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ep.8 Black Coffee Genius

 夢を見た。

 前職の夢だ。過去にも何度か見たことのある夢。


 夢の中で、レックスは走っていた。背嚢を肩にくいこませ、レーザー小銃をかかえてひたすら走る。何かを追いかけるように。誰かから逃げるように。


 走りながら、レックスは空を見上げた。暗い空に月はない。星もない。いや、真っ黒に塗りつぶされた空の彼方にたったひとつ、緑の光がまたたいた。航空機のナビゲーションライトかと思ったそれは、みるみるうちに輝きを増し、空を緑のヴェールで覆ってゆく──


 ふっと、意識が浮上した。


 かすかな旋律が耳をなでる。どこかから漂ってきたコーヒーの香りが鼻をくすぐる。薄目を開けると、暗い視界に車の天井が飛びこんできた。


 そうか、とレックスはゆっくり身を起こす。そういえば今夜は車中泊だった。イカれ学者と交代という約束で、先に窮屈な後部座席に身を横たえたのだ。ダッシュボードの電光時計が示す時刻は午前二時。交代の時間だ。


 強張った首や肩を回しながら、細く開けた窓の外に目をやる。車から少し離れたところで、小さな炎が揺れているのが見えた。その側にうずくまる小柄な人影も。


 車のドアを開けて外に出ると、ひやりとした空気が全身を包んだ。見上げた空は満天の星。夜気を震わせるのはかすかな歌声。落ち着いた抑揚の、男にしてはほんの少し高めのキー。


「おはよう」

 

 歌が途切れた。焚火の番をしていた金髪の青年が、レックスを見て微笑んだ。


「……はよ」


 おはようという時刻でもなかったが、ほかに適当な挨拶も思いつかず、レックスは短く応じた。


 焚火の横には、平たいケトルが置かれていた。細い口から白い湯気がたなびき、芳しいコーヒーの香りをあたりにふりまいている。


「……なんか、歌ってた?」

 

 煙草をくわえながら尋ねると、エルは「ああ」とうなずいた。


「コーヒーの歌だよ」

「コーヒーの歌?」


 おうむ返しにつぶやくと、緑の瞳がやわらかく笑んだ。


「大昔の歌だね。カフェイン中毒の作曲家がつくった歌だ。コーヒーへの愛がこれでもかというほど込められている。これを聴かせると、コーヒーが美味しくなるんだよ」

「なんだそれ」


 レックスは思わず失笑した。科学の道を歩む男には、ずいぶんそぐわない台詞だ。


「きみの言いたいことはわかる。でもね、本当なんだよ。沸かしたお湯にコーヒーを入れて、沸騰させずにゆっくり火を通したら……」


 エルはケトルをとりあげてブリキのカップに中身を注いだ。


「火から降ろして、しばらく待つ。その間にこの歌を聴かせてやると、ぐっと美味しくなるんだ。子どもの頃に教えてもらった」

「誰に」

「コーヒーをいれる天才にだよ。彼によると美味しいコーヒーをいれるコツはたった二つ。一つは誰かにいれてもらうこと。もう一つはコーヒーに歌を聴かせること」

「本当かよ」


 本日二度目の失笑をレックスはもらす。


「一個目は同意だけどな。誰かがやってくれんならそっちの方がいい」

「だから今きみのために作ってるんじゃないか。二つ目だって本当だよ。論より証拠だ」


 お試しあれ、と差し出されたカップに口をつけたレックスは、へえと目を見ひらいた。たしかにその液体は、濃厚な味わいがクセになりそうな、つまりひどく美味いコーヒーだった。


「なんてね」


 悪戯を成功させた子どものように、エルは小さく舌を出した。


「種明かしをするとね、歌に意味はない。ただ、煮だしたコーヒーを寝かせて粉を底に落とすのに、この一曲の時間がちょうどいいというわけさ」

「なるほどな」


 レックスはもうひと口コーヒーを飲んで、煙草を吸った。起き抜けのコーヒーと煙草。胃には悪そうだが、この組み合わせはやめられない。


「ま、でも意味はあんだろ。タイマーより気がきいてる」

「あるいは砂時計より」


 かすかに笑ってエルはケトルを揺らした。


「……でも、やっぱり美味しくなるような気がするんだよ。タイマーで測るより」

「砂時計より?」

「そうだね。じつに非科学的だけど」


 それからしばらく、二人は黙って星を眺めた。コーヒーをすすりながら。焚火のはぜる音を聞きながら。


 レックスとエルが廃鉱山で襲撃をうけてから一週間が過ぎていた。その一週間で、二人は三千キロほどの道のりを走破していた。西の採掘地、N‐Ⅲエリアへ向かって。


 道中、幸いにしてと言うべきか、さらなる襲撃はなかった。途中でタイヤがパンクしたり、休憩地点としてあてにしていた街がゴーストタウンと化していたり、運転の練習と称したエルが進路から外れた鉱山へ向かおうとしたりと、大小さまざまなトラブルはありつつも、二人はなんとか無事に旅をつづけ、N‐Ⅲまであと一息といったところまでたどりついた。


「あんたもそろそろ寝な。いくら昼間寝られるからって、ちっとは横になっとかねえと後できついぞ」

「ありがとう。でも僕は平気だよ。徹夜なら慣れている」

「慣れんな、んなもん」


 早く行け、とレックスは車に向かってあごをしゃくる。砂埃で白くなったダークグレーの車体を見やって、エルは笑った。


「あの車とも今日でお別れか。なんだか寂しいね」


 N‐Ⅲエリアへは陸路だけではたどり着けない。途中で広大な人工海水域を越えなければならないのだ。その海の手前に、採掘会社が合同で建設した小規模な飛行基地がある。そこで航空機を調達し、N‐Ⅲへ向かうのが一般的な方法なのだが、


「はたして無事にお別れできるかねえ」


 煙草の灰を落としながら、レックスはぼやいた。


「基地の手前で回れ右、てことになるんじゃねえの。それか、着いたとたんにホールドアップか」


 なにしろこちらはお尋ね者──まではいかなくとも、限りなくそれに近い危険分子だ。


 星ひとつ吹き飛ばす可能性を秘めた鉱石を無許可で持ち出した研究者と、こちらも無許可で立ち入り制限中の採掘現場に向かおうとしているマクニール社の社員。おまけに二人まとめて正体不明の輩に命を狙われ、きわめつけは二人とも未知の病に侵されているときた。


 この状況で基地のゲートをすんなり通過し、あまつさえ飛行申請をして通ると思うやつがいるなら、そいつは頭の中に麻薬の花畑が広がっているに違いない。


「まあ、とにかく行ってみようよ」


 悲観的あるいは常識的なレックスをよそに、エルはあっけらかんと言い放った。


「飛行機がなければ始まらないんだから。大丈夫だよ。いざとなったら実力行使に出ればいい」

「具体的には?」

「そこはほら、もとエコーのきみの手腕に期待するところだね」


 つまり、あらゆる障害を排除して飛行機をぶんどってこいということか。危険なミッションは前職でそれなりに経験したレックスだが、ここまで無茶な命令は聞いたことがない。


「あんた、俺をスーパーヒーローか何かと勘違いしてないか?」

「勘違いなんかしてないさ。きみは僕とマックスのヒーローだ」


 無邪気に笑うエルの首元にタイはない。諸悪の根源である例の鉱石は、キャンプ道具の中で一番頑丈そうなチタン製の水筒にしまわせた。毒物をさらしているなんて正気じゃないと、レックスがこれだけはと厳命したのだ。


「いざとなったら、あんたを差し出して俺は逃げるからな。悪いのは全部自分ですって、ちゃんと証言しろよ」

「もちろん、ちゃんと証言するさ。僕がここまで来ることができたのは、忠実で協力的なマクニール社の警備部主任のおかげですってね」


 おどけたように首をすくめ、エルは「おやすみ」と手をふって車へ向かった。


 それから数時間後、夜明けとともに二人は最後のドライブに出発した。変わりばえのない褐色の荒野をひた走り、そろそろ日も暮れようかという頃合いに、ようやく「それ」は姿を現した。


 荒野にぽつんと置き去りにされたような、鉛色の鉄の街。錆びたフェンスに囲まれた基地のゲートが見えたところで、エルは「ああ」と声をあげた。空をあおぎ、何かを諦めたように。


「どうしたよ」

「さらば自由の日々、てところかな」


 芝居がかった仕草でエルは両手を広げ、ゲートを見やる。その視線の先を追ったレックスの視界に、一人の男の姿が映った。ゲートにもたれていた長身の男は、レックスたちの車に向けて片手をあげた。


「知り合いか?」

 

 まあね、とエルはうなずき、ゲート手前でエンジンを停めた車から降りた。


「エル」


 耳触りのいい声が届く。低く落ち着いた、ほがらかで知的な声。そのひと声で、たいていの人間はこの人物に好感を抱くだろう。そう思わせる響きだった。


「ケヴィン」


 同じように片手をあげ、エルは男に呼びかけた。


「きみにしては遅かったね」


 からかうようなエルの声に、その男は黒い瞳をやわらかく細めた。



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