第13話 【スイリア視点】危機の刻——アカブトマガスとの死闘——
朝日が昇り、新しい一日が始まった。
私と芦名殿は宿を後にし、天狗の冷泉へと向かうことになった。
昨晩の会話が頭から離れない。彼に自分の秘密を打ち明けたこと、そして彼もまた心を開いてくれたこと。
二人の間に生まれた小さな信頼が、私の心を温かく包んでいた。
「天狗か……日本の妖怪の名前なのに、異世界にもいるのが不思議だな」
芦名殿が呟いた言葉に、私は振り返って微笑んだ。
「エルフの古い言葉で『天空の守護者』という意味なのですが、発音が似ているだけかもしれませんね」
彼の眉が驚きで持ち上がるのを見て、小さな喜びを感じた。彼に新しい知識を教えられるのは、なぜかと
ても嬉しい。
朝日に照らされた山道を、私たちはさわやかな気分で進んでいた。
木々の間から差し込む木漏れ日が、地面に幾何学模様のような模様を描き出している。
芦名殿は周囲の景色を目に焼き付けるように見回していた。
異世界から来た彼にとって、この風景はどのように映っているのだろう?
気になって仕方なかった。
その時だった。
「この匂い……!」
突然、鼻を突く酸っぱい臭いが風に乗ってきた。芦名殿が顔をしかめるのが見えた。
「トマト……?」
彼の言葉が出た瞬間、私の全身に悪寒が走った。
上空から何かが落下してきた。赤い塊が、まるで矢のように空気を切り裂いて降ってくる。
「芦名さん、避けて!」
咄嗟に叫んだ。彼は即座に反応し、横に飛び退いた。
ドンッ! と凄まじい音が響き、さっきまで彼が立っていた場所が抉られ、赤黒い粘液が飛び散った。
私の心臓が早鐘を打つ。まさか、あれが……!
樹々の間から巨大な影が現れた。血のような赤色の甲殻に覆われたその姿を見て、私は凍りついた。
「あれは……アカブトマガス!?」
陽菜さんが倒れた原因となった魔物——街の祭りを襲ったあの怪物が、ここにまで来ているなんて。
芦名殿の表情が険しくなり、瞳に怒りの炎が宿った。
「あの野郎、陽菜を傷つけた張本人か!」
怪物の触角がピクリと動いた次の瞬間、再び赤い弾丸が吐き出された。
私は反射的に呪文を唱えようとしたが、芦名殿のほうが早かった。彼は迫り来る赤い塊に狙いを定め、腰から軍刀を抜き放った。
ズバッ!
鋭い斬撃が飛来する塊を真っ二つに切り裂いた。しかし中身が飛散し、周囲にドロリとした液体が降り注いだ。
「っ!」
芦名殿が思わず声を上げた。彼の肩口に熱い痛みが走ったようだ。
飛沫の一部が当たり、彼の制服の肩が溶け、肌が爛れて煙を上げている。
「大丈夫ですか!? すぐに治療します」
彼のもとに駆け寄り、急いで呪文を詠唱した。
「水の精霊よ、回復をさせたまえ……」
私の手から透き通った水の精霊が現れた。彼女は儚げな姿で芦名殿に清らかな水流を浴びせる。
精霊が酸を洗い流し、中和してくれた。私の魔法の力が彼の傷に染み込んでいくのが分かる。
「ありがとう、スイリア」
彼の声に安堵した。
「これは確実に、タジマティアで陽菜さんを襲ったアカブトマガスです。こんなところまでやってきたのか……」
話している間にも、怪物は再び唸り声を上げた。芦名殿は肩の痛みをこらえつつ、地面を蹴って一気に怪物へと飛び込んだ。
「はぁぁっ!」
彼は気合いとともに軍刀を振り上げ、怪物の脚に叩き下ろした。
カキン!
硬い甲殻と鋼鉄の刃がぶつかり、火花が散った。芦名殿の表情に焦りが見えた。刀身が僅かに食い込むものの、それだけでは致命傷にならない。
アカブトマガスが怒りに震え、大きな前肢を振り上げた。
ドウッ!
芦名殿は間一髪で後方に跳んで避けたが、衝撃波で体勢を崩し、尻もちをついてしまった。
「芦名さん!」
心配の声が喉から飛び出した。すかさず指先を怪物に向けて突き出した。
「風の精霊よ、斬撃を!」
私の声に応えるように、透明な刃が幾重にも空を裂き、怪物の顔面に斬りつけた。
「ギシャアァ!」
怯んだアカブトマガスが悲鳴を上げ、一瞬ひるんだ。
「今だ、スイリア! 一気に畳みかけるぞ!」
芦名殿が立ち上がりざまに叫んだ。私はこくりと頷き、目を閉じて魔力を集中させた。
胸元の青い宝石から魔力を引き出し、水の粒子を集める。この一撃で怪物を倒せるはずだ。
「水の精霊よ……我が力に応え集え!」
呪文を唱える間も、芦名殿は私を守るように立ちはだかっていた。彼の背中が頼もしく感じられた。
だが次の瞬間、アカブトマガスの全身から赤黒い靄が噴き出した。
「霧だわ! 下がって!」
警告を発したが、すでに遅かった。視界がみるみる暗赤色の霧に包まれ、鼻を突く腐臭が漂う。
喉が焼けるように痛み、まともに息もできない。
「くそっ……!」
芦名殿の苦しそうな声が聞こえてきた。私は咄嗟に風の障壁を展開し、周囲の霧を押しのけようとした。でも、腐食性の瘴気は勢いを増し、じわじわと私たちに迫ってきた。
やがて朧な霧の中、赤い複眼がぎらりと光った。
「来る……!」
芦名殿の声が響く。次の瞬間、巨大な影が猛スピードで突進してきた。
ドガッ!
鈍い衝撃音と共に、芦名殿の身体が宙に浮いた。
「がはっ……!!」
彼の苦痛の声に、私の心が締め付けられる。
「芦名さんっ!!」
必死に叫びながら、彼の落ちた方向を探す。
視界がはっきりしない中、彼が木に叩きつけられ、地面に崩れ落ちるのが見えた。
彼の軍刀が手元から離れ、地面に落ちている。今の彼に戦う力はない——。
私は彼の前に立ちふさがり、両手を広げた。絶対に守ってみせる。それが私の使命だ。
「精霊護壁……!」
祈るような気持ちで呪文を唱えると、水の幕が私たちの周囲に展開した。
ずしん! と鈍重な衝撃音。怪物の攻撃が防壁に命中した。
水の膜が揺らぎ、無数の波紋が走る。額に冷や汗が滲み、歯を食いしばって耐えた。
「くっ……持ちこたえて……!」
芦名殿が這いつくばりながら剣に手を伸ばそうとしている。だけど間に合わない。このままでは防壁が破られるのも時間の問題だ。
力が尽きかけたその時——。
突如、轟音が寂寞とした森を引き裂いた。閃光と共に、雷鳴のような音が響き渡る。
「……何!?」
耳をつんざく炸裂音に、思わず目を見開いた。
バキンッ!
鋭い金属音と共に、怪物が咆哮を上げた。アカブトマガスの堅い甲殻がはじけ飛び、黒い体液が飛散している。
何かが奴を撃ち抜いたのか……?
混乱する中、霧の中から無数の影が現れた。
「人間……?」
驚きの声が漏れた。次々と現れるそれは人の形をしていた。
皆、見慣れぬ金属製の甲冑に身を包み、筒状の武器を携えている。長い銃身の先から、薄い煙が立ち昇っていた。
「前衛、盾を上げろ! 第二班、散開して側面から狙え!」
はっきりと響く命令口調。私の耳にその声は聞き覚えがあった。
エドワード将軍——!
黒い装甲に身を包んだ兵士たちが前列に盾を構え、後方の者が一斉射撃を見舞う。轟音と共に怪物の巨体に次々と着弾し、甲殻を砕いていく。
「グルルルル!!」
苛烈な攻撃にたまらず、アカブトマガスは後退した。森林が揺れるほどの咆哮を上げ、奴は周囲に腐食霧を撒き散らしながら森の奥へ逃げ込んでいった。
嵐のように荒れ狂っていた戦場が、あっという間に静寂に包まれた。
霧が晴れると、私は魔法の障壁を解き、膝をついて安堵の息をついた。胸元を押さえ、乱れた呼吸を整える。
「大丈夫か? スイリア……」
芦名殿が震える足で立ち上がり、すぐに私の安否を確認しにきてくれた。
「ええ……なんとか……」
私の声は弱々しく震えていたけれど、彼が無事でよかった——そう思うと、安心感で胸がいっぱいになった。
数名の兵士がこちらに駆け寄ってきた。胸当ての王冠の紋章を見て、ノースアイヴェリアの軍人だとすぐに分かった。
「大丈夫か? 怪我をしているのか?」
若い兵士が問いかける。芦名殿は肩の痛みに顔をしかめつつも、平静を装っているようだった。
「ああ、平気です……何とか」
「助けていただいて、本当にありがとうございました……」
「命が助かったのはあなた方のおかげです」
芦名殿が深く頭を下げる姿に、彼の礼儀正しさを改めて感じた。
そんな中、一人の男性が私たちに近づいてきた。
「礼には及ばん。我々はあの怪物を追っていただけだ」
エドワード将軍の穏やかながら威厳のある声。
彼が私を見つけた瞬間、表情が一変した。
「姫君、このようなところでお会いするとは!ご無事ですか?」
父の側近であり、新たに陸軍大臣に就任したばかりのエドワード閣下だ。
彼に見つかるなんて、なんという運の悪さ……。
「これはエドワード様、お助けいただきありがとうございます。なぜこちらに?」
冷静さを装いながらも、内心では焦りが広がっていた。彼が父上に私の居場所を伝えてしまったら……。
「いや、先日、陸軍大臣に就任いたしましたので、サウスアイヴェリア王国に挨拶に行った帰りでしてな。まさかこんなところに姫君がいらっしゃるとは思いもせなんだ。偶然とはいえ、お助け出来て本当に良かった」
エドワードさんは芦名殿の方に鋭い視線を向けていた。彼の観察力は鋭く、何かを察したようだ。
「そうでしたか。ご就任おめでとうございます。私からも父上には今回のこと、報告申し上げますね。どうかエドワード様には長く大臣を続けていただきたいと考えてますから」
王女として、最大限の外交辞令を使った。
彼には父上に余計なことを言わないでほしい。
「いやいや、私には栄誉など別に要りませんから、どうかお構いなく。さて、姫君はここで何をなさっていたのですかな? こちらはおつきの方ですか?」
いよいよ困った質問が来た。咄嗟に言い訳を考える。
「ええっと、いえ、この方は、私の家来ではないのです。この方のお連れ様が先ほどの怪物の毒に侵されたので、この先の泉の水を汲んで帰ろうとしていたところです」
そう言いながら、芦名殿に目配せした。彼が何かうまく言ってくれることを祈って。