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「反乱軍……ッ!」
狭い洞窟に、たまの驚愕した声が反響する。反乱軍といえば、リンガの倒壊を招いた元凶ではないか。王が唯一神と言われるこの世界で、非力にも抗う者達。それがたまとどういう関係があるのだ。
後ろに控えていた禿頭の男が、身を乗り出してたまを見る。荼鬼と名乗った狐耳の女とは違い、あからさまに訝しさが顔に浮かぶ。
「この娘っ子が幸姫様だって? まだガキじゃねえか」
「幸姫様は転生するときに姿形が変わることもあるとおっしゃった。不動には判別できなくとも、私は匂いでわかる」
荼鬼は満足げに鼻をひくつかせた。一方、不動と呼ばれた男は腕を組んでたまを睨んでいる。沈黙が場を満たす。たまは勝手に話を進める二人に我慢できなくなったのか、在太の手から離れ拳を握りしめた。
「先ほどからなんですか、人に向かってコソコソと。大体、私は幸姫じゃありませんし、あなた達のことも知りません。反乱軍なんてもってのほかです。リンガの倒壊を引き起こすようなこと、私がするはずがありません!」
たまがぷりぷり怒っているにも関わらず、荼鬼と不動は冷静にたまを見つめている。それは値踏みをするように。
「記憶の欠落か」
荼鬼がぼぞりと呟いた。
「で、どうするんだ姐さん、連れてくのか」
「ああ」
不動は渋々頷くと、失礼しますよ、と言いながらたまの藤枝のような細い腕を掴んだ。その大木を思わせる太い腕で空中に何か印を結ぶ。途端、たまは短い叫び声を上げたと思うと、その上体をふわりと崩す。倒れる。在太が慌てて駆け寄ろうとすると、目の前に荼鬼が立ちはだかった。
「大丈夫。眠っているだけだ」
たまは不動の腕の中で、うとうとと船を漕いでいる。荼鬼は懐から小判を取り出して、在太に突きつけた。
「少年、幸姫様を助けてくれたこと、感謝する」
それは在太一人だったら、数ヶ月は暮らしていける金額だった。在太にとって魅力的なものではあったが、この小判を受け取ったらもう一生たまと会えなくなるような気がした。
「た……幸姫は、あなた達が連れて行くんですか」
在太は仮面越しに荼鬼の瞳をじっと見つめた。荼鬼はやはり静かに答える。
「我らには幸姫様が必要だ」
「……仮定の話です。この……たまがその幸姫じゃなかったら、どうするんですか、俺みたいに金を渡して捨て置くんですか。大金を貰ったからと言って、あなた方が加害をしないという保証にはなりませんよね」
荼鬼は差し出した小判を懐にしまい、目線をふいと逸らした。
「……わかった。お前もついてこい」
荼鬼は在太に背中を向け、洞窟から出た。たまをおぶった不動もそれに続く。
在太は一瞬顔を曇らせたが、渋々洞窟から一歩踏み出した。
外は晴れ模様だった。深い空色に、やけに速く雲が流れていた。昨日の亀裂は刻みつけるように天に走っていたが、空を支えるように立つはずのリンガはどこにも見受けられなかった。
渓谷の野原を埋め尽くすように、天幕が群れを成している。
「断頭衆の野営地だ」
荼鬼は短く言うと、中心の一番大きな天幕に足を向けた。たまは不動に背負われて、心地よさそうに眠っている。石を組んだだけの簡易的なかまどからは煙が上がっており、所々から食事の匂いがする。反乱軍というだけあって、若い男が多いのかと思っていたが、老若男女様々な人間が天幕の下で生活を営んでいた。ただ不思議なのは、賎民の組織だというのに、誰も仮面をしていないことだった。誰も彼も、疵を全面に出したまま大手を振って歩いている。
「荼鬼様! お帰りなさい!」
まだ歩き方もおぼつかない少女が野花を持って荼鬼に向かって走ってくる。その直面には大きな火傷の跡が残っている。
「あのね、これ、東の野原で摘んだの、えっと……」
少女はもじもじと野花を荼鬼に差し出す。荼鬼はしゃがんで受け取ると、少女の頭を優しく撫でた。
「ありがとう、大切にしよう」
少女は顔を赤らめて、どこかの天幕に走り去ってしまった。荼鬼はそれを見送ると、帯にその花を差した。
「あの子の親はリンガ倒壊の大火で亡くなってな、以来私たちで保護している」
荼鬼は断頭衆から随分と慕われているようだった。先ほどの少女だけではない。荼鬼が歩く度、皆親しみのこもった挨拶をする。在太が出会い頭に受けた、冷徹な印象とは真反対だった。こんなにも笑顔を向けられる人なのか。
「ここだ、入れ」
天幕は風がよく通る作りになっていた。杉の支柱が一本、天蓋を支えるように立っている。天と、柱。在太はそれを見て、倒れたリンガを思い出した。
荼鬼は絨毯の上に座布団を敷くと、在太に座るように促す。たまは部屋の隅の寝台に寝かされ、規則正しい寝息を立てている。
「在太は反乱軍について、どこまで知っている」
荼鬼は座布団の上に胡坐をかく。麻の織物で作った真紅の座布団から、程よく筋肉がついた褐色の脚が伸びる。
「王に逆らったから、リンガ倒壊の元凶になったとしか」
在太は面の下の皮膚を掻いた。荼鬼はため息を吐く。
「順序が逆だ。反乱軍は元々、リンガが倒壊して気枯れに侵され、賎民になるしかなかった者達で結成された。この断頭衆だけではない。他の反乱軍も大概そうだ。事情を知らない者たちは殺人集団と罵るが、実際は王に排斥された者たちの寄合といった方が正しい。在太のように、自分で生計を立て一人で生きていける賎民はそう多くない。ここは、皆が助け合い少しでも長く生を全うするための場所だ」
確かに、在太が天幕の村で見たものは、血気盛んな戦士ではなく、普通の民衆たちだった。ただ細々と、日々の暮らしを送りたい者たちだった。
「じゃあ、なんで幸姫は断頭衆に必要なんですか。見たところ肌には傷などありませんし、獣人なわけでも、気枯れに犯されているわけでもない」
「幸姫様は元々、倒壊したリンガの領主の娘だったと聞いている」
荼鬼はちらりとたまの方を見遣った。
「そのリンガが倒壊した時、人々は責任を領主に押し付けた。領主とその妻は責任を取って、手持ちの介錯刀で自害。残された娘である幸姫様は、荒野をさまよった挙句、火車族という巫者集団に拾われる。火車族というのは、猫の獣人の一族なんだが、死者の霊魂……気を操ることができた。その術を学んだ幸姫様は、断頭衆を立ち上げ、蘇生術で人々を治療した」
たまの蘇生術は、獣人から学んだものだったのか。一般民衆から必要とされている来迎屋やヒムアラヤの巫女達とは違い、特に人と獣の混ぜ物である獣人の秘儀は、一族のためだけに使われ一族にのみ伝承されるものが多い。あの博識な師匠が知らないのも当然である。
「幸姫様は、この断頭衆の姫様みたいなものだった。それが失われたのは、断頭衆の若い男数人が、満を辞して王城に攻め入った時だ」
「王城って、あの」
「そう、王都ラージャグリハの、シバの塔だ」
厚い城壁で囲われた、特権階級の者しか入れない王都。その中心に立つのが、王の居城シバの塔だった。たまが言っていた赤い塔とは、まさか。
「でも、どうやって入り込んだんですか。王都なんて、賎民には近づけないはずです」
「私は、賎民夜叉だ。あの騒動の後権利は剥奪されたから、正しくは夜叉だった、だな」
夜叉とは、王の臣下のことである。頭脳だけではなく、心技体、様々な試験を突破してやっと就くことができる高級官僚だった。賎民からもなれる枠があるとは聞いたことはあるが、目の前の荼鬼がそうだったとは、在太には俄に信じられなかった。賎民にとって夜叉とは、領地支配と言いながら権力を振りかざす王僕に他ならないからだ。
「夜叉はラージャグリハへの通行権を、民衆に一時的に分配することができる。その時引き連れて行けるのは十人ほどだったが、その中に幸姫様も入っていた。私たちは登城した挙句、数人を残して、王の怒りで無惨にも殺されてしまった。王城に多くの気枯れが侵入するのは、王の法に反する。幸姫様は死期を察して、自らを分霊した。すぐに蓮の池で転生するように……そうして生まれたのが、そこの、たまだろう」
たまはやはり気持ちよさそうに眠っている。まるで自分かもしれない者の事情など何も知らないように。
「なんで、そんな無謀なことをしたんですか」
荼鬼は拳を握りしめた。
「私たちは、ここにいるからだ」
その辰砂の瞳には、炎が宿っている。
「この世界は王がお作りになられたものだ。王は完全無欠で、絶対だ。ではなぜ、気枯れがある。死がある病がある獣人がいる! 王は民全員を幸福にするのではなかったのか! しかし王の眼中に、賎民などいないのだ。でも私たちはここに生きて存在している。それを、王の前で証明するのだ。慈悲深いはずの、偽りの王の前で」
在太は、炎は野火となり、各地に広がっていくことを想像した。その眼差しは、そのような気迫があった。
「断頭衆とは、人喰い獣人ダキニ族に伝わる伝説から名をとった。その昔、首を狩り、血を分け与えた神がいて、それがダキニ族の祖になったと。王が生まれる前、神は王以外にもいたんだ。賎民の神が。それはある事実を証明している。賎民は……差別されることなく、生きていてもいいのだと」
断頭衆が仮面をつけていない理由。それは人非人と罵られてきた仮面の化け物たちも、人間であると言うことを知らしめるためなのだろう。
「荼鬼さん」
鈴を転がすような声が聞こえた。いつの間にかたまが起きていたらしい。
「話は聞きました。正直に言って、私がその幸姫だという自覚はまだありません。でも、ただのたまとして、断頭衆で働かせてもらうことは可能でしょうか」
たまの顔には決意が表れていた。着物の裾を握りしめる手には、力が入っている。
「承知した。これからはたまとして、貴方を扱う。在太はどうする」
「俺も、手伝えることがあれば」
たまがここにいるというなら、在太には断る理由がなかった。離れたとて、いつ眠るかわからない旅暮らしに戻るだけである。
「ああ、わかった。これより、たまと在太の両名を、断頭衆に迎え入れよう」
荼鬼はたまに手を差し出した。たまは躊躇なくそれを握り返した。
たまと在太が野営地に着いた、次の日。
「蘇生の術が使えると言ったな」
返事をするなり、たまは簡易療養所に連れてこられた。大ぶりな天幕の中には全面に絨毯が敷かれ、布団には数え切れぬほどの病人が横たわっている。皆どこかしらに黒いあざがある。気枯れに冒されているのだ。
「沙羅」
荼鬼が呼ぶと、美しい女性が前掛けで手を拭きながらやってきた。柔らかい黒髪は緩く後ろで縛られており、彼女が歩くたび耳飾りと共にその髪が揺れる。初雪のように淡い肌と甘い体つきも相まって、独特の艶がある女性だった。
「昨日伝えた、たまだ」
「へえ、この子が」
沙羅は目を細めてたまを見た。その美貌にやられて、たまはなぜか体が熱った。
「アタシは沙羅。療養所の看護長をしているんだ。これからよろしくね」
「あ、よ、よろしくお願いします!」
思わず声がうわずったのを聞いて、沙羅はカラカラと笑う。たまはどこかに隠れたい気持ちでいっぱいになった。
「緊張するのも無理はない。大丈夫、肩の力を抜いて」
沙羅はたまの肩をポンポンと叩いた。なおさら火照ったような感じがする。
「沙羅、後は頼んだ」
「あら、もう行くのかい。せっかく来たんだから、茶でも飲んだらいいのに」
「まだ森に被災者が残っているかもしれない。休んでいる暇はない」
そう言い残すと、止める間も無く荼鬼は天幕を出ていってしまった。
「相変わらず生真面目だねえ」
沙羅は脇に置いてある木箱を一つたまに渡した。箱には小さな引き出しが沢山付いて
いる。
「これは?」
「薬箱。たまにはこれから、看護の仕事に就いてもらうよ。薬草の種類と効用をみっちり覚えてもらうからね」
しかしこの薬箱、見ただけでも何十種類も引き出しがある。たまはごくりと喉を鳴らした。在太と昨日話し合って、火車の蘇生術は使わないと決めたのだ。無駄に幸姫と騒がれても大変だから。
「はい!」
「いい返事だ。じゃあ早速手を動かそう。まずは座学からだ。知識がないと臨床はできないからね!」
沙羅のしごきは想像を絶するものだった。大量の薬を暗記させられ、暗唱し、その早さと正確さを見られた。リンガ倒壊で病床は逼迫している。一刻も早く現場に入って欲しいという要望に、たまは全身全霊で応えようとした。気がついたら日が傾き、夕闇をカラスが彩っていた。
一方、在太である。在太は不動と剣の稽古に励んでいた。
重たい一振りが、真正面から落ちてくる。まともに武道などやったことのない在太は受け止めるのが精一杯で、受け身を取るたびに地面に転がり泥だらけになった。また、体勢が崩れる。口の中に砂が入る。ジャリジャリとした不快感が残る。
「その位でへばるな! もう一本!」
「はぁい」
「声が小さい!」
「はい!」
不動の怒号が伸びる。森の中には数多の剣戟が響き渡り、男女問わず、若者たちが木刀を振るっている。在太にしてみても、ここで働くと決めた以上、仕事はしなくてはならない。しかし毎日死人が出るわけでもなし、来迎屋として手を貸せることは少なかった。必然的に、肉体労働に駆り出されるわけである。
集落の方から、鐘の音が聞こえる。昼食の時間になったらしい。不動は顔を上げると、首にかけた布で鼻を拭った。
「これにて休憩に入る! 各自集落に戻って昼食を取るように!」
よく通る声だった。不動は断頭衆の護衛隊長を務めており、大規模な集落移動や王の追手がないときは、こうして若者相手に訓練をつけているのだ。本人は非常に快活な男で、部下からの信頼も厚い。ちょうど耳のあたりから頭頂部に、炎のように走る痣がなければ、王の臣下になっていてもおかしくはない。
集落に移動して、炊き出しの握り飯を手に木箱に座って涼んでいると、不動がやってきた。
「お疲れさん、どうだ護衛隊は」
不動は握り飯を六つも抱えている。昼食で全部食べるのかと思うと、在太は胃がキュッと寒くなった。
「しんどいです。不動さん、俺、運動苦手なんですよ」
「見てりゃわかる。でも断頭衆は組織の性質上、五体満足で体力がある奴が少ないからな。在太みたいな貴重な労働力を、捨て置くわけにはいかねえ。とりあえず、刀を振り回せるくらいにはなっとけ」
「はい」
在太は不動の腰に刺さっている刀を見た。鞘がないのかただ白刃に布をぐるぐる巻いた状態であり、その刀身がちらりと見えた。在太の持っている黒い短刀とは違い、白銀の刃が日光を受け光っている。
「この刀は、介錯刀じゃないんですね」
「ああ、春眠刀だよ。介錯刀は一般に流通してないからな。軍用には切れるだけで殺せない、春眠刀が使われる。そもそも、梵天衆の伝手がないと介錯刀なんて手に入れられないだろ」
「確かに」
梵天衆とは、介錯刀を作ることができる刀鍛冶集団のことである。この国の北端のリンガに居を構えると言われるが、正確な位置は誰も特定できない。殺人できる刃物なんて、王に見つかれば処刑も免れないからだ。そもそも、来迎屋でさえ介錯刀は師匠から弟子に引き継がれ形成されていくものであり、刀が折れでもしない限り、梵天衆のところにいく必要はまずない。在太自身、梵天衆に接触したことは、記憶の限りではなかった。
「そういえば、梵天衆は滅んだって話じゃねえか。何でも、北端のリンガが倒壊して、一帯が気枯れに冒されちまったらしい。ハーヴァみたいに王都からそこまで離れてなければすぐ復活するらしいが、北端じゃなあ。この話が嘘か本当かはわからんが、在太も自分の刀は大事に使えよ」
「はい」
在太は胸元の短刀を撫でた。じんわりと温かいような気がする。
「でも、春眠刀でも、介錯刀でも、結末は同じですね。春眠刀だって、やはり致命傷を負えば、再生はしますが暁を浴びても起きられないほど眠ってしまうわけですし」
不動は眉間を狭めると、握り飯にかぶりついた。
「俺はそうは思わねえな。安らかな眠りと、痛みを伴う死はやっぱりちげえよ。……俺は元々西方の山寺の僧兵なんだが、ある時住職の娘と共に破門されてな。その時は事情なんてよく知らなかったが、後からその寺が焼き討ちにあったのを知った。住職の娘は親を生き返らせろと暴れたが、火だるまになって骨しか残らなかったら、流石に健常者でも再生は無理だ。娘はちゃんとした輪廻に親を送ることができなかったことを後悔した。娘は来迎屋に弟子入りし、結果全身気枯れて苦しみながら死んだ。だからさ、在太みたいに若いのが来迎屋やってるの見ると、やめとけって親心が働くんだよな。来迎屋の……人殺しの終わりは地獄行きって確定してるからよ。在太も、今からでもちゃんと護衛隊に入って、来迎屋はキッパリやめないか」
それはいい誘いだと在太は思った。思ったが。
「俺、あんまり覚えていないんですが、倒壊したリンガの下敷きになってたらしいんですよね」
師匠である釈天にはその時拾われた。六つくらいの年の時だろうが、気枯れの作用だろう、そもそも拾ってくれた以前の記憶はひどく曖昧で、親がいたのかすら在太にはよくわからなかった。それからは釈天と一緒に、国中を巡って来迎屋の手伝いをした。釈天は気分屋で、女好きで、金遣いも荒く考えなしだったので、それなりに苦労はしたが、今思うとなかなか楽しいものだったように思える。
異変が起きたのは、それから六年後のことだった。釈天の容態が悪化したのだった。全身にあざが広がり、四肢は壊死していった。気枯れと隣り合わせの来迎屋には、遅かれ早かれ訪れる結末だった。釈天が安らかな眠りについた後、在太は釈天が残して行った書物を参考に、見よう見まねで執刀した。来迎屋として初めての仕事だった。
「何か恩返しをしたいな、と思ったんです。釈天には直接職を継げとは言われてなかったんですけど、釈天の仕事を引き継ぐことが恩返しになるかなって。だから、中途半端なところで、来迎屋はやめられません」
ちゃらんぽらんな師匠だったが、愛されていたのは、在太にもわかっていた。それに見合うことができているかは、いまだにわからないが。
「苦労するなあ、在太は」
竹筒から水を飲みながら、不動はぼやいた。
「そうかもしれません」
在太は、短刀を鞘から抜いた。
黒い刃は、太陽の光を吸い込んで、より一層黒く光った。
***
王都、ラージャグリハ。
人呼んで鋼鉄の都市。千年変わることのないその出立は、不朽を讃えているようでもあった。城壁に囲われた円形の街には仏閣を基にした摩天楼が立ち並び、人々は忙しく王の繁栄を謳歌している。鉄と石で固められた街のその中心には、朱の映える赤い塔。仏塔を何層にも降り重ねたようなテクスチャは、やがて入道雲の中へと続く。
その、天を突く塔の中。
「ハーヴァのリンガが落ちました」
壁一面を覆うほどの液晶に、赤い印が一つ増えた。やがてその赤は周囲にドロリと広がっていく。その液晶を囲むように、また小さな液晶が並んでいる。中央官制室、と名付けられたそこは、この国の脳と言っても過言ではない。
「いかが致しましょう、王」
文殊が振り向いた先には、黒い影があった。姿形は成人男性であったが、小さい女性なら二人は影に入ってしまうほどの高さがある。髪は団子に結い上げられ蓮の簪で留められているが、解いたら地に届いてしまうだろう。近臣たちよりも着飾っている訳では決してない。しかしその躯体から溢れる重油にも似た存在感により、この国にいる誰よりも圧倒的で恐ろしい存在だということは、生まれたての赤子であっても認識できた。
王は部屋を見下ろす欄干から階下を眺めた。その眼差しには、人間性が感じられない。
言い表すなら、機械仕掛けの神。
「空は天蓋、支えるは柱。地に蔓延るは民」
その声色は年若かったが、ひとつ、またひとつと言葉を発するたび、血の滲むような歴史が刻まれているのがわかる。重厚であり耽美であった。
「既にデバッグは行なっている」
「ですが、また賎民どもが……」
「癌は焼けばいい。バグは摂理。保守と点検を怠るな」
「はい」
文殊は王から離れ階下に下がり、席についた。液晶を一つ立ち上げて、鍵盤を叩き始める。
「癌、ねえ」
欄干の緞帳の奥から、若い男が現れる。健康的な体つきは大柄と称されるものではあるが、王の横ではそれはやけに小さく見えた。男は欄干に寄りかかり、大画面を見つめる。ハーヴァの文字が目に入った途端、少し眉間を寄せた。
「異論があるか、愛染」
愛染は腰まである長い黒髪を揺らした。その顔には不敵な笑みが張り付いている。
「ありませんとも。しかし癌は癌です。癌にかかった病人は、例え万能薬アムリタをしてもなかなか完治はできない」
「何が言いたい」
「見くびると怖いということです。王だって、それは重々わかっているでしょう」
愛染は王を見た。王の顔には、何の表情も浮かんではいない。
「当たり前だ。だから、徹底的に撲滅しなければならない」
愛染は、その押し殺すような王の声に、少しだけ人間性が滲んだのを感じた。それも一瞬のことで、すぐ元の声音に戻った。
「して愛染、梵天衆の行方は」
「王都もサーグラタットも隈無く探しておりますが、なかなか尻尾を出しません。もとより呪具を持った状態です。長くは逃げられないとは思いますが」
無慈悲な王のことだ。愛染は何かしら処罰が降るかと身構えたが、特に何もなく、そうか、と短く返しただけだった。王は肩布を翻すと、緞帳の奥へと消えていった。




