殿下に向かって頭を下げたまま動かない。
「私としても、来太さんのような、事情を知らない人間は巻き込みたくなかったのですが。申し訳ありません」
「あ、頭を下げないでください! 俺なんかでよかったら協力いたします」
「ありがとうございます。あと、これはできたらでいいんですが……。なるべくなら、来太さんに敬語を使ってもらいたくないのです。えっと……友達、なので」
初めてこんなことを頼むのだろう。目線が泳いでいる。
「……わかった。じゃあ殿下も敬語さん付けは極力なしで。外すの難しいようだったら、そのままでもええよ」
殿下の目が、水を得た魚のように輝き出す。
「あ、ありがとうございま……! 言っちゃった……」
慌てて口を覆う殿下に、ふにゃりと表情筋が緩む。来太も釣られて笑った。
「殿下」
諌めるように薬袋が口を挟む。殿下はしまった、と言うように姿勢を正す。
「そうだった。目下の僕たちの敵は、新興宗教団体の「トコツカガチ」。教義に蛇神信仰を掲げていて、若者を中心に急速に広がっている。先駆けて調査したところ、被害者が出た場所と何らかの関連性があることがわかった。来太には、ある程度基礎が固まった暁には、この団体を調査してもらいたいんだ」
来太は昨日のことを思い返した。渋谷の街を歩いていても、蛇を絡ませたような落書きが多かったように感じる。家柄を気にしていることもあるが、来太自身クラブに頻繁に出入りするような性分ではないので、やんちゃな若者文化には明るくなかった。
「わかった。協力しよう」
来太は頷いた。殿下の顔の半分は、東京の街が映し出された巨大モニターが反射して、青に染まっている。渦巻き状の都市の中心に、皇居がある。渦巻き、うねり、とぐろを巻く。来太は急にえもいわれぬ恐れを感じた。嵐の海の向こうから、黒い点が大群となって押し寄せてくるような。侵食と捕食。青い血。それは昨日の「何か」を前にしたときに感じた恐怖と同類のものだった。
全身を打撃されているような爆音に、来太は辟易した。クリスマス目前の渋谷は、移動するのが困難な程の混みようだった。当日じゃないのに随分混んでいるなあ、と思いながら指定されたクラブに入った瞬間音響に晒されてぐらつくだなんて、もう若くないのを実感する。とりあえず手前のバーカウンターでスミノフを頼み、背の高い椅子に腰掛けた。踊り狂う若者。波打つ会場。壇上ではDJとボーカルが、アップテンポな歌を歌っている。
『来太。聞こえるか?』
片耳につけたワイヤレスイヤフォンからかすかに薬袋の濁声が聞こえる。薬袋は渋谷を徘徊していおり、来太に何かあったらすぐに駆けつける算段だった。少し音量を上げて、スカジャンのポケットに入っているリモコンのボタンを一回押す。一回ではい、二回でいいえだ。
『蛇が絡みついているマークを所持していたら、高確率でクロだ。接触して話しかけろ』
一回押す。このクラブは来太が襲われたホテルからも近い。敵が潜んでいる可能性は高い。この場所を突き止めたのは殿下だったが、近い以外に何を根拠にしているのかはわからなかった。
「おにーさん、ひとりー?」
派手な化粧の女が近づいてくる。黒いストレートヘアにインナーカラーの赤が映える。黒いへそ出しのスポーツウェアの上に、MA-1を肩が出るように羽織っている。
「ひとり。君は?」
「ひとり。音楽に乗らないで、雰囲気に浸りながらひとりでじっと酒を飲んでるのが好きな性分。時々人と話したりしてさ」
一重瞼に柳葉のようなつり目。目尻に入れた朱がよく似合っている。
「あたしは朱李。人材紹介みたいなことをやってる」
「タイラ。フリーのエンジニア」
「あーね。タイラさん、ここ初めてでしょ」
「わかった?」
「人種違うもんね。どっちかってとあたしと同じ人種。ここはねえ、そろそろ狩場になるから、一見さんは気をつけたほうがいいよ」
「狩場?」
曲が変わる。次はダークな曲調のEDMだった。曲調はエレクトロだが、パイプオルガンやチェンバロの音色も混ぜられていて、どことなく宗教音楽を思わせる。照明の色も、ポップなものから赤や紫基調のものに変わる。
「そろそろかな。もしタイラさんに勇気があるのなら、面白いものが見れるよ」
朱李は舞台に目線を移した。舞台中央の幕の奥から、黒革のピチッとした衣装に身を包んだ女性が現れる。全身に刺青が入っており、その柄はまるで蛇の鱗のようだった。来太は全身の毛が逆立つのを感じた。その目元は黒いヴェネチアンマスクで隠されており、モノクロの世界の中で口紅の赤だけが色彩だった。
「カガチ様。現在渋谷のナンバーワン歌姫であり、蛇の血を飲んだ人間」
『カガチ……!』
イヤホンの穴から、薬袋の絶句が聞こえる。トコツカガチ。今回の潜入の主目的である宗教団体の名前。カガチとはそのまま蛇の意である。
「蛇の血?」
「タイラさんは何も知らないんだね。蛇の血を飲んだ人間は死なないと言われているの。実際、カガチ様も百年前から生きているとかいないとか。まあそうやって売ってるんだと思うけどね」
朱李は手にしたショットを一口飲んだ。歌が始まる。確かに伸びが良く力強い歌唱だったが、注目すべきはそこではない。歌詞だ。悪魔讃歌と言えばいいのだろうか。来太の曖昧な英語力で聞いた限りだと、巨悪を讃える歌だった。客たちはその圧倒的な歌と踊りで、半ばトランス状態に入り始めている。
「あは、すごいでしょ。あー、タイラさん完全に引いてるじゃん」
「いや、これは……」
まるで現代の黒ミサだ。こんなものが、ふらっと入れるような、若者の街のクラブにあってはいけない。来太が知っている、ただ快楽のまま歌って踊るクラブとは違う。完全に異常だった。カルト宗教のそれだ。それこそ危険な薬が入っている人間も少なからずいるのではないか。
歌唱が止まり、バックグラウンドミュージックがだんだんフェードアウトしていく。カガチ様は再びマイクを口に当てる。
「今日は特別なお客様がいるようね。朱李、紹介してちょうだい?」
呼ばれた朱李は立ち上がった。サスペンションライトが当たる。観客が揃ってこちらを見る。
「トコツカガチ特命エージェント八重垣朱李、本日のメインディナーを紹介いたします。正統なる選定者家系、桑原家の隠し玉、桑原来太さんです!」
ライトが朱李から来太切り替わる。客の目線が、一気に来太に集中する。おかしい。薄暗い店内で、こちらに照明が当たっているのに、客の目がやけに赤く輝いて見えるのだ。
「気づいていないとでも思った?」
来太の耳元で囁いた。朱李の長い舌が、首筋をひと舐めする。
「こーちゃんには申し訳ないけれど。せっかく腑に飛び込んで来てくれた食糧を、逃すわけがないでしょう?」
ギョッとして朱李を振り払う。その舌は、二つに割れていた。
その瞬間、客の体が崩れた。泥のように溶け出した体は、人間の形を失い、細長く変化していく。不自然に生えた触手と鱗、ギラギラと光る赤い瞳、もはやここには人間はいない。渋谷の路地裏は、蛇の巣穴だった。
『来太!』
「わかっています!」
深く息を吸う。
「独鈷、大金剛輪、外獅子、内獅子、解縛、内縛、智拳、日輪、隠行」
印を結ぶ、九字を切る。ぼんやりと来太の周りが光を帯びる。九字は魔除けであり調伏法でもあった。重ねて呪文を唱える。
「東山つぼみがはらのさわらびの、思いを知らぬか忘れたか!」
今にも襲ってきそうだった蛇たちが少し怯む。民間信仰における蛇避けの法だ。薬袋から教わったのは、流派や宗教に拘らず、日本における呪術の実践理論だった。蛇、と一概に言っても、どの蛇かわからないと正しい呪文は導けない。実践経験がない来太にとって、知識が唯一の武器となる。
瞳の紫が濃くなる。来太の周囲にバチバチと光が飛び散り始める。桑原の血統。それは怨霊と化した菅原道真、雷神の裔だ。自然と体に馴染むのは、雷の呪法だった。
「オン・インドラヤ・ソワカ」
来太から生み出された紫電で、蛇たちは一斉に感電する。痺れにのたうち回った挙句、一匹、また一匹パタパタと地面に伸びていく。倒したからと言って、ぼうっとしている暇はない。クラブ内が混乱を極めている今のうちに、すぐに脱出しなくては。来太はイヤホンマイクをオンにした。
「薬袋さん、今どこですか」
『来太! すぐに来い! スクランブル交差点だ!』
薬袋の声には焦りが感じられた。渋谷の繁華街なので雑音が入るのはしょうがないが、それにしては周囲がざわついている。来太は鞄を引っ掴むと、百軒店の坂を滑り降り、道玄坂を抜ける。
「やばくない?」
「あれ、ホログラムなのかな」
「怪獣映画じゃん」
先ほどより、明らかに混み合っていた。通行人たちの顔には戸惑いや好奇心が浮かんでいる。やっとのことでハチ公前広場に辿り着き、薬袋を見つける。背が高いのですぐにわかる。
「お待たせしました」
「来太、あれを見ろ」
薬袋はレンタルビデオ店のビルの上を指差した。視線を移す。
そこには、鬼灯のように赤い蛇の目が、雲間からこちらを覗いていた。巨大な瞳は、人間たちを遥か天上から観察しているようであった。
大スクリーンだけでない。ここから見えるすべてのスクリーンが暗転する。そこに写っていたのは、先ほどまで近くにいたはずの朱李だった。長い前髪の隙間から、光のない黒い瞳が覗いている。
「皆様ご機嫌麗しゅう。トコツカガチの八重垣朱李でございます。本日はお日柄も良くー、なんて言ってられないね。今日ここにあたしが来たのは、終末のお知らせです!」
画面にもう一人人影が現れる。ずた袋のように朱李が引っ張ってきたのは、来太の父だった。手足は固く縛られ、猿轡をされている。薬で眠らされているのか、項垂れたまま起きる気配はなかった。
「金枝の王だかなんだか知らないけど、世界樹に近づくのは簡単なんだよ〜。こうやって選定者を眠らせて連れてけばいいだけ。眼球認証だし、最悪目玉だけ取ってけばいいし。あ、そんなトリック問題じゃなかったね。我らが主の目的は次の王になることじゃない。この世界を滅ぼすことでーす。あ、邪魔が入ったかな」
朱李は画面外に目線を写した。カメラが切り替わる。画面が揺れているので、どうやらハンディカムに替わったようだ。
「このクソ蛇女! 当主様を返しなさい!」
由那だった。着物はズタズタに破れ、体じゅうから血を流していた。手には本家の宝刀である猫丸が握られている。かろうじて立っているが、今にもふらっと倒れそうだった。
「ばっちい女が写っちゃってごめんね〜。丁度いいかな、このブスには見せしめになってもらおうか」
「え、いや」
由那の体が何かに巻きつかれて締め上げられる。姿は見えない。しかしそこに巻き付いているのは明らかに蛇だった。
「由那!!」
来太の叫びが由那に聞こえるはずはない。しかし蛇が締め上げる隙間から由那は、もがくように手を伸ばした。
「来太さん……っ! たすけ……」
か細い声が途切れた瞬間、由那が弾けた。骨と肉片が飛び散り、床は赤く汚れている。もう原型を留めていない粉々の頭蓋から、白い髪が伸びているのが生々しかった。
画面を、雲間を一心に見ていた通行人たちが、あまりにショッキングな映像にパニックになる。
「ごめんね〜でもみんないずれ死ぬし、大丈夫だよ。我が主が高慢な人間を裁いてくれる。王の選定なんて、人間様が烏滸がましいにも程があるよ。ああ、いつになるかって? 啓蟄って言うでしょ? 春になれば本格的に蛇が動き出す。それまで首を洗って待っていてね、できれば塩を塗り込んでおいてくれると助かるかな! じゃあまた会いましょう〜」
映像がプツンと切れる。一斉に暗くなったモニターたちに、唖然とするもの、ヒステリーに陥る者、様々な人間を押し退けて来太と薬袋は車に乗り込んだ。乗ったからと言ってパニック渋滞が収まるわけではなかったが、とりあえず二人で喋れる場所は確保できた。
「もう、何が何だか……」
「わかんねえ。だが、少なくともこれだけはわかる。俺らの敵は人間じゃねえ、世界の終焉だ」
東京タワーに向かい走り去るドイツ車を、赤い眼がじっと見つめていた。




