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在太はゆりかごの中にいるように感じた。背中に心地いい揺れを感じる。体が鉛になったみたいだった。だるくて動くことがひどく億劫だった。ふかふかの布団を被っているのに、やけに寒い。
重い瞼を無理やり引き剥がすと、そこにはたまがいた。
「在太!」
涙で顔をぐちゃぐちゃにしてたまが腕に抱きついてくる。その顔があまりにも不細工なものだから、在太は少し笑った。
自分の体を見る。昨日広がった黒い痣は引いていて、髪も自分で雑に切った長さのままだった。身長だって縮んでいる。あれはなんだったのだろうか。
見回すと、灰色をした部屋はやけに狭かった。向かいには在太が寝ているのと同じ形の、二段になった寝台が見える。つるりとした丸い形の椅子に、薬袋が座っている。
「ここは……」
「船の中だ。イージス艦……って聞いたことないだろうな。そもそもこの戦争のない世界じゃ、軍艦自体が必要ないもんな。千年前の遺物だ。この日のために、釈天が使えるようにしてくれていた」
薬袋は薬湯を在太に差し出した。薬草の匂い。苦いが、冷えた体に染み渡る。
扉が開く。入ってきたのは昨日の侍だった。手に持った盆には、椀が乗っている。
「在太君、おはようございます。簡単だけど、お粥を作ったんで、どうぞ」
「ありがとうございます」
椀を受け取って、粥を口に運んだ。簡単な味付けだが、ちゃんと出汁が効いている。
「すみません、自己紹介をしていなかったね。僕、梵天衆の四方って言います。偶然薬袋先生に会って、ついてきてしまいました」
やはり覇気の感じられない男だった。在太が会った事のある侍は、皆やつれた賎民だったように感じるが。四方は向かいの寝台に腰を下ろしてニコニコしている。
「あの後、リンガが倒壊して、港は大混乱になった。領主も何者かに殺されていてな、サーグラタットは戦場と化している。お陰様で俺たちはうまく出航することができた。在太、お前さんはどこまで覚えている」
「あの脇差を握って、そこまでです」
黒い刀は、目の前の寝台に埋もれている。あれを四方から受け取った瞬間、自分が自分じゃなくなった、否、本当の自分になった気がした。今の在太が在太でないかというとそうではないのだが。
薬袋は、黒い脇差をちらりと見た。
「あの刀は、子猫丸。釈天と梵天衆が、何百年もかけて作り上げたお前さんのための刀だ。あの刀をお前さんが受け取った瞬間に、全国のリンガが一斉に倒れる。そう組まれたものだ。ひとえに、それは王を殺すために」
この前見た釈天との記憶でも、確かそんなことを言っていなかったか。あの時、釈天はリンガに呪いをかけていた。北端のリンガで始まった呪い。北端のリンガは、倒れて再起不能になっている。これは、昨日の災厄を引き起こすためにしていた下準備だったのか。
「争いのない、理想の世界。人間が死なない世界、悲しみのない世界。そういうものを、王は望んだ。しかし、それは望めど、実現してはいけないものだったんだ」
「なぜ……ですか」
「この世界は、もう千年以上、身分や出自で人生全てが決まる世界になっている。何かを変えようとしても無理だ、お前さんだって、賎民に生まれたことによって、幸せも普通の暮らしも、最初から諦めていたんじゃねえか。生と死は本来二つで一つのものだ。一つが助長されると、社会の動きが止まる。誰かが刻を動かさなくてはならない。来太……釈天はただその使命感で、王を殺すことを決意した。しかし、王は絶対で永遠だ。そこで、リンガに堆積する死体が溶けた油、ダキニ族の体毛、火車衆の灰。色々な気枯れを寄せ集めて、「王を殺すための人間」を形成した。それが在太だ。昨日の変身は、子猫丸を受け取ったことにより、蓄積した力が暴走した結果だ」
釈天は在太の前で、そんなそぶりを一度も見せなかった。しかし、薬袋が入っていることは正しい、在太は自身の直感でそれを悟った。リンガ倒壊の日も、たまとの出会いも、全部仕組まれていたものだと。殺すことを定められた体。
何より自身の体が、その使命を証明するように胎動している。この黒い気持ちは、確かに封じ込められていたものであり、耐え続けていたものだった。
憎い、賤民ではない人間が。
なぜ、俺たちはこんな目に遭わなければならない。
渦巻く感情が一気に押し寄せる。あきらめという言葉で封じ込めていた物語たちが。
「一つ、気になることがあります。釈天が俺を殺させるためだけに作ったなら、なぜ来迎屋を直接継がせなかったんでしょう」
釈天は、じっと在太を見つめた。膿んだあざと傷跡、その肌を。
「許せなかったんだろうな、他ならぬ自分が、在太の人生を支配することが」
そういうところが甘いんだよなあ、と薬袋は笑った。薬袋の釈天に対する態度は、生徒を見る先生のようでもあった。この男は自分の正体を明かそうとしないが、実はそういう関係だったのではないか。
「薬袋先生、あなたは」
薬袋は在太が聞こうとしたことを察したのか、皺を深めて微笑んだ。
「俺? 俺はただの主治医だよ」
甲板に出ると、粉雪がちらついていた。
進行方向に、赤い塔が霞んでいる。それは厚く天蓋を覆う雪雲を突き刺し、空の彼方まで伸びている。仮面をつけていないと、冬の寒さが直接肌を刺激する。
とたとた、と軽い足音がする。
「もう少しで、到着しますよ」
「ん」
たまは溌剌とした笑顔を崩さない。綿に包まれて丸くなった体は、寒気に触れて赤くなっている。
「思い出したんです」
「え?」
「……私は、夜叉の子供でした。大昔の話ですが、父が王の命で登城した時、ついて行ったことがあるんです。その時私は、王を直接この目で見ました」
小さく震える唇から、白い息が吐かれる。
「その奈落のようにうつろな瞳から、強い孤独を感じました。思ったんです。この人は助けを求めている、と。それからいろいろあって断頭衆を立ち上げ、王の支配の及ばない場所を作ろうとしました。しかし、王は何度でも私たちを追い回しました。もういっそ、王に直談判するしかない。その気持ちで荼鬼さんに頼んで、断頭衆を王城に連れて行ってもらいました」
雪花が風に舞う。たま虎耳はそれに当たると、身を縮こませるように震えた。
「再び謁見した王は、やはり悲しい瞳をしていて。急がなければ、と思いました。釈天が言っていた、嵐の王を連れてこなければ、私たちの境遇は何も変わらない。王も、安らぎを得ることはできない。しかし私はこの瞬間に死ぬ。火車に伝わる転生の法を使う時が来たと思いました。嵐の王の身許で、転生するように願をかけました」
少しうるんだ瞳で、破顔する。
「私は、在太に会うために、生まれてきたんです。だから、気枯れるのだって、へっちゃらです」
その猫のような瞳に、心臓をきつく締め付けられる。急に、いや、ずっとかもしれない。この娘が愛おしい。
あの覚醒によって、鈍かった在太の心の枷が外れたようだった。
「たま」
「なんですか?」
「生まれてきてくれて、ありがとう」
凍った指を、たまの頬に滑らせる。
「ちべたっ! 何するんですか!」
その小さな体を腕の中に収める。柔らかい。春の花のような、華やかな香りがした。たまは抵抗するように、声にならない声を上げる。
「〜〜〜ッ! 在太のくせに、在太のくせに〜〜〜!」
この温みだ。生きているものの温み。眠った、死んだ人間は決して持っていない体温を、今この時は感じていたいと在太は思った。
冷たい港に、ずらりと鉄の筒が整列している。
「なんですか、これ」
液晶に映し出されたそれを、たまは、不思議そうに見つめている。
「これはな、人間を殺すからくりだ」
「ころ……っ!?」
「この筒から、すごい勢いで弾が出てくるんだ。このイージスにも同じものがついているだろう」
いい終わるかどうかという時だった。どん、という音がして、船体がぐらりと揺れる。たまと在太は思わず転びそうになる。
「な、なんですか!?」
「早速礼砲をいただいたな」
どん、どんと一定間隔でそれは落ち、イージス艦の周囲に水柱を立てる。不思議なことに、この船に向かって撃たれているはずなのに、弾は絶対に当たらなかった。
「雷の呪術の応用だ。磁場を歪めて軌道を逸らしている」
薬袋は気にも留めず、操作盤を叩く。
「やられたらやり返すまでよ。くらえ、釈天の置き土産だ!」
どん、と先ほどよりも大きな音が鳴った。
途端、港から炎が上がる。炎は天に昇るように高く真っ直ぐ燃え上がる。
「おお〜、圧巻」
「釈天、こんなものを隠し持っていたんですか」
人を殺せる船、そんなものが存在していたとは驚きだった。
「在太、艦橋に出ろ、嵐の王が襲来したことを、知らしめてやれ」
外に出ると、粉雪は吹雪になっていた。人間の判別ができるほど、船は港に近づいていた。火の海となった港を、蟻のような小ささの人間たちは右に左に逃げ回っている。
在太は子猫丸を鞘から抜いた。その漆黒の刀を天高く掲げる。
「我は嵐の王、金枝の王を殺す者」
吹雪は在太に呼応するように、高い声で鳴いた。
傷ひとつない軍艦から降り、燃え上がる王都の地面に足をつける。驚いたことに、港にはたくさんの仮面の民がいた。誰も彼も、在太のことを羨望の眼差しで見ていた。王を讃える声で満ちている。ごくりと喉を鳴らす。
「在太!」
見知った顔が二つ、こちらに向かってくる。
「沙羅さん、荼鬼さん! なぜここに!」
「アガルタの人が王都に向かうっていうから、着いてきたんだ。そもそも、アガルタは四方と愛染様が作った軍隊なんだろう?」
遅れて降りてきた四方は、恥ずかしげに頭を掻いた。
「愛染さんと結託して、アガルタと称して賎民を集め、王都までの地下道を掘っていたんです。東横線と横浜市営地下鉄でしたっけ、サーグラタットには古代の遺物の地下道がありますし。途中で悪いことをする人がでたのは予想外でしたが……」
あの断頭衆を焼いた愛染が、不動の血を浴びていた愛染が、賎民を束ねていたのか。在太の中でどうも二つの像が結びつかなかった。
四方は背中から緋色の包みを降ろした。
「沙羅さん、ずっと渡せなくてすみませんでした」
沙羅が袋を開くと、年季の入った琵琶が顔を出した。ちゃんと手入れをされているようだ。
「これ……持っていてくれたのかい」
「大切なものでしょう」
沙羅は瞳を大きく見開いた。
「あんたねえ」
沙羅の頬が緩む。二人のやりとりを、腕を組みながら見ていた薬袋は、ボソリと呟く。
「ほう、じゃあ沙羅も即戦力になるな」
「これからどうしましょう、薬袋先生」
「そうだな、荼鬼はアガルタを指揮して市街を混乱させろ。俺は怪我人の介抱に徹する。四方と沙羅は在太とたまの護衛、補助をしながら、シバの塔へ向かえ」
薬袋はうんうん、と頷いた。
「さて、在太、ここからはお前さんが指揮をとれ」
薬袋の黒い瞳は、期待に満ちた目で、在太を見据える。在太はあたりを見回した。一人一人の賎民の顔を、双眸に焼き付ける。
「行きましょう、時代を変えるために」
遥か吹雪の奥に、静かに佇む赤い仏舎利を睨む。
灰色の街の中で、その塔だけが唯一の色彩だった。
王都の市街はすでに混乱極まっていた。そもそも、人死にに直結するような戦のない世界である。住民の方も、まさか永遠の都ラージャグリハが、賎民が巻き起こす戦火に見舞われるとは思っていなかったのだろう。荼鬼の指揮もあり、四人がシバの塔に着くのにそう時間は掛からなかった。指示を出す荼鬼の姿は今まで以上に毅然としていた。まるで激しく燃え盛る赤い炎から、静かに燃える青い炎に変わったようだった。
シバの塔の麓。
塔の入り口には、完全に武装した衛兵が並んでいる。一様に透明な盾を持ち、衣服は清浄を表す白い着物、白銀の鎧だった。装備は全てに丸に梅鉢の紋が入っている。衛兵は在太たちに気づくと、手持ちの筒を取り出した。あれは銃というもので、先ほどの砲台と同じ効果があるものだと薬袋に教えてもらった。
花火が弾けるような音を立てて、弾が放たれる。
四方は見えないような速さで三人の前に躍り出ると、その剣捌きで弾を全部叩き落とす。在太にはその剣筋が全く見えなかった。沙羅が琵琶の弦を弾く。雪の間に舞い上がるその音色は、睡眠を誘発する。一人、また一人と衛兵が倒れていく。
「今だよ!」
在太とたまは駆け出した。沙羅と四方が敵を引きつけている間に、違う入り口から侵入する算段だった。薬袋は千年前のシバの塔に来たことがあるという。その時の記憶を教えてもらったのだ。
建物の裏手に回り込む。草むらをかき分けると、金網のかかった下水道がある。ちょうど、体の小さい在太とたまなら入り込める大きさだった。
金網を外し、身を縮こませて中に入る。たまも後から続く。長らく整備していないのだろう。下水道の中はじめっとしていて、煤や埃で汚かった。しかし、賎民の在太にとっては、これくらいどうってことない。下水道は通気口とつながっているらしく、上へと続いている。音を立てないように細心の注意を払いながら、建物の中に侵入する。
暖房がよく効いているのか、時々ある窓から入ってくる空気は暖かい。窓からは塔の内部がよく見える。職員なのだろう、沢山の人々が忙しなく移動していた。
「あの偽物の王はどこに行った?」
「まさか、入り込んだのか?」
「入口の剣士は陽動だ! よく探せ!」
怒号が飛び交う中を、一言も交わさずに、二人は塔の上へ上へと登っていく。
どこまで登っただろうか。
ちょうど腹の下に窓が来ていた時だった。バン、という音を立てて、進行方向の通気口が崩れた。在太とたまは体を支えることができず、ボトリと床に落ちる。埃が舞い上がる。視界が明るくなる。
「っ……たた」
「王を殺す者。在太、と言いましたか」
目の前には、丸眼鏡をかけた男がいた。
「私は天部が一人、文殊。ここシバの塔で古典の研究とリンガの管理を任されております」
文殊と名乗った男は笑みを浮かべた。気持ちの悪い笑みだった。普段であればそばかすと強くかかった癖毛が柔和な雰囲気を与える男だが、獲物を前にした今ではそんなものはない。
「獣の分際で、王の理想を邪魔するな」
文殊はたまの襟首を掴んで上に持ち上げた。
「きゃあああ!」
「たま!」
在太は急いで起き上がり、子猫丸を抜いた。しかし、見えない壁に阻まれて、体がうしろに突き飛ばされる。今ので骨の一つは折れたのではないかという激痛が走る。
「在太君!」
四方と沙羅が駆け寄ってくる。沙羅は薬壺を取り出すと、在太の肌に乳白色の膏薬を滑らせる。
「いくら来たって無駄ですよ」
文殊はたまを空中に浮き上がらせた。たまは苦しそうに体をくねらせている。見えない結界が貼られているため、近づくことは不可能だった。
「簡単です。あなたがリンガにやったように、気を反転させればいい。幸姫の真価はここにあります。己の中に、もう一人の自分を飼っている。領主の姫の自分と、リンガの気枯れに染まった自分。王殺しに対抗する以上、こちらも古代の文献を研究済みですからね」
黒い雷が、文殊の手からたまに放たれる。
「あ、がああああああ!」
たまの体が波打つ。虎柄の髪が、毒に犯されたかのように黒く染まっていく。
「たま、お前……」
赤い目は爛々と輝き、爪は鋭く伸びる。犬歯が牙になり、肌は青黒く変化する。
「幸、の対極。狩姫です」
拘束が解かれたたまはふわりと地面に着地する。
「あ、はははははは!」
甲高い笑い声。この場にいる誰もが、たまから発せられたものだと信じられなかった。
「ああ、私、お腹空いてるの! あなた、食べてもいいんでしょう?」
黒い尻尾が揺れる。結界が解かれたのを確認した四方は、息をする間も無くブーツを地面に叩きつけた。
キン、と金属がぶつかる音が聞こえた。
「くっ……」
宙を舞ったのはたまではなく四方の方だった。なんとか転がって受け身を取るが、力の差は明確だった。黒猫になったたまには、傷ひとつついていない。
沙羅は琵琶を手にして、弦を弾き始める。心地の良い歌声が響き渡るが、先ほどとは打って変わって、何も起こらない。
「全然、効かない」
たまは何もない空間から鎌を取り出した。
「ああ、獲物が三人も! なんて美味しそう!」
赤い舌が鎌の刃を舐める。
在太は動くことができなかった。戦闘訓練をしてきたわけでもない在太は、下手に動くとたまを傷つける可能性があった。それだけは避けなければならない。今や狩人となったたまを、唇を噛み締めながら睨む。
「在太君!」
四方が叫んだその時だった。
在太の首に、鎌がかけられた。
***
たまが目を覚ますと、赤い海の中にいた。海はぬるりとした感触で、少しだけ温かかった。悪い予感に、心臓が縮こまる。
赤い海の中に、四つ、球が落ちていた。
「やだ、なんで」
それは胴体から切り離された首だった。巻き髪の男の首。金色の目の女の首。砂色の髪の男の首。
顔に痣のある、男の首。
「いやああああああ!」
尖塔の廊下に、つんざくような悲鳴が響いた。
***
中央官制室には、あまり人が残っていなかった。愛染の裏切りが発覚してから、本当に信頼できる者だけ残して立ち退かせたのだ。
王は隈の滲む顔で、中央モニターを眺めた。赤い印はいつまで経っても無くならず、世界維持に必要な気は減っていくばかりだった。
「大変そうだねえ」
すぐ背後で、低い男の声がした。
「な、んで」
千年前に排斥したはずの男がそこにいた。世界には王の望む姿ができる限り反映される。王は、心の底で、この医者を望んでいたらしい。
男は、皺の浮いた腕を組んだ。
「在太がシバの塔の結界にヒビを入れてくれたおかげで、やっとここに入ることができた。なあ、殿下。お前さんは何を考えているんだ? こんな世界を作って、来太が喜ぶと思うのかよ」
「違う! 僕はただ……誰も悲しまない世界を作りたくて……」
震える声を出す王に対し、男は豪快に笑った。
「何がおかしい!」
「それで自分が傷ついてたら、世話ぁねえよな」
王の息が、一瞬止まった。
男は余裕のある笑みを浮かべている。
「うるさい! 消えろ!」
王の手のひらから、白い光が放たれる。男はその光線に、じゅ、と肉の焼けるような音を立てて、跡形もなく消え去った。
「王、大丈夫ですか、王!」
天部が一人、壇上に上がってくる。王は片手で顔を覆って、歪んだ顔で指示を出す。
「維持リソースを全てこの塔に回せ。絶対に許すな」
王は液晶に背を向けると、緞帳を上げた。
「王、どちらに」
天部が聞くと、王は振り向いてそのうつろな瞳で天部を見た。
「謁見の間に行く。何人たりとも近づけるな」
王に表情はない。
その黒い瞳には、冷たい奈落が、闇のように広がっていた。
***
春の光だ。
ここは確か、昔釈天と来たことがある。北端のリンガだった。そのリンガは千年前の城を領主の館としてそのまま利用しており、館を囲うように枯れ木が並んでいたように記憶している。
しかし、目の前に広がるのは、枯れ木ではなかった。
薄紅色の花を咲かせた木が、列を成して生えている。抜けるような空に花びらが舞っていた。
棺桶を背負った白い髪の男が、在太の前に立っていた。
「釈天」
男の名を呼ぶと、男は鬼の面を外し、微笑んだ。
「何年経ってもチビだねえ、在太は」
いつの間にか、在太は涙を流していた。釈天はため息をつくと、不貞腐れながら言った。
「はあ、こんなところに来るもんじゃないよ。早く去りな」
「でも、だって」
在太は釈天に駆け寄ろうと、右足を出した。在太を呼び止めるように、遠く、鈴の音が聞こえた。
「ほら、お前を呼んでる。女の子は待たせると怖いぞ」
在太は悲しくなり、唇を噛んだ。
「大丈夫だ。いつでも俺は見守っている」
鈴の音は、段々大きくなっていく。釈天の姿が霞む。薄紅色の花が溶けていく。
「俺の友達をよろしくね、在太」
最後の声は、春風に混じって、よく聞こえなかった。
***
ぼんやりと瞼を上げると、横にたまが倒れていた。元の姿に戻っていたが、全身に痣が広がり、赤い血に埋もれるようにして眠っていた。呼吸はあるが、起きる様子はない。
最後の力を振り絞って、在太を蘇生したのだ。
在太は、腰に刺した短刀を、鞘から抜く。桑の葉の紋が入った、手に馴染む短刀だった。
一思いに、その薄い胸に突き刺す。
呼吸が止まったのを確認して、在太は細い首から鈴を外した。そしてそれを自分の首に結んだ。
もう引き留めるものはいない。在太はその足で、塔を駆け登った。
永遠にも似た階段を登り切る。シバの塔は円筒形をしていて、外側の回廊には全面ガラス窓になっている。しかし長い階段が途切れたその階は、彫刻を施された扉が、大理石の壁に嵌っていた。大きな扉を開ける。
大広間が広がっていた。乳白色の壁と柱、真っ直ぐに引かれた赤い絨毯の先には、豪奢な椅子があった。壁は全面壁画で埋まっている。王がこの世界を作った時の、創世神話の壁画だった。天窓から見える空を雪雲が覆っている。
美麗かつ、荘厳。
ここが、謁見の間。
「君が、在太か」
遠く、壇上の椅子に座った男から声が発せられる。
在太はその男に向かって、踏み締めるように歩みを進める。
この世界に、悲しみはない。
その代わりに、この男は世界全ての悲しみを背負っているようだった。奈落のような瞳は、滲むような憂いを帯びている。たまが言っていたのはこういうことだったのか。この男を見ているだけで、胸が張り裂けそうになる。
「お初にお目にかかります」
在太から発せられたのは、静かな声だった。自分でも驚いていた。王の御前だというのに、これ以上ないほど落ち着いていた。これから自分がするのは、今まで、ずっとやってきた生業だと、わかっていた。いつもと同じことをするだけなのだから、緊張するも何もない。
「失礼しますが、お命頂戴させていただきます」
在太は子猫丸に手をかけた。
「王権を獣に譲る気はない」
王は天高く右手を上げた。
在太の体には闇が、王の体には光が集い始める。在太の肌は黒くなり、額が割れ第三の目が顕現する。王の脇からもう一対の腕が生え、上げた右手にはまばゆく光を放つ円環が出現した。
ひとまわり身長が伸びた在太は子猫丸を構えた。刀の使い方など知らなかった。しかし、この刀を持った瞬間に、その全てを理解した。王に向かって、赤い絨毯を駆け出す。
「第一化身」
王は感情のない声で言った。
大理石の床に、じゅわりと水が染み出す。水を含んだ赤い絨毯は滑り、在太の足をもつれさせる。
間髪入れず、王は言う。
「第七化身」
空中に、何百もの巨大な白木の弓が現れる。王は立ち上がり手を真っ直ぐに下ろした。その幻の弓に、光が番えられる。
光の矢は、雨のように降り注ぐ。在太は転がりながら矢を避ける。
一本の矢を躱そうとした、その時だった。
水が満ちた床に、足がとられた。在太の体がぐらりと傾く。在太は向かってくる矢を間一髪で避けたが、羽織に、一本の矢が刺さった。そのまま床に縫い付けられる。
「第八化身、これで終わりだ」
眼前に現れたのは、炎でできた戦車だった。二頭の炎馬が、挑発するようにいなないた。戦車は在太をめがけて一直線に進んでくる。
炎馬の突進を刀で受ける。在太の顔に汗が滲む。
「くそ……!」
しかし、相手の方が何倍も格上だった。単純な力の差だ。相手はこの世界の全ての「気」を操る王である。造られた人間でしかない在太は、それには勝てなかった。
子猫丸は、真っ二つに折れた。
在太の変身が解ける。みるみるうちに背は縮み、元のみずぼらしい少年に戻った。炎の馬も、光の矢も、水も嘘のように光と消える。
「弱い、そんなものでは私を殺せない」
王は在太に近づくと、手に持った円環をひょいと投げた。円環は、在太の首を切らんと弧を描く。
動かない体。暗転していく視界。在太は、ここで潰えてしまうのかと思った。こんなに儚いものでいいのかと思った。釈天が、何百年とかけて用意してきたものを、自分は成し遂げられないで終わるのか。賎民たちが、焦がれたことを、何も引き継げないで終わるのか。
その時だった。首の鈴が小さく鳴った。
鈴の音は、聞こえるか聞こえないかという大きさだったが、在太にははっきりそれが聞こえた。
「何やってるんですか在太! しゃんとしなさい! 私の旦那様でしょう!」
今度は確かな声だった。在太の鈴から、虎猫が飛び出してきた。虎猫はにゃあ、と一言鳴くと、人間の声ではっきりと発音した。
「ふるべ!」
王の円環は止まり、揺れたかと思うと、地面に落ちた。
魂が揺らされた。在太の体に集うようだった。力が満ちてくる。
気がついたら、在太は大理石の床に、しっかりと二本足で立っていた。
猫はすでにどこかへいなくなっていた。在太は黒目をしっかりと見開くと、懐に隠し持っていた短剣を取り出す。
「お前……っ、その刀はまさか……」
刀を見た瞬間、王の顔が蒼白になった。多数の人間たちにとって、これはなんの変哲もない介錯刀だった。しかし、王は知っていた。その介錯刀は、他ならぬ唯一の友人の、懐刀だということを。在太には決して、戦闘能力があるわけではなかった。来迎屋の職務以上の呪術も使えない。しかし、その短刀を持った時に黒い瞳が薄く紫を帯びる。それだけで王は動くことができなかった。
「なぜだ、私は、誰も死なない世界を作りたかっただけなのに! 誰も、悲しまない世界を作りたかっただけなのに! 少ない気を循環させるシステムを組み上げて、誰よりも人のために頑張って、頑張って、でも人間が死なないと、気は循環しなくて、枯渇していって。なんで、正しいことを、願ったはずなのに」
「そうでしょう、でも」
在太は、短刀の鞘を払った。
「散ることによって花は一層美しく咲く。花の咲かない人生など、面白くないじゃないですか」
(さよならだけが人生ならば、こうやってまた春が来ることもない。春の尊さを知ることもない)
王の脳裏に、今際の際の、来太の笑顔が映る。
あの言葉は、桜を憐れんで言ったのではなかった。死の運命を受け入れたから発せられたのではなかった。
短い人生の中で、殿下と出会えて、よかったと、伝えたかったのではないか。
「来太」
王はその体を、まるで砂の城が崩れるみたいにして、大理石の上に崩した。
「ごめんなさい」
もう気力が残っていなかった。この世界の生命力は、王の気力で保っていた。しかし、もう、その「気」自体がなかった。
在太は、王の前に片膝をつくと、唇を震わせた。
「よく頑張りました」
その声は、少しだけ来太に似ていた。王は、安心したようにその重い瞼を閉じた。
「なむからたんの、とらやーやー」
赤い塔に、細い声の読経が響く。世界は静まり返っていた。生物は全て死に絶えていた。連なる死体の上に、ただ、白い雪が積もっていた。
王の心臓に、名もなき短刀を突き刺す。
「せめて、安らかな輪廻を」
灰色の中で、その赤色だけが、唯一の色だった。
渾々と流れる、生命の色だけが。
王都を囲む枯れ木が、一斉に、薄紅色の花を咲かせた。




