第10話 【スイリア視点】魔物の襲撃と神聖なる湧水
私の耳が微かな物音を捉えたのは、芦名殿が薬草について質問している最中だった。
茂みの向こうから聞こえる不気味な笑い声——ゴブリンの声だ。エルフとして鋭敏な聴覚が、その不吉な気配を私に警告していた。
体が緊張で強張るのを感じる。魔力がまだ完全に回復していないというのに……。マナポーションの効果はあるはずだが、安心できる状態ではない。
芦名殿も同時に何かを察知したようだ。彼は言葉を途切れさせ、私の前に立ちはだかった。
「後ろに隠れろ!」
その強い声に従おうとした瞬間、緑色の小さな人影が茂みから飛び出してきた。ゴブリン——子供ほどの大きさだが、筋肉質の体つきと鋭い牙、赤く光る目を持つ魔物だ。私が辺境の村で見てきたゴブリンより、ずっと凶暴そうに見える。
一匹ではない。五匹もの群れが私たちを半円形に取り囲む。リーダーらしき一匹は弓矢を持ち、冷酷な知性を感じさせる眼差しで私たちを見ていた。
「くっ、忌避粉が効いていないの……?」
思わず口に出してしまった。準備したのに、効果がなかったなんて……。でも、呪文を唱える時間はある。私は深く息を吸い込み、魔力を集中させた。
「森の守護者よ、我が盾となりたまえ……」
呪文を唱えながら、体内の魔力が流れ出していくのを感じる。温かい泉から水が溢れるような感覚。私の指先から緑色の光が広がり、芦名殿と私を囲む半透明の壁を形成していく。
ゴブリンの一匹が短剣で攻撃してきたが、魔法の壁に弾かれた。壁が振動するのを感じる。この防御魔法は私の得意な魔法のひとつだが、今の状態では長く維持するのは難しい。
「スイリア、この防御はどれくらい持つ?」
芦名殿の冷静な声に、少し安心感を覚える。彼は状況を見極め、次の一手を考えているのだろう。軍人としての経験が滲み出ている。
「せいぜい数分です……」
正直に答えた。魔力が十分でないことを伝えなければ、作戦も立てられない。もどかしさを感じつつも、今は芦名殿を信じるしかない。
「よし、防御が切れたら俺が囮になる。その隙にお前は先に湧水まで走れ」
彼の作戦に、心臓が痛むように縮んだ。芦名殿が犠牲になるなんて……。
「でも、それでは芦名殿が……」
不安な気持ちが声に表れてしまう。たとえ王女として育ったとしても、人を見捨てて逃げるなんてできない。特に私を守ろうとする彼を。
「大丈夫だ。海軍兵学校では剣道も叩き込まれている。この程度の敵なら対処できる」
彼は自信に満ちた声で言ったが、相手は五匹もいる。しかも一匹は弓を持っている。あまりに危険すぎる。
でも、魔法の壁にはすでに亀裂が入り始めていた。私の魔力が限界に近づいているのを感じる。選択肢はない。
「スイリア、壁が消えたら、合図と同時に走れ。振り返るな、いいな?」
不安と罪悪感で胸が締め付けられるような思いだったが、頷くしかなかった。目に涙が溜まるのを感じる。彼を一人にするなんて、できるだけなら絶対にしたくない。
「今だ、行け!」
壁が消失した瞬間、芦名殿はゴブリンに向かって突進した。その勇敢な姿に心を打たれつつも、私は言われた通り走り出した。シーラモリ清水まで200メートル——息を切らしながら走る。
少し行ったところで振り返る勇気が出た。芦名殿が一匹のゴブリンを倒すのが見える。でも、すぐに残りのゴブリンが彼を取り囲もうとしている。そして一匹が——私を追ってきている!
恐怖で足がすくみそうになるが、踏みとどまる。清水まであとわずか。
でも、このまま芦名殿を置いて行くことはできない。決心した。私は清水に向かって走り続けながら、次の作戦を練った。
湧水に到着すると、振り返って叫んだ。
「芦名殿! こっちです!」
彼が驚いた顔で振り返る。そのすきにリーダーのゴブリンが矢を放った。矢が芦名殿の肩をかすめるのが見え、胸が痛んだ。
「なぜ逃げなかった!」
彼の叱責の声が響く。でも、後悔はしていない。
「一人だけ逃げるわけにはいきません!」
私は再び魔力を集中させた。今度は攻撃魔法だ。体内の魔力が渦を巻くような感覚。髪が魔力に反応して浮かび上がるのを感じる。
「風の刃よ、我が敵を薙ぎ払え!」
私の杖から解き放たれた風の刃が、私を追ってきたゴブリンを直撃した。
魔法の刃がゴブリンの体を切り裂く感覚が伝わってくる。
魔法を使うというのは、こうして自分の意志で他者を傷つけることもある。
その重みを感じながらも、芦名殿を守るためには必要なことだと自分に言い聞かせる。
芦名殿が走ってきて、私たちは清水の傍らに立った。神聖な結界のおかげで、残ったゴブリンたちはこれ以上近づけない。彼らは唸り声を上げるが、やがて森の中へと引き返していった。
「助かったな……」
芦名殿の安堵の声を聞いて、私も緊張から解放された。体から力が抜けていくのを感じる。
芦名殿をよく見ると、肩の傷から少し血が滲んでいる。医師として放っておけない。
「芦名殿、怪我をしているではありませんか!」
「ああ、大丈夫だ。かすり傷程度さ」
強がりだ。ゴブリンの武器には毒を塗っていることもある。診察せずにはいられない。
「でも、ゴブリンの武器には時々毒を塗っていることがあります。少し治療させてください」
彼の傷に手をかざし、癒しの魔法を使う。魔力が指先から流れ出し、彼の傷口へと染み込んでいく。肌が修復されていく様子が感じられる。同時に毒を中和する魔法も使った。彼が死んでしまうなんて、考えるだけで胸が締め付けられる。
「これで大丈夫です。念のため、毒を中和する魔法もかけておきました」
「すまない、ありがとう」
彼の素直な感謝の言葉に、少し照れを感じる。
しばらく湧水で休んだ後、私は小瓶を取り出して水を汲んだ。陽菜さんの治療に役立つはずだ。彼女の病気は難しいものだが、シーラモリ清水の力があれば改善できるかもしれない。
「一応、この泉の成分も入れておきましょう。陽菜さんの薬がよりよいものになるはずです」
嬉しそうに言うと、芦名殿は安心したような笑顔を見せた。彼の笑顔を見ると、不思議と心が温かくなる。
私たちは再び歩き始めた。今度は芦名殿が私のすぐ傍を歩いてくれている。その姿に安心感と同時に、何か言わなければという気持ちが込み上げてきた。
「あの、芦名殿……さっきは……ありがとうございました。私を守ってくれて」
顔が熱くなるのを感じる。普段はこんなに素直に感謝の言葉を口にしないのに。彼に対しては、どうしてこうも素直になれるのだろう。
「礼には及ばない。お前こそ、戻ってきてくれなかったら、俺は危なかったよ」
彼の言葉に、言おうとしていた言葉が喉に詰まった。何も言えなくなり、前方を指さすことしかできなかった。
「そろそろ村が見えてきますよ」
ショワルの村が見えてきた。美しい青緑色の屋根が目に入る。故郷ではないが、エルフの村は私にとって安らぎの場所だ。
日が暮れる前に村に到着できそうだ。
これから何が待ち受けているのかは分からないけれど、芦名殿と一緒なら乗り越えられる気がする。
陽菜さんの治療のことを考えると少し不安になるけれど、この清水があれば希望はある。
私は医師として、できる限りのことをしよう。
そして、この不思議な世界の謎を解き明かす旅も、彼と共に続けていきたい。
横目で芦名殿の横顔を見つめる。
強く、頼りになるけれど、どこか切なさを秘めた彼の表情に、私は以前より少し近づけた気がした。
お読みいただき、誠にありがとうございます!
皆さんの応援が私の創作の原動力となっています。
少しでも楽しんでいただけたなら、ブックマークや感想、評価ポイントなどをいただけると大変嬉しいです。
「良かった」「このキャラクターの言動が印象的だった」など、ほんの一言でも構いません。
読者の皆さんの声を聞くことで、より良い物語を紡いでいけると思っています。
よろしくお願いいたします。