空と海の間で
1
「死ぬ気はなかった」と佐倉雄一は後になって何度も言うことになる。
その日、雄一は東京から片道4時間かけて、故郷の海辺の町に戻ってきていた。実家の古い家は既に売却され、彼が泊まったのは海岸線沿いの安っぽいビジネスホテルだった。窓からは灰色の太平洋が見え、冬の曇り空の下では、海と空の境界線が曖昧になっていた。
彼は朝早く起き、ホテルの朝食も取らずに海岸へと向かった。誰もいない浜辺で、彼は靴を脱ぎ、冷たい砂の上を歩いた。波の音だけが聞こえる世界。雄一は海を見つめ、どこまでも続く水平線に目を凝らした。
昨日、彼は母の遺品を整理していた。十年ぶりの帰郷だった。母が亡くなったという知らせを受けたのは東京でのことで、そのときはただ電話の向こうの声に「はい」と答えただけだった。感情が湧いてこなかった。十年もの間、彼は母と連絡を絶っていたのだから。
だが今、彼は母の形見分けをしなければならなかった。アパートの一室に残された箱に詰められた母の人生。
「何も持って帰らなくていいんですよ」と市役所の人は言った。「全部処分することもできます」
雄一はただうなずいて、箱を開けた。そこには彼の知らなかった母の姿があった。彼が家を出てからの十年間、母は何を考え、どう生きていたのか。日記やメモ、写真。そして意外なことに、絵画。母が描いたとは思えないような、繊細な風景画がいくつも見つかった。
画材もあった。キャンバスや絵筆、絵の具。母は一人になってから、絵を習い始めたのだろうか。雄一には思い当たることがなかった。
その中の一枚の絵に、彼は息を飲んだ。それは彼が子供の頃によく遊んだ海岸を描いたものだった。波打ち際に小さな人影があり、それは紛れもなく幼い日の雄一だった。日付を見ると、彼が家を出た年の冬に描かれたものだった。
2
雄一が家を出たのは高校卒業と同時だった。「東京に行く」と言って荷物をまとめた彼に、母は何も言わなかった。ただ黙って見送っただけだった。
父は雄一が中学生の時に亡くなった。漁に出た父は嵐に巻き込まれ、帰らぬ人となった。その日から、母は変わった。笑わなくなった。話さなくなった。そして雄一を見る目にも何か違うものが宿るようになった。あの目は何だったのか。非難? 恐れ? それとも...
東京では、雄一は必死に故郷を忘れようとした。大学に入り、就職し、同僚たちと飲み歩き、彼女ができれば別れ、また新しい恋をした。しかし夜、一人になると、あの海の音が聞こえてくるような気がした。
そして今、彼は再び海に立っていた。十年ぶりに故郷の海を見ていた。
波が彼の足元を洗った。冷たかった。彼はさらに海へと足を踏み入れた。膝まで、腰まで。冬の海は容赦なく彼の体温を奪っていった。
「死ぬ気はなかった」と彼は後に言うだろう。ただ、感じたかったのだ。何かを。
波に体を任せ、雄一は浮かんだ。空を見上げると、雲の切れ間から青空が少しだけ覗いていた。父はこの空を見て、海に出ていったのだろうか。
突然、彼は叫び声を聞いた。
「おい!何してるんだ!」
雄一は我に返り、岸を見た。そこには老人が立っていた。黄色いカッパを着て、手には釣り竿を持っていた。
「危ないぞ!早く上がってこい!」
雄一は老人の声に従って、岸へ向かって泳ぎ始めた。しかし、彼は気付いていなかった。潮の流れが変わり、彼を沖へと引きずり始めていることに。
3
田村光男は80歳になっても、毎朝浜辺に釣りに来ていた。妻に先立たれ、子供たちは都会に出ていった今、釣りだけが彼の楽しみだった。
その日も、彼はいつもの場所で竿を出していたが、魚の当たりはなかった。「今日はだめか」と思った矢先、沖に人影を見つけた。冬の海に入る者などいないはずだ。
彼が声をかけたとき、若い男は不思議な顔をしていた。まるで夢から覚めたような。そして、その若者が岸に向かって泳ぎ始めたとき、光男は危険を察知した。潮の流れが変わっていた。
「あぶない!流されるぞ!」
光男は竿を放り投げ、カッパを脱ぎ捨てた。若者は既に息が上がり、必死に腕を動かしていたが、少しずつ沖へと流されていくのが見えた。
「待ってろ!」
光男は海に飛び込んだ。若い頃は海の男だった彼だが、今はもう老体。それでも、彼は力の限り泳いだ。若者のところまで行くには全力を尽くさねばならなかった。
「つかまれ!」光男が若者に近づいたとき、そう叫んだ。
雄一は老人の手を掴み、二人は力を合わせて岸を目指した。しかし、潮の流れは強く、二人とも疲労していた。
「もう...だめかも...」雄一が呟いた。
「ふざけるな」光男は息を切らしながらも、厳しく言った。「お前にはまだやることがあるだろう」
その時だった。彼らは別の声を聞いた。
「こっちです!こっちに来てください!」
岸から小型のボートが出てきていた。地元の漁師だった。光男の姿が見えなくなったことを不審に思った別の釣り人が助けを呼んだのだ。
二人は無事にボートに引き上げられ、岸に戻された。雄一は震えが止まらなかった。寒さからか、恐怖からか、それとも別の何かからか。
4
「バカな真似をしたな」
地元の診療所で、光男は隣のベッドにいる雄一に言った。二人とも毛布に包まれ、点滴を受けていた。
「死ぬ気はなかったんです」雄一は正直に答えた。
「そうか」光男はしばらく黙った後、「お前、佐倉のせがれか?」と尋ねた。
雄一は驚いた。「どうして分かったんですか?」
「目だ。お前の目は父親に似ている」
光男は雄一の父と同じ漁師仲間だった。彼は続けた。「あの日、俺も海に出るはずだった。だが、孫の誕生日で休んだ。それで...生き残った」
雄一は黙って聞いていた。
「お前の母さんは、あの日から変わった。俺たちにも会わなくなった。ただ一人で生きていた」
雄一は窓の外を見た。雪が降り始めていた。
「母は...絵を描いていたんですね」
「ああ、あの人は絵が上手かった。町の展覧会で賞を取ったこともある」
「知りませんでした」
「知らないことがたくさんあるさ」光男は優しく微笑んだ。「お前が東京に行ってからも、母さんはお前のことをよく話していた。自慢していたよ」
雄一は喉の奥に熱いものが込み上げるのを感じた。
5
三日後、雄一は再び母のアパートに立っていた。今度は一人で形見分けをするつもりだった。
箱の中から、彼は一冊のスケッチブックを見つけた。開くと、そこには東京での雄一の姿があった。大学の卒業式、会社の前に立つ姿、彼の知らない間に母は東京に来て、彼を遠くから見ていたのだ。そして、そのスケッチには必ず日付と短いメモが添えられていた。
「雄一、今日も元気そうで良かった」
「新しいスーツが似合っていた」
「少し疲れているように見えた。無理しないで」
雄一は膝から崩れ落ちた。知らなかった。全く知らなかった。母は彼を見守っていたのだ。ずっと。
スケッチブックの最後のページには、母の字で書かれた手紙があった。
「雄一へ
この手紙をあなたが読むとき、私はもういないでしょう。
あの日、あなたが家を出た日、言えなかったことがあります。
あなたのお父さんが亡くなった日、私はお父さんと喧嘩をしていました。
くだらないことで。そして、私が『もう帰ってこなくていい』と言ったその日に、お父さんは帰らぬ人になりました。
それからずっと、私は自分を責めてきました。そして、あなたの目に映る私の姿も、恐ろしかった。
あなたが家を出ると言ったとき、またあの日のように『帰ってこなくていい』と言ってしまうのではないかと怖くなりました。だから黙っていました。
でも本当は、『行ってらっしゃい。元気でね』と言いたかった。
そして『いつでも帰っておいで』と。
あなたの母より」
雄一は号泣した。大きな声を出して、子供のように泣いた。
6
一週間後、雄一は光男を訪ねた。光男は小さな漁師町の古い家に一人で住んでいた。
「何か手伝えることはありませんか」雄一は尋ねた。
光男は意外そうな顔をした。「お前、東京に帰らないのか?」
「もう少しここにいようと思って」雄一は答えた。「母のこと、もっと知りたいんです」
光男は黙ってうなずき、「じゃあ、明日の朝、俺と漁に出るか」と言った。
翌朝、雄一は光男の小さな漁船に乗った。朝日が海面を赤く染める中、二人は沖に向かった。
「お前の母さんは、毎年、お前の父さんの命日に海に出ていたんだ」光男は言った。「花を手向けに」
雄一は黙ってうなずいた。
「人間はな、言葉にできないことがたくさんある。だから、絵を描いたり、海に出たりする」光男は静かに言った。「お前の母さんも、言葉にできないものを抱えていた」
雄一は海を見た。もう怖くはなかった。
「お前はこれからどうするんだ?」
「わかりません」雄一は正直に答えた。「でも、もう逃げません」
光男はニヤリと笑った。「それでいい」
7
春が来た。雄一は東京の会社を辞め、故郷に移り住んだ。母のアパートを引き払い、彼は海の見える小さな家を借りた。窓からは、毎朝日の出が見えた。
彼は地元の観光協会で働き始めた。都会で培ったスキルを活かして、この小さな町をPRする仕事だった。そして夜は、母の残した画材で絵を描く練習を始めた。
最初は何も描けなかった。手が動かなかった。でも、少しずつ、海や空、町の風景を描けるようになった。下手だったが、描くことで何かが解放されていくように感じた。
光男とは週に一度、漁に出るようになった。最初は役に立たなかったが、光男は忍耐強く彼に漁の技を教えてくれた。
「お前の父さんもこうやって教わったんだぞ」と光男は言った。
ある日、雄一は母の描いた絵を地元の喫茶店に展示させてもらった。「佐倉雪 追悼展」と題して。見に来る人は少なかったが、母を知る人々は足を止め、懐かしそうに絵を眺めた。
「雪さんは、いつも海を見ていたね」
「静かな人だったけど、絵を描くときは生き生きしていた」
母の知らなかった一面を知るたびに、雄一は胸が締め付けられる思いだった。
8
一年後、雄一は自分の絵の展示会を開いた。テーマは「空と海の間で」。
母の絵とは違う、稚拙で力強い絵だった。でも、訪れた人々は彼の絵の前で足を止めた。
「不思議な力がある」
「見ていると、何か語りかけてくるようだ」
展示会の最終日、雄一は一枚の絵を完成させた。それは父と母と幼い彼自身が浜辺に立っている絵だった。実際にはそんな記憶はなかった。でも、そうあってほしかった風景だった。
展示会が終わった後、雄一はその絵を持って海に向かった。夕暮れ時の海は穏やかで、金色に輝いていた。
彼は波打ち際に立ち、絵を広げた。そして静かに語りかけた。
「お父さん、お母さん、僕はここにいます」
風が吹き、波の音が彼の言葉を包み込んだ。
雄一は深呼吸をした。胸に満ちる感情は、もう重くはなかった。
「死ぬ気はなかった」と彼はもう一度思った。「ただ、生きる理由が欲しかっただけだ」
彼は絵を胸に抱き、家路についた。明日も、彼は海に出る。空と海の間で、彼は自分の居場所を見つけたのだから。
(終)
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