第二章
楢原弘樹は、嫌な気分で寝返りをうち、目を覚ました。枕元の目覚まし時計は午前三時を少し回っていた。内容はよく思い出せなかったが、沢山の泣き声なのか、それとも動物の鳴き声なのかに包まれていた気がする。
疲れてるな。
水資源機構に勤務している楢原は、最近仕事に忙しかった。梅雨の時期、それに続く台風の季節を迎えるにあたって、管理下のダムや用水の検査、チェックに追われていた。四十代になり、責任も増えた。
ここのところ眠りが浅い。朝起きても疲労が抜けておらず、むしろ気分が滅入っている。
楢原はもともと地元の人間ではないが、技術職であったので、くろみね市には転勤で移り住んできた。気づけばもう五年が経っていた。
仕事にやりがいはある。水害が起これば直接人のいのちに関わる仕事でもある。
そもそもがこの不眠は、一週間ほど前に空いていた隣の部屋に転居者が来てからではないか。
引っ越してきたのは四十代なかばの女性と、その娘の二人だ。引っ越し作業の日に手土産を持って、挨拶に来てはくれていた。
二人はよく似ていて、身綺麗でスラリとしていて一見モデル風の印象を受けた。娘は高校生らしい。
─しかし、何か暗いんだよなぁ。二人をつつむ雰囲気に陰のあるものを感じてしようがない。でも、母子家庭ならいろいろな事情もあるのかも知れない。
楢原には妙に他人を詮索する趣味は無い。
母子家庭と言っても、昨今特に珍しいわけでは無いし、例え普通の家庭といっても、それぞれに問題を抱えているものだ。
そこで考えるのをやめ、水を一杯飲んでから寝直すことにした。
そして、眠りに落ちる前にその声は聞こえてきた。周りから、甲高く繰り返す鳴き声。それは無数の赤子のむずかる声のようだった。
重なり合い響き合って……目を閉じたままの彼は、頭痛を覚えた。
やがて足元の布団から微かな振動がつたわってくる。思わず楢原は目を開けてそこをみた。なにかが、這い上がってくる。
布団の裾が膨らみ、その周りからも何かが現れようとしている。ぶくぶくと膨らんだそれらは、やがて小さな人の形になった。人というより、無数の溶けた赤ん坊。床から湧き上がったそれらは、いざりながら這い上がってくる。目も開いていない赤ん坊の群れが。
布団の端から部屋の隅から。
次々にそれは湧き上がっている。
楢原は言葉にならない絶叫を発した。
***
夏と玲亜は、学校の帰りに全国チェーンのドーナツショップに立ち寄っていた。
黒嶺高校は、過疎化しつつある現状から考えられるよりも部活動が盛んで、参加している生徒も多い。だが、まだ玲亜は、どこの部にも属してはいなかった。
夏は正規の部活ではない合気道同好会と、ボランティア部に所属している。他にもあちこちから呼ばれるので、多忙ではあるのだ。
でも今日は、スケジュールが空いて少し寄り道できていた。
「玲亜もだいぶんこの田舎に慣れてきたっぽいね」
夏は意地悪げに笑う。
「いや、なっちゃんのおかげだよ。田舎とか都会とか、わたしも気にはしないタイプ。でも、クラスの子とこんなに早く打ち解けられたのは、やっぱり夏様のおかげです」
玲亜は大げさに夏を拝んでみせた。
「はは、偉大でしょ!まぁ冗談はさておき、なんかあったらいつでも言ってよ」
「うん。わたしさ、もとの学校でもこんなに話できる友達いなかった」
少し玲亜の声が落ちる。
「まあ、今はいるならオッケーじゃん!」
玲亜に明るさが戻る。
「そうだね。ありがとう」
そのとき、玲亜のスマホから着信音が鳴った。
一転して表情が凍りついた。
一瞬だった。
玲亜はスマホを取り出した。
すぐにも音を切ろうとしているようだ。
「え、用事なら出たらいいよ?」
夏は普通に答えたつもりだったのだが、玲亜の様子は尋常ではなかった。
顔色は青ざめ、手が震えている。
何回も切ろうとしているのに、着信音は消えないらしい。
「なんでよ!なんでよ!」
「ちょっと、どうしたの?大丈夫?」
夏も心配になった。
玲亜はショップのテーブルにスマホを叩きつけた。
ようやく音が止まった。
玲亜の視線が定まらない。夏は席を立って、横に座り、肩を抱きしめた。
「大丈夫だよ。落ち着いて。わたしいるからさ」
抱擁した夏にすがるようにして、玲亜は震えている。
「今すぐ話さなくてもいいよ」
「うん……」
消えるような声。
夏はまた、異質な泣き声がどこからか聞こえた気がした。
それと同時に、どこから見つめているのかわからない強い視線。
その目がいくつあるのかも不明だ。
さすがに身震いを覚えた。
***
藤木良子は、高校教諭をしている。担当は数学で、男子分布率の高い理数系の中でも才女と言われるほど、その専門分野での実力は評価されている。学習指導においても、わかりやすく、根気よく教えるスタイルで、生徒からの評判を得ている。去年からクラス担任も任されるようになっていた。
自分の名前は、あまりにも普通すぎて好きではなかったが、親のつけた名前に不平を言っても何もはじまらない。黒嶺高校では三年勤務していた。
今年は一年二組の担任である。
地元の出身ではないが、なんとなくこの黒嶺は自分にあっている気がする。
静かで、もっと悪く言えば暗い雰囲気も感じるが、嫌ではないのだ。かえって落ち着くような気持ちになるのはなぜなのだろう。
新学期が始まって二ヶ月立つ時に、一条玲亜は転入してきた。生徒には明かすことはないが、玲亜は異性関係を巡って問題を起こしての転入だった。妊娠、そして中絶。それを高校一年生のこの時点で、二回経験している。それぞれ、違う相手と。
藤木は担当教師として、かなり事情を知らされてはいるのだが、深刻な状況であるのは間違いない。地元である福岡市では、もう転校先も見つからなかったのだ。
先入観をもっての対応などしたくはない。
いまのところ、藤木が思うには、なにかが特別な生徒という実感はなかった。
クラスの生徒とも、短い間に上手にコミュニケーションは取れているようだし、問題行動も一切ない。
ひとつは、クラス委員でもない水守夏が、それとなく世話を焼いてくれているからかもしれない。
ただ、保護者である母親は福岡での仕事が忙しく、実質一人暮らしなのが心配ではあった。
本人に尋ねてみたのだが。
「いえ、先生。母は忙しいのが当たり前で、別にこれまでと変わりはないですよ」
との答えが返ってきただけだった。
特段いじけて卑屈になっている様子もない。
どこにでもいる、高校一年生の女子生徒に思える。しっかりしているといってもいいだろう。
だが。
なにもなければ、今の状況になっていることもあるまい。
どこかに、悩みを抱えているはずである。
だからといって、何をどうすればいいのか、今の自分ではわからない。
無力さを痛感した。