表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

ストックホルム症候群

作者: 朝霧
掲載日:2026/02/08

 話を整理するため、そして冷静になるためにここ一年のことをこのノートにまとめてみましょう。

 一年前、私はどこにでもいる普通の学生でした。

 血の繋がりがない歳が離れた兄と二人で暮らす、極々普通の。

 趣味はゲーム、運動は苦手、人と話すのも苦手、性格は悪い、人に愛されるような人間ではありません。

 けれども普通に、当たり前にように普通に幸せに生きていました。

 それがおかしくなったのは一年前、いえ、一年と二ヶ月前、だったのかもしれません。

 きっかけになる出来事が起こったのは一年と二ヶ月前、本格的におかしくなったのは一年前です。

 一年前、綺麗な三日月が浮かぶ静かな夜、私はコンビニから家に帰るため足早に歩いていました。

 普段だったらあんな遅い時間に出歩かないのですが、ゲーム用のプリペイドカードがどうしてもほしくて。

 家からコンビニまで徒歩で五分もかかりません、だから何も、何事も起こらないはずでした。

 けれど、起こってしまったのです、異常事態が。

 真後ろから声をかけられました、真後ろのすぐ近くから。

 振り返るとそこには見知った顔がありました。

 その時点で二ヶ月ほど前から私の兄に絡むようになった青年でした。

 その青年は美しい容姿に見合わないくらいの強者で、戦闘狂でした。

 だからよく、意外と喧嘩が強い兄に絡んできていたのです。

 兄と血の繋がりがない上に弱い私のことなんか、眼中になかったのでしょう。

 数度顔を合わせていましたが、彼がようやく私の顔を覚えたのは四回目の接触の時。

 私は一度で顔も名前も覚えましたけどね、あんなに綺麗で強い人、滅多にいないので。

 あちらが宝石だというのなら、こちらは道っぱたに落ちている小石、そのくらい住んでいる世界が違う人だったのです。

 その程度のなんとなく知っている程度の人でした。

 互いに関わる必要のない、関わっても仕方がない世界に住む人でした。

 だから、そんな人に急に話しかけられたので、私は驚きました。

 どうかしましたか、と聞いた覚えはあります。

 空に浮く三日月が綺麗でした。同じくらいその人も。

 きらきら、きらきら輝いて。

 けれどもそこから先、私に記憶はありません。

 私の問いかけにその人が何も答えず、にこりと笑っていた事だけは、覚えています。

 気がついたら、私は見知らぬ部屋に監禁されていました、首輪付きで。

 後から聞いた話、私はにこりと笑ったあの人に首を『トンッ』とされて気絶させられ、そして誘拐されたらしいのです。

 誘拐、拉致、人攫い。

 言葉は色々あれど、とにかくそういう類のもの。

 極々普通の人生では滅多に起こらない異常事態が発生してしまったのです。


 全くわけがわかりませんでした。

 攫われるような理由なんて一つもなかったはずでしたから。

 兄と二人の生活に余裕はありましたが、裕福というわけではありません。

 私達兄妹はお金持ちというわけではなかったのです、ありがたいことに貧乏人でもなかったのですが。

 だから、私を攫う利点なんてないはずなのです、そんなことしても無駄なのです。

 意味がわかりません、何故こんなことになったのかと当時の私は頭を抱えました。

 混乱する私にあの人はにこりと笑って、私を攫った理由を述べました。

 兄に対する人質だったそうです。

 のらりくらりと彼の挑戦をかわす兄を本気にするために、ただそれだけのために兄の身内である私を攫った、と。

 そんな馬鹿げた話ありますか、と当時の私は思いました、今もそう思っています。

 けれども、そんな馬鹿げた理由で彼は人間一人を攫って、首輪付きで監禁してしまったのです。

 趣味のためならなんでもする類の人だったのでしょう、全く、傍迷惑な話です。

 それでも意外と律儀、というか目覚めた時に一人きりだった場合、私がどうするか読めなかったからでしょうか。

 彼は私が目を覚ますまで、何故私を攫ったのかその理由を説明するためにそばで待っていたそうです。

 そして、説明を終えた後ニッコニコの笑顔で私の兄に電話をかけました。

 とても愉しげな顔で私を攫ったと話していました、証拠に何か喋ってくれと言われたので、混乱状態がとけていなかった私は間抜けな声をあげるしかできませんでした。

 電話口で兄はブチ切れていました、兄は滅多に怒ることがない穏やかな気質の、知的な男性だったのに。

 兄をブチ切れさせて、意気揚々と彼は部屋を出て行きました。

 私は普通に置いてきぼりでした、どうしたものかと途方に暮れました。

 途方に暮れながら攫われたのが昨日じゃなくてよかったなとぼんやりと思いました、実はこの日の前日、某ゲーム会社の配信があったので。

 しばらくして、血塗れの彼が部屋に戻ってきました。

 部屋にやってきたのは彼一人でした。

 死んでもおかしくなさそうなほど傷だらけだったのに、彼は妙に生き生きとした愉しそうな笑顔を浮かべていました。

 その血は果たして、彼のものだけなのでしょうか。

 兄のそれも含まれているのでは。

 そう思い至った直後、血の気が凍りました。

 彼に私は問いました、兄さんは、と。

 彼は笑顔で答えました、死んではいない、と。

 あのまま決着をつけてもよかったけど、次も、その次も同じくらい全力でやり合いたいから引き上げてきた、と。

 だから、お前は人質続行だよ、と笑顔で。


 そういうわけで理不尽に幕を開けてしまった人質生活。

 ふざけるなとは思いましたが、説得してどうにかなるような相手ではありません。

 逃亡を企ててはみましたが、重くて頑丈な金属の首輪とそれに繋がる太い鎖はどうにもなりませんでした。

 窓もはめ殺しで、窓の外には自分が生まれ育った平和な町には程遠い、物騒な風景が広がっていました。

 暗黒街。

 私が攫われた場所、そして彼が住んでいたのはそう呼ばれる場所でした。

 平たくいうとならず者や犯罪者が住む街です。

 仮に窓が開いたとして、そして外の人に助けを求められたとしても無駄なことは、一目外を見ただけでわかりました。

 というか無事あの部屋から逃げられたところで私一人では無事あの街から脱出することなど到底不可能でした、逃げている最中で物騒な街の住民に襲われてジ・エンドになるのが見えきっていました。

 二重の檻、彼は一切そうだとは思っていなかったのでしょうけど、私にとってあの場所は、あの部屋は、どう足掻いても逃げきれない、そういう場所でした。

 だから、逃亡の意思はあっさりと潰れました。

 仕方ないので、私は大人しく救援、もしくは彼が兄との戦いに飽きて私を解放するのを待つことにしました。

 重い鎖のせいで行動は制限されていましたがトイレなんかには普通に行けましたし、入浴も許可されていたので、そこまで精神的に追い詰められることもなかったのです。

 彼は私のことを単なる人質、兄と遊ぶために必要な道具として扱っていました。

 だから、最初の十数日くらいは、意外とそこまで扱いは悪くなかったのです。

 食事は三食、たまに気まぐれのようにおやつ付き。

 お風呂も入っていい、着替えも適当に用意されていました。

 快適とは言い難かったのですが、『人質』という扱いを受けている割に……というような具合。

 人質と誘拐犯、被害者と加害者、私達の関係はただそれだけです。はじめから終わりまでただそれだけでした。

 けれど、その頃は退屈だったので、今思うと呆れるくらい平和だったので、私は少しだけ彼とお話ししていました。

 取り止めもない、次の日になれば忘れてしまうような中身のない会話を。

 その時に少しだけ彼がどういう人だったのか、という話を聞きました。

 戦闘民族な家の出身なこと、今はよくない人と絡んで悪さをしているということ。

 その頃の彼にとって私は兄の戦闘意欲に火をつけるためのただの人質で、それ以上でもそれ以下でもありませんでした。

 なので意外と、異常なまでに普通に対話ができていました。

 けれど、そんな意外と平穏な日々は長く続きませんでした。

 ある日のこと。

 正確にいつだったのかはわかりません、けれども多分十数日くらい経ったころ。

 慣れてはいけない監禁生活に私が慣れかけていたそんな時。

 私は、彼に犯されました。


 その日は唐突に、本当に唐突に訪れました。

 兄との戦いを済ませてきたらしい彼が、部屋に戻ってきたその後。

 なんだかいつもと様子が違うな、と思った私を見下ろして、あの人は怪しげな笑顔を見せて。

 そのまま。

 陵辱、強姦、レイプ、あの時のあれを表現する言葉はいくらでもあるでしょう。

 とにかく、そういうことをされました。

 ぐちゃぐちゃに、ぐちゃぐちゃにされました。

 彼がそんな凶行に及んだ理由はただ一つ、兄と更に激しい戦いをするために。

 すでに強火状態の兄にガソリンを注ぐために、彼は私という人質を、兄の唯一の家族を穢すという方法をとったのです。

 ただ、それだけのために。

 全部が、身体中全部が、痛くて、どれだけ頼んでもやめてはもらえなくて。

 最後まで、本当に最後まで。

 わらって、いました。

 わらっていたのです、かれは。

 それがこわくて、こんなふうに簡単に人のことを痛めつけられるような人とそれまで普通に話せていた自分が、自分の愚かさが何よりも怖くて。

 この時のこと、実はあんまり覚えていません。

 ただ、どれだけ泣き喚いてもやめもらえなかったことと、あの笑顔と、最後までされた時の絶望だけは、覚えています。

 いつの間にか気を失っていて、気付いた時には次の日の昼で、彼はいなくなっていました。

 全身汚れていたから、穢されていたから、痛む身体を引きずって無理矢理汚れをシャワーで洗い流して。

 どれだけ擦っても青い色のあざは消えてくれなくて、ただ痛いだけで。

 半泣きになりながら、少しでもマシになるように。

 結局大して綺麗になんてなりませんでした。

 身体を拭いて、洗い替えの服に着替えて、何も考えられずにその辺に座り込んで、ただ呆然と。

 孕んだらどうしよう、と思いました。

 結局今になってもそんなことは起こらなかったのですが、当時は本当に怖かった。

 薬、飲まされてたので。

 デキたら困るからって、どうせ弱っちいお前は死ぬだろうからって。

 彼の母は彼を産んで死んでしまったそうです、だからそんなことを。

 それでもその時点ではただされただけだったので、どうしようどうしようと。

 どのくらいそうしていたのか、物音が聞こえてきました。

 自然と身体が震えていました、逃げられるのなら逃げたかったです。

 もしも、もしも彼の所業に、その言葉に激怒した兄が彼をどうにかして私を連れ戻しにきた、というのであればどれだけいいかと思いましたが、そんな都合のいいことは起こりません。

 血塗れで、濃い血の匂いを纏わせた彼が帰ってきました。

 その顔には凄絶な笑みが、一体どんな死闘が繰り広げられたのやら。

 怯える私に彼は笑いました、殺してないよ、って。

 お前の兄との戦いは愉しかったって、あと兄がブチ切れたって。

 何も答えられませんでした、前夜のアレが脳裏にベッタリと張り付いて、怖くて、怖くて。

 石のように固まっていた私を見て、あの人はもっと凄まじい笑みを浮かべて。

 それで、また。

 泣いてもどれだけ懇願してもやめてはもらえませんでした、痛いって、何度も痛いって言ったのに。

 その日も最後まで、それも三回も。

 痛くて、苦しくて、怖くて。

 それでも、誰も助けてくれませんでした。

 私はただ甚振られるだけで、逃げ出すことも、抵抗することもできなくて。

 こんなふうになるのなら、こんな苦しい思いをするくらいなら生まれたくなんてなかったと、そう思いました。


 毎日のように、狂ったようにあの人は私を抱きました。

 女なんてつまらない、必要ない、と思っていたそうです。

 あんなに綺麗な、飽きるほど女遊びをしていそうな顔のくせに、私がはじめてだったそうです。

 だからだったのでしょうか、彼は女の身体の快楽の虜になってしまったようでした。

 私なんかよりも遊びがいのある女の人なんて外にいくらでもいるのに、私以外の誰かにあの人が手を出すことはありませんでした。

 ただ、性欲を発散するためだけにあの人はあくる日もあくる日も。

 最初は、ただそれだけでした、それだけの方がきっとマシでした。

 だんだんと、ただ乱暴だった手つきが少しずつ優しくなっていきました。

 欲でただギラついていた目が、甘さを帯びるようになって。

 そういうことをしていない時でも離れようとしなかったり、何かよくわからない可愛らしいものをわざわざ用意してくるように。

 困惑しました、わけがわからなかったのです。

 全部終わった後に頭を撫でられたり、何やら優しげな声で話しかけてきたり。

 あの人は、顔がいいのです、ものすごく。

 こちらがやられているのは拉致監禁陵辱でしたが、とにかく顔がいいのです。

 そんな男が甘い声で私の名を呼ぶのです、時折壊れ物にでも触れるような手つきで触れてくるのです。

 あちらが醜男だったら、きっと私がこうはならなかったでしょう。

 果たしてどちらがマシだったのか。

 徐々に、私はあの人に好意のようなものを抱くようになりました。

 けれども、私の頭の中にあった一つの知識がそれは勘違いだと声を張り上げました。

 ストックホルム症候群。

 誘拐や監禁をされた被害者が、極限状態でそれをした犯人に好意的になるとかいう、例のアレです。

 つまり、あの頃の私は完全にそれでした。

 外界と隔絶され、あの人以外の誰かを目にすることも会話することもできず、あの人しかいない世界に閉じ込められていた、だから私はああなってしまったのでしょう。

 けれどもそれが、病気みたいなものだという知識があったので、どうにか理性を保てていました。

 何かをされて、心がこれは恋ではと言いかけるのを全て「これは病気」と否定することができました。

 私が自分の病気に気付いた数日後、散々私を抱き潰した彼が甘ったるい声で私にこう囁きました。

 愛してる、と。

 私はその言葉を聞いてすぐ、彼もまた自分と似たような病気になっていることに気付きました。

 被害者が加害者に好意的になる病気があるように、加害者が被害者に好意的になる病気もあるのです。

 リマ症候群というそれを彼に軽く説明して、あなたは病気ですとそう断言しました。

 普通の愛ではないと、ただの病気で、勘違いだと。

 真っ当な状態なら私なんかを好きになるわけがないと、そう説得しました。

 彼は、私の言葉を聞き入れませんでした。

 嘘じゃない、病気なんかじゃない、勘違いなんかじゃない、と。

 それでも私は彼のその感情を病気だと決めつけました、そういうことにしておかないと私の病気が、私のストックホルム症候群がより悪化すると、そう確信したので。

 だから、彼の言葉を否定したのはただの保身でした。

 けれど実際、あれは本当にただの病気だったのでしょう。

 だって、誰が私なんかを好きになるというのでしょうか、自分で言うのもなんですけど、私は性格が悪くて大して可愛げもない人間なので。

 だから、何を言われても聞き入れませんでした、私は彼が言う『愛』を否定し続けたのです。

 彼は機嫌を悪くしました、そうして乱暴に私を抱いて、犯しながら甘い声で愛してると囁いき続けました。

 地獄のようだと思いました。

 飽きることなく毎日のように身体を求められて、毎日のように愛を囁かれて。

 愛を囁くその人も、その人の声に絆されまいと必死に抗う私も両方とも病気で、そこに本当の、真っ当な愛なんてひとかけらも存在しないのです。

 それなのにあの人は私のことを愛していると、好きだと言い続けました。

 ことあるごとにお前は俺のものだとも言われました、いくら否定してもあの人は私の言葉なんて全然聞いてくれませんでした。

 あの人は私に『貢ぐ』ようになりました、そうやって自分の愛を肯定しようとしていたのでしょう。

 欲しいものはないか、やって欲しいことはないかと聞かれました。

 家に帰りたいと言いました、無視されました、それでもしつこく言い続けたら乱暴に口を塞がれました。

 ならば無理難題を、と思って適当に「でっかいパライバトルマリンが欲しいです」と昔テレビで見たお高い宝石を要求してみたら、その三日後くらいにとても気軽な手つきでポンと出してきました。

 ビビりました、ものすごく焦りました、ほとんど冗談だったのに。

 あの人、結構悪いことで大金を稼いでいるらしいのですよね、だから「ちょっと高い買い物だったけど、別に余裕」とかなんとか。

 金銭感覚がだいぶおかしい人だったみたいです、あの人。

 金持ちだからか金遣いがとてつもなく荒いのです。

 そんなふうに、デロデロに甘やかされて、甘えられて、犯されて穢されて、愛だ恋だというあの人の言葉を否定し続けて、一年ほどの年月が経っていたそうです。

 そして、今から十日前のこと。

 兄が私を助けにきました。

 人付き合いが苦手なくせにたくさんの味方を引き連れ、彼の住まいに殴り込みにきたのです。

 そして私は無事救出されました。

 その時私はボンヤリと、あの人以外の人間の顔を見たのはいつぶりだったでしょうかと思っていました。

 首輪の鎖を『ぶちぃ』と引きちぎった兄に抱えられ、私はあの部屋からの脱出に成功しました。

 後ろから怨念の塊みたいな絶叫が聞こえてきました、返せ、返せと。

 返せも何も、私はあの人のものでもなんでもなくて、そもそも誰のものでもないというのに。

 姿は見えませんでした、ただ私を返せという怒鳴り声だけが聞こえてきました。

 あの人はその時、死んでもおかしくないような重傷を負わされていたそうなので、その時は追われることもなく。

 あの人のこと、心配に思わなかったというと嘘になります。

 死んで欲しいとは思っていなかったのです。

 それが病気のせいなのかそうでないのか、あの人と自分しかいない閉じた世界から解放されて、正常に戻っていくであろう私が未来にどう思うかは未知数です。

 けれども少なくともその時は、そして今も私は彼の死を望んでなんかいないのです。

 いつか、死ねばいいのにと思うことになるかもしれません、この手で殺してやりたいとすら思うようになるのかもしれません。

 だって私は、あの人にとても酷いことをされたのですから。

 それでも今は、死んで欲しいとは思っていません。

 生きて欲しいと思っています、生きてその病気を早く治して欲しい、と。

 あんなもの、愛でも恋でもなんでもなくてただの病気だったと、彼が自覚してくれればいいと思いました。

 私がいなくなることで、彼の病気が治って彼が正常になればいい、こんな女のことなんて愛していなかったと自覚してくれればそれでいい。

 悲痛にすら聞こえる絶叫を聞きながら、私はそう思いました。 

 そして久々に家に、と思ったら知らない建物に連れて行かれました。

 兄の味方、協力者さん達の組織が使っている建物であるそうです。

 なんでもその組織の人達はあの人がつるんでいる悪い人達と敵対関係にあるらしく、だから彼らは兄に協力してくれたとのことでした。

 一年も助けられなくてすまなかった、と兄に謝られて、そこでようやく私はあの人に拉致されてから一年もの年月が流れていたことを知ったのです。

 その後、数日は平穏でした。

 何度も嬲られた身体をお医者様に見てもらって、ひとまず健康状態に問題がないことを確認して。

 精神的な病気、例のストックホルム症候群のことは自覚していたので、精神科医のお世話になった方がいいかもしれない、なんて話をしていた時。

 瀕死の重傷状態から復活したあの人が、私を取り返しにやってきました。

 これはまずいと思いました。

 連れ戻されるわけにはいきません、それでは私達の病気は一生治らない。

 だから、彼をどうにかする必要がありました。

 けれどもたとえ今回彼をどうにかできたところで、彼は諦めないでしょう。

 少なくとも彼がその愛を病気だと認めるまでは、そしてそれがいつになるのかはわかりません。

 兄と兄の協力者さん達は私を彼から守ってくれようとしてくれていますが、いつまでもそれに付き合わさせるわけにはいきません。

 だから、皆さんに協力してもらって、ちょっとした偽装工作を行いました。

 協力者さんの建物のお部屋を一室お借りして、そこで私が首吊り死体のふりをしたのです。

 私が生きている限り、病人である彼はその病気が治るまで私を取り戻そうとその力を振るうでしょう。

 けれど、私が死ねば彼がそんなことをする理由は無くなります、死者を取り戻すことなんてできっこないのですから。

 私が死ぬ理由はいくらでもあったので、説得力はそこそこあったでしょう。

 顔が見えたらバレそうなので髪で顔を覆い隠して、いい感じにプラーンと。

 見ていないのでわかりませんが、私の首吊り死体 (偽装)を目にした彼は酷く取り乱して、痛々しい絶叫をあげていました。

 作戦は成功しました、私の死が偽りであると気付けなかった彼は狼狽え、取り乱し、兄や兄の協力者さんに念入りに袋叩きにされたのち、つるんでいるという仲間の人に押し付けられたそうです。

 その後、彼がどうなったのかはわかりません。

 私の『死』に目を覚まして、あんな愛は病気だったと、ただの勘違いだったと気付いてくれればいいのですが。

 今はただ、それだけを願っています。

 私の病気もまだ治っていません、きっと治るまで時間がかかるでしょう。

 苦しいのです、心が。

 あの人の悲痛な声が耳から離れないのです、あんなふうに苦しめてしまった罪悪感で頭がどうにかなりそうなのです。

 誰か、助けてください。

 こんなふうに苦しむ必要はないのだと言ってください、今の私がとても異常で、頭がおかしいのだと強い言葉でそう言ってください。

 私は、私は彼にとても酷いことをされました。

 だから、あの人の苦痛を思って泣きそうになる私が間違っているって、これは病気だって、誰か。

 病気なんです、これは病気、病気以外の何ものでもないはずなのです。

 あの人のこと、私が好きになんてなるわけ

 私は病気 病気なんです本当なんです誰か 誰か私のこれを病気だって言って 私を心の底からそうだと納得させてください

 これは病気愛なんかじゃない好きじゃないあんな人きらいきらいだいきらい

 病気なんです病気なんですあなたも私も病気なんですだから

 大嫌いってお前を愛していたなんて嘘だってそう言ってくださいよ

 全部全部病気だって言って私のことなんてどうでもいいって笑って

 それでやっと私の病気は良くなる気がするのです

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ