第一章
主題歌「鳴り忌み」
https://www.youtube.com/watch?v=HGdxbpzHX0E
くろみね市は、九州北部、筑豊地方の山深い場所に位置する小さな市である。かつては黒嶺という名で呼ばれていたこの地は、平成の大合併を経て市制を施行したものの、今は過疎化が進む山間部と、かつて炭鉱で栄えた小さな市街地を持つ小都市に過ぎない。戦後すぐまで、黒嶺炭鉱は日本でも有数の産炭地であった。 だが現代では日本の他の地方都市と同様、人口減少と高齢化が深刻な問題となっている。空き家が目立ち、かつての賑わいは失われつつある。
この土地の歴史は非常に古く、神話の時代にまで遡る。古事記には記されていないものの、わずかに歴史書にその名を見出すことができる。神代の時代には、天津神に追われた国津神が住み着いた地、あるいは禍津神が集まった場所として伝えられている。戦国時代には、山城をめぐる島津と大友の攻防の舞台となり、数々の戦いの歴史が刻まれた。 しかし、かつての繁栄は見る影もなく、現在のくろみね市は疲弊した地方都市のひとつにすぎない。
それでも、いまを生きている人々は日々の暮らしを続けている。
季節は梅雨の時期にはいろうとしていた。
県立黒嶺高校一年二組の教室は、朝のざわめきの中にあった。早瀬凪は、幼馴染の水守夏に、今日提出期限の英語の宿題を教えていた。
教えていたと言うよりも、速攻で夏がノートを写しているといったほうが確かだっただろう。
凪は名前だけではわかりにくいが、男子だ。
あまり気を使ってない様子の癖っ毛で、前髪は若干長すぎて目線が読みにくい。髪色は手もいれてないのに色素が薄くて茶色で、ゆるくパーマの入った感じのウェーブがかかっている。
そして、日焼けもしてないきれいな肌と、髪の奥の鳶色の瞳が印象的だ。一見おしゃれそうにもみえる。
ただ彼の関心はもっぱら古今の書籍の世界の中にあって、恋愛はもとより、ファッションにはほとんど興味がない。
普段着も無頓着だし、夏の盛りにはよく焦げ茶の渋い甚兵衛を愛用していた。
そして、常に何か考え事をしているのか、ボーッとしているようにしか見えない。悪くない顔立ちなのに、いつも眠そうなので、ぴりっとしない。夜ふかししてつい、読書に耽ってしまうからでもある。
今は時折夏の質問に答えながら、岩波の柳田國男「遠野物語」を読んでいた。既に何度も読み直した本だが、淡々とした文体での語りは味があり、興味は尽きない。今読んでいるのは「河童」の部分だった。
ノートを必死で書き写している夏は、清潔感のある黒髪のショートがよく似合う、小柄だが活発そうな女子だ。大きな瞳には、秘めている優しさがにじむ。だが、つよいその視線の力が意思の強さも感じさせる。幼少の頃より合気道と、祖父伝授の修験道で鍛え込んでいて、並の男では太刀打ちできそうもない。面倒見もよく、裏表のない人好きする性格もあって、入学して間もない一年生なのに、すでに学校内で一目置かれる存在になりつつある。
始業のチャイムが鳴った。
「ありがと凪!間に合った!」
ホームルームの時間である。
担任の女性教師である藤木は、一人の女生徒を連れて教室に入ってきた。
「皆さん、おはようございます。さて、今日からこのクラスの一員となる転入生の紹介をしますね」
「一条玲亜さん、です。一条さん、自己紹介をお願いします」
そういうと担任は女生徒をうながした。自分は黒板に彼女の名前を書いている。
「皆さん、はじめまして。いちじょう れあ です。福岡から来ました。よろしくお願いします」
玲亜は柔らかい明るい栗色のロングヘア、すっきりと身長も高い。この年にしてモデル風な雰囲気をもっていた。田舎の高校生たちにしてみれば、いかにも都会風で垢抜けしている。目鼻立ちもはっきりしていて、綺麗系なタイプだ。
けっこうな数の男子が興味を惹かれただろう。
特に緊張している風でもなく、一礼して担任の指示を待っている。
夏はちらっと後ろの席の凪を見てみたが、彼は遠野物語を読み耽っていた。
「はい、ありがとう、一条さん。席は、水守さんの隣の席でお願いします。水守さん、よろしくね」
昨日、席替えがあった時に夏の横を空席にしたのはそういうことだったんだな。
凪はなんとなく思った。
先生もなっちゃん頼るのか。ちょっと面白かった。
確かに、夏なら転校生の世話役も言われずとも自然にやるだろう。
「はい」
玲亜は夏の隣に座る。近くに来た時、ほのかに香水の匂いもした。
「よろしく、水守さん」
「うん、よろしくね」
夏はにこやかに答えた。
だがその時、微かに、何かの声が聴こえた気がした。夏だけにしか聴こえなかったらしい。
心を乱す、微かな、泣き声。