第1話 夢に潜る者
──終電は、とっくに過ぎていた。
深夜のオフィスに、無機質な蛍光灯の光が降り注いでいる。壁際の時計は午前二時を指していたが、針の進みはやけに鈍く見えた。パソコンのモニターから放たれる青白い光が、虚ろな目をした自分の顔を照らす。
「……まだ、終わらないのか」
エナジードリンクの空き缶が机の上にいくつも転がっている。背中は痛み、視界は霞み、指先は麻痺したように冷たかった。それでも、止めることは許されない。
同僚はすでに全員帰った。ここに残っているのは俺だけだ。
頭の奥で、誰かの声が響く。
──まだやれるだろう、もっとやれ。
上司の叱責か、心に巣食った幻聴か、それさえ分からなくなっていた。
キーボードを叩く手が重くなる。文字列が崩れ、カーソルが画面の隅で点滅する。
「……もう、いいだろ……」
その一言を最後に、俺の意識はぷつりと切れた。
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目を覚ましたとき、そこは蛍光灯の下でも、硬い椅子の上でもなかった。
頬を撫でたのは、冷たい夜風。鼻腔をくすぐったのは、土と草の匂い。
視界に広がるのは、どこまでも続く草原だった。空は深い群青に染まり、満天の星々が瞬いている。
「……は?」
声が漏れた。あまりにも現実離れした光景に、頭が追いつかない。
立ち上がると、遠くに小さな村の灯りが見えた。茅葺き屋根の家々が寄り集まり、煙突からは細い煙が昇っている。
足は勝手にそこへ向かっていた。
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村の入口に立つと、農具を持った中年の男がこちらに気づいた。月明かりに照らされたその顔は、警戒心に満ちている。
「……誰だ、お前は?」
男は粗末な松明を掲げ、目を細めた。
「旅の者か?」と問いかけられ、返す言葉を探したが、適切な説明などできるはずもない。黙り込む俺を、男はしばし値踏みするように見つめ、やがて鼻を鳴らした。
「まあいい。今夜は泊まるところもなかろう」
そう言って、俺は村に招き入れられた。
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焚き火の周りには数人の村人が集まり、俺を好奇の目で見ていた。
差し出された木の椀には温かいスープが注がれている。口にすると、野菜と穀物の素朴な味が広がり、胃の奥にじんわりと沁みた。
「……ありがとう」
礼を言うと、村人たちは互いに視線を交わし、すぐに視線を逸らした。
焚き火の炎に照らされた彼らの目には、疑念と警戒が宿っていた。
──よそ者には気をつけろ。
言葉にされずとも、彼らの視線が雄弁に語っていた。
その中で、ただ一人、俺に微笑みかけてくれた少女がいた。
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栗色の髪を後ろで束ね、素朴な服を纏った小柄な少女。
彼女は湯気の立つパンを差し出し、柔らかな声で言った。
「お腹、空いてるでしょう? 少し固いけど……よければ」
受け取ると、彼女は小さく笑った。その笑顔には、他の村人のような警戒心がなかった。
あとで聞いた話では、彼女は元奴隷で、数年前に解放され、この村で暮らしているらしい。
生まれも育ちも村の人間ではないからこそ、俺の境遇に少し重ねたのかもしれない。
「困ったことがあったら、言ってね」
その一言は、見知らぬ世界で出会った最初の優しさだった。
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その夜、藁を敷き詰めた小屋の隅で横になった。
慣れない匂いに鼻がむず痒くなり、体は疲れているのに、心は落ち着かない。
──ここはどこだ。なぜ俺はここにいる。
答えのない問いが頭の中をぐるぐると回り、やがて意識は眠りに沈んでいった。
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暗闇の中で、奇妙な光景が広がっていた。
黒く濁った水面に、小さな人形が浮かんでいる。
その人形は片目が取れ、胸から赤黒い染みが広がっていた。
遠くから、子供の泣き声が微かに聞こえる。声は助けを求めるようで、けれど届かない。
鎖が軋む音が響き、どこかで扉が叩かれている。
「誰か、そこにいるのか?」
問いかけても返事はない。ただ、闇が重くのしかかるだけだ。
心臓が早鐘を打ち、呼吸が苦しくなる。
「……これは、夢……?」
自分に言い聞かせた途端、視界が大きく揺らぎ、すべてが音を立てて崩れた。
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目を覚ますと、額には冷たい汗が滲んでいた。
荒い息を吐き、胸を押さえる。
夢にしては、あまりにも生々しかった。
あの人形、泣き声、鎖の音。何かを示しているように思えてならない。
嫌な予感を振り払うように身を起こしたとき──外から悲鳴が響いた。
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朝の広場には人々が集まり、ざわめきと混乱が渦巻いていた。
「まただ……! また子供がいなくなった!」
女の声が泣き叫ぶ。人々の顔には恐怖と絶望が刻まれていた。
胸が冷たく凍る。
昨夜の夢と、今起きている現実が重なる。
──これは、偶然じゃない。
俺の中で、何かが囁いていた。
あの夢はただの幻ではない。
もっと恐ろしいものの始まりだ、と。




