下
次の授業まで間隔の長い休み時間。
いつもの教室でのクラスメイトによるお喋りが聞こえているだけだと、ぼーっと何となく思っていた。
すると不意に肩に手を置かれた感触と同時に、ぼんやりしていた声がはっきりと耳朶を打つ。
「○○さん。ちょっと!」
敵意を隠そうともしない口調。
急に現れた腕を辿って、見下ろしてくる女子の瞳を眺めた。
染めた髪を胸の前に垂らし、髪留めで額を覗かせている。
細い眉に気の強そうな目元。クラスメイトだったように思うが、名前はてんで思い出せない。
そもそも誰一人名前を覚えていないと言った方が正しかった。
呼びかけに振り向いて、じっと目を見返していると、彼女の眉間にシワが寄ったことがはっきり見て取れた。
相手の口元が動いて何やら言われたが、それよりも突然置かれた手が恐ろしくて払い落とす。
「触らないでくれるーー」
せっかく今日は彼の姿が無くて心穏やかだったのに平穏を台無しにされた。
なので睨み据えると、女子は驚きの顔から表情を変化させ、怒りを露わにした。
そして身を乗り出し、顔を寄せてくる。
「何なの、その態度はないんじゃない!」
余り寄らないで欲しいーーそう思った。
すると、それも顔に出ていたのだろう。
急に音が反響するような感覚に遭い、首を巡らすとクラスメイトの女子何人かに囲まれていた。
幾つもの目に数個の口、逃げ場は後の席くらい。
「話しかけないで」
「黙りしてないで、質問に答えて」
「イナハくんを知らない? 昨日家に帰ってないんだって」
ーー稲葉? だろうか? 誰?
「誰……?」
唇から心の呟きが幽かに漏れた。
「昨日お祭りで会ったんじゃないの。あたしたちと別れる時、帰るって言ってたのに」
「○○さんをお祭りで見たって子もいるのよ!」
「何か知っているんでしょ」
「イナハくんに何かしたんじゃないの?」
興奮気味の声が頭に響く。
喋ることをまとめてから話して欲しい。
一気に言われても困る。
しかし、それよりも……
「うるさいな」
せっかくの平穏を破られ、煩わしくもイラ立った言葉使いになった。
膝裏で押すように椅子から腰を浮かせ、左足を後へ引き、左手にした刀の柄に右手を伸ばす。
そして居合い切りーーというのか、抜くと同時に一閃。
腰を軸に回したので、後ろの席意外は横に薙いで振り抜いた。
包囲していた女子たちの顔が顎だけ残して上半分が飛ぶ。
化粧が濃いめの顎の小さかった子の歯並びはガチャガチャしていてざわりとし、少し太り気味だった女子の歯列の内側の舌はブクブクと他より厚かった。
他にも親知らずが変な角度で顔を出してたり、虫歯の治療痕が見受けられて気味悪く感じた。
正面の子は白い歯並びがキレイで、表面が鮮やかな色をしている舌は濡れている。
頭部を失った身体がどうっと仰向けに倒れ、周囲の机を巻き込んでけたたましい音を立てた。
遠巻きに見ていたクラスメイトたちは、言葉を発さずにこちらを窺うだけだった。
目に映る少数、予鈴が鳴る。
授業が始まると静かになり、勉強をすることを除けば嫌いじゃない時間。
黒板にチョークが当たる音、板書をノートに書き取る筆音。
授業をもう一つ終え、予鈴で昼休みに入る。
教室の空気が緩み、誘い誘われる言葉も飛び交っていた。
うかうかしていると彼に声をかけられる心配があるので、お弁当を片手に素早く教室を出る。
廊下を足早に進みながら、今日はほぼ卓球部が使用する柔剣道場まで足を伸ばそうと道順を頭に浮かべる。
往復とお弁当だけで時間が終えてしまうけれど、毎回お弁当を広げたのを見計らった相手が隣に来るよりマシだろう。
完全に校舎の喧騒から切り離された柔剣道場。
自然と大きく息を吐く。
その入り口脇の段になっているコンクリートに腰を下ろす。
スカートの後を押さえて座り、膝にお弁当の巾着を乗せる。
「いただきます」
箸を握り手を合わせ、落ち着いて昼食を摂る。
鳥の囀りや学校の敷地外の車両の音しかせず、穏やかな時間が流れていた。
そのはずなのに頭の片隅に、いつ彼が現れるのかそわそわしてしまっていた。
「……」
柔剣道場までは一本道なので、入り口脇からは見えるので後を追って来たら分かる。
何でそんな心配をしなければならないのか、馬鹿らしいことに気づき、から揚げを頬張った。
久しぶりにお昼が美味しいと思えるし、静かで邪魔も入らないのに何が不満なのか、それが分からない。
結局、心配は杞憂に終わり復路も早足で教室に戻った。
この日の最後の授業が終わった。
彼の顔を見ていないことが少し気にかかったけれど、これが今までだったと肩の力を抜く。
女子に囲まれたというイレギュラーはあったものの、無事に学校を終えることに息を吐く。
「○○さん。帰る前に放課後職員室へ来て下さい」
不意打ちで呼ばれ、授業の資料を脇に抱えたままの担任に顔を上げた。
「……はい」
呼び出される理由に思い当たらず、曖昧な返事をしたけれど、すぐに担任の意図を察する。
こそこそ、くすくすと女子の囁き声が耳に入った。
そんなことでも呼び出されるのかと、集団生活という物に嫌気を覚える。
下校する準備だけして職員室へ足を運ぶ。
他の人たちの素直に帰っていく姿を横目に、羨ましさからため息が漏れた。
聞き取りなのか注意なのか、考えても無駄だけれど考えてしまう。
ノックから担任の名を出し、要件を告げて頭が覗く席に踏み出す。
「ん、この後職員会議だから隣の視聴覚室に行っててくれ。そう待たせず行けるから。鍵は開いてる」
視聴覚室ーー職員室の隣と言っているので、長机や折りたたみのパイプ椅子の置かれたあの部屋かと、頷いて踵を返した。
言われた通り一度廊下に出て、隣の扉に手をかける。
中は普段の教室より気持ち広いくらいのスペースで、使われていない部屋独特の空気がこもっていた。
こんなところで待ちたくもないので、真っ先に窓へ向かう。
鍵を下ろしてカラカラと滑らすと、眼下に下校する生徒の流れが目についた。
「……」
本当ならあの流れの中にいたのかと想像するだけで、呼び出しといて待たされ、憂鬱だった気持ちが更に落ち込んでいく。
窓枠から地面に視線を下ろすと一メートル弱のところに地面があり、このまま窓を乗り越えて帰ってしまおうかと思った。
「やはり人と関わるとろくなことが無い。滅入るし面倒だ……」と、思わず言葉にしていた。
だから無関心に不干渉を出来るだけ貫いてきたし、一人でいるのが楽だった。
近いパイプ椅子を引き、軋む音をさせて窓辺に座る。
呼び出すくらいの内容なら、職員会議なんて抜け出して来てもおかしくない。
制服を着ていられる時間は有限なのだから、無駄にしたくない。言っても急いでいる訳でもなければ用事もないけれど、やはり面倒なのは嫌だ。
一人待たすくらい重要視されてないなら帰りたいが、きっと校長室ででも先に聞き取りをしているのだろう。
想像でしかないけれど。
窓の外を眺めながら頭に触れ、指で自分の髪を梳いて待つ。
そうしていると部屋の扉が開き、反射的に音のした方に顔を向けた。
案の定、担任と女性教師がやって来る。
髪から離した手を膝の上に乗せ、近くのパイプ椅子に座る二人を目で追う。
「○○さん、休み時間にクラスメイトと喧嘩になったようだね」
「喧嘩ーー?」
話を切り出した担任の言葉に小さく首を捻る。
傾けた方の肩に毛先が擦れた。
「ただ、聞かれたことに知らないと答えただけです。ケンカはそれぞれ捉え方の差だと思います」
「本当に?」
「どう言ったかは忘れましたが、聞かれたことに対してはそう答えた気がします。それに話しかけられるの好きじゃないじゃないですか。知ってますよね?」
「ん、まあな……」
担任は顎を引いて頷く。
どうやら同席している女性教師は、女子生徒と担任の男性を二人きりにしない処置で居るように見えた。
だから妙に饒舌で喋り過ぎ感のある今も言葉を挿まない。
「好きじゃないから、言葉選びに問題があったのかもしれません。先生、ごめんなさい」
面倒極まりないので先に謝り、反論ではなく先に主張してしまうことにした。
どう考えても訊かれた質問に答える方が面倒そうなので。
「だから言葉が悪かっただけで、全然喧嘩になんてなってません。皆も見てる訳ですし」
嘘を吐く必要は無いと示し、口を閉ざして視線を下げる。
別に受け答えをしただけなので必要ないが、問題になった以上は多少反省している姿を見せないと長くなりそうな気がした。
「いや、大丈夫だ……とりあえず双方から話を聞こうとしただけで、○○さんが自分で反省しているところもあるなら。強要はしないが先生としては、もうちょっと協調性や周りとコミュニケーション取ってもらえると嬉しいかな」
「努力してみます」
約束ではないので、無難な返事をしておく。
下手に頷いて、後日同じようなことで呼び出された日には、約束したと持ち出されかねない。
正直、こんなことで呼び出されて限界なところもある。
「ところで、本当に昨日から家に帰ってない稲葉くんのことは知らないかな? 先生も心配しているんだ」
だから顔と名前が一致しないのだから誰なのかと思う。
さすがに流れから予想はつくが、答え合わせをするのも面倒で確認はしない。
「分からないです」
とりあえず、嘘ではないのでそう答える。
「お祭りには行ったんだよね?」
「そうですけど」
「見かけたりはしなかったかい?」
何でそんなにしつこく訊くのか、呼び出された上に犯人だとでも疑われ、鬱陶しく煩わしくなる。
そんな気持ちが表情に出てしまったらしく、困ったように眉尻を下げる担任。
「一緒に見た子が居る訳じゃないんだけどーー」
そう口にして話を続ける担任。
もう何を言ってるのか、面倒くさくなって聞く気にもならない。
瞼が重くなる。
「ーーもう、いい加減にして下さい……待たされたのに何度も繰り返し確認されてイラ立っているんです」
立ち上がり、両手で柄を握り締めたハンマーを頭上に振り上げる。
アニメでしか見ないデッカイハンマーだ。
それを椅子に座る担任の頭に向け、思いっきり振り下ろす。
まるでテーブルから生卵を落とすかのように、僅かな抵抗を見せて呆気なく潰れた。
ハンマーと床、そこを中心として潰れた肉片と飛び出した中身と赤い液体が飛び散っていた。
上履きのつま先に、広がった血が到達する。
面倒だけどもう一度、大きなハンマーを持ち上げ、身体を捻転されて女性教師を横から回転を加えたハンマーでぶん殴る。
遠心力が乗った一撃は重く、軽々と女性教師を吹き飛ばし、部屋の壁に身体を強かに打ち付けた。
壁を伝って崩れたきりピクリともしない相手に近づくのも億劫で、バトンを空中に放るみたいにハンマーを宙に投げる。
緩やかな動きで縦に回りながら床に伏せた上に落下、女性教師を押し潰して辺りを赤く染めた。
こんなに不快な気持ちになるなんてなかった。
日常でないことが一日に起こりすぎて、さすがに視線も足元に落ちる。
教師たちを惨殺して消したものの、最近の流れなら彼が現れるのかと少々警戒してしまう。
とても今、彼には会いたくなかった。
それでもこれまで通り、忘れられなくなってしまった笑みを見せられるかと考えるだけで、胸の平穏を保てない。
しかし、杞憂だったのか出てこなかった。
あんなに身構えさせられたのに姿が見えないことに腹が立ち、下校の道すがら覚えた感情が分からず混乱してしまう。
翌日、心の準備をして登校したのに無駄になった。
彼の姿はあらず、朝から声をかけられると警戒した肩から力を抜く。
無関係な喧騒の中、自分の机に着席する。
誰にも干渉されなくて良い。
静かで良い。
人との繋がりが無くても構わない。
願いは穏やかな一日を過ごすこと。
なのに今は彼が現れなくて腹が立つし、声が聞こえなくて胸の内がそわそわする。
それに、あの笑顔が無いことに不満を持っていた。
学校に居る間中気にかかったが、放課後会いたいとしてもどこを探せば良いか、どこに居るのかさっぱり分からない。
予想すら出来ないので、さっそく校門を出たところで困ってしまう。
明日になれば学校に来るのだろうし、別にわざわざこちらから会いに行く必要も無いと分かっていても、彼が頭から離れなくて落ち着かない。
気になるのに何も出来ないモヤモヤ感。
会いに行くにしても、とりあえず歩かなければならないので、適当に道を歩き出すことにした。
数十メートル行ったら左に折れて帰り道から外れ、廃れた商店街を一直線にゆったり歩く。
骨董品、花屋、たい焼き屋、八百屋、交番などの前を見るともなしに過ぎ、焼き肉屋の脇を入って大通りに出る。
本当に適当に彷徨っていたので、コンビニやガソリンスタンド、メガネ屋やファミレスを横目に、車通りの多い歩道を進んだ。
目的地もなくふらふらした足は、線路を越えてお寺や銭湯のある住宅地を歩き、無意識に最後に会った神社へ向いた。
拝殿の脇を入って社殿の板塀沿いに歩き、植物の枝を押しのけて穴を潜る。
彼を最後に殺したところにたどり着き、大きく息を吸って気づく。
「んっ……」
おもむろに木組みの覗く社殿の下を屈み覗き込むと、会いたくて探していた相手が居た。
カラスの鳴き声が頭上で響き渡る。
そして彼が現れないのも当然と納得した。
いつもなら殺すと消える死体だが、鼻につく異臭を伴って存在している。
実際に殺してしまった事実、現実に気づく。
否、思い出した。
「本当に殺しちゃったからーー私……」
あっさり認めてしまった気持ちの反面、逆算から彼に恋をしていた可能性に気づいてしまう。
そわそわしたり、気持ちが乱れたり、不機嫌になったり、それでも今日は彼を気にしたり証拠はあった。
どこかで恋には障害がついて回ると聞く。
だから、ここまでモヤモヤしたのは恋だったのかもしれない。
「嗚呼ぁ……」
じわりと悲しさが胸から染み出し、眼から溢れた涙が頬を音も無く伝った。
足元にはあの時のリンゴ飴の残骸が残っていた。