エニア・リュスタルト
僕は今まで魔法以外には一切目を向けなかった。取り憑かれたように魔法へ没頭する姿は、使用人なら一度は目にしたことがある。
それが頭の怪我を機に逆転。魔法を忘れたような僕の日々は、使用人たちの話題作りに貢献した。
「頭を打ったでしょ。記憶か感情を無くしたんじゃない?」
「身の程を知ったのさ。シューノス様はリュスタルト家、始まって以来の無才だもの」
「溜まったものが爆発する予兆かも。急に暴れなければいいけど。変な仕事を増やされたら、たまったものじゃないわ」
耳を立てれば、好き勝手言う声が聞こえてくる。
どうせなら混ざろうかとも思ったが、それはそれで面倒なのでやめた。
僕は庭を散歩していた。
庭園の草花は日によって様相が異なる。それらを楽しみながらの散歩は悪くない。
文句を付けるなら、たまに噂話のネタを仕入れにくる使用人が、影から僕を見つめるくらいだ。
それがなければ素晴らしく完璧な時間だったに違いない。
頭の怪我は快方に向かっている。そろそろ剣の練習を始めたいところだ。
花壇に立てかけられた箒を剣に見立て振ってみる。
前世では剣なんて持ったことはない。もちろん今生でもそうだ。当たり前だが酷く乱れた動きだった。
剣術を教えてくれる家庭教師がいれば解決するのだが。
「父上は認めてくれないだろうなぁ」
既に見放されている僕では、魔法に関連付けても聞き届けられない気がする。
ついでに言うと、木剣の用意も難しい。リュスタルト家には潤沢な資産があるが、僕個人はまた別だ。小学生の小遣い程度も持っていない。
箒であればこうして振れるが、箒と剣ではまた違うだろうし――。
「シューノス兄様、居たああああぁ」
「お嬢様、走らないでっ」
突然の叫び声で、箒から目が離れた。
「エニアか」
たった一人の可愛い妹が駆けてくる。淑女となるべく教育を受けているはずだが、外聞気にせず両腕を振り回しながら全力疾走する姿は、淑女よりは猪に近い。
スカートの裾を踏んづけてすっ転ばないか気を揉んだ。
転んだら転んだで可愛いんだけど。
幸い怪我はなく、妹は僕に飛びついた。勢いで鼻水が僕の服にへばりつく。
「兄様はここで何してるの? お怪我はもう痛くない?」
「エニアに用事あって、僕に会いに来てくれたんじゃないの?」
「ないよ」
僕は走り疲れた侍女へ確認を取る。
こうして会えたのは示し合わせたわけではなく偶然だという。つまり運命。
「そうかぁ」
僕は頭を撫でてやる。すると「もっとやって」とせがまれた。
やばい。顔が崩れていく。エニアが喜ぶ声がたまらない。
決して口には出せないことだが、以前の僕は劣等感を抱えていた。
エニアが魔法を使えたと聞いたとき、喜ぶよりも先に妬んだ。僕はいつになっても、どんなに頑張っても使えないのにと――。
その感情を押し殺して生きてきた。決して表に出すまいと努力した。
なぜならエニアが可愛いから。この子に気を使わせたら兄として失格だ。
エニアの笑顔を見る限り、うまく隠せていたようである。
しかし後ろに立つ侍女には見抜かれていたかもしれない。彼女は僕とは決して目を合わせようとはしなかった。
「兄様、聞いて」
「どうしたの?」
「エニア、また新しい魔法を使えるようになったんだよ! すごいでしょ!」
「お嬢様、それはっ!」
侍女は息が止まるような思いになったようだ。
しかし心配はいらない。前世の記憶を取り戻した今、エニアに対して愛情しかなかった。
妬んだり羨んだりするなんて、そんな馬鹿なことはない。
僕はまず慌てる侍女を手で制した。
すぐに優しくエニアの頭を撫でてやる。
「そうなんだ。よかったね」
「うん!」
本当によかったねぇ。
いつも元気で、いつも笑顔。エニアを見ていると小さな悩みがバカバカしく思えてくる。
「ねえ、兄様!」
「どうしたの?」
「見て見て!」
エニアは僕から離れると、庭の隅に手を向ける。エニアの輝く金色の髪がふわりと浮いた。
風の渦が巻き起こる。エニアの魔法だ。
それは集められていた落ち葉を巻き込むと、空高く舞い上げる。
「あぁっ、お嬢様ぁ! それはいけませんよ。私が叱られるやつぅ」
侍女の必死の訴えも聞かずに、エニアはへらへらと笑う。
「ねっ、エニア凄いでしょ!」
きっと頭を撫でてほしいんだろうなぁ。
「もうこんな魔法が使えるなんて、エニアは天才かもしれないね」
ちなみに天才とは贔屓目ではない。エニアの年齢で魔法を扱う子なんて殆どいないのだ。
僕はエニアの頭を撫でてやると、ただでさえ明るく可愛かった顔が、より花開いた。
反して侍女は忙しなく周囲を気にする。
「お嬢様、逃げますよ。落ち葉を散らかしたのを知られる前に。ね?」
「えーヤダ」
「そう言わずに。ほらお兄様も困ってますから」
「困ってるの?」
妹よ。崖に立たされたみたいな表情をしないでくれ。『そんなことないよ』と言うしかないじゃないか。
しかし侍女の言うことも理解できる。この場を誰に見られても、エニアがやったことだから仕方がないで済む気がするが、小言くらいは飛びそうだ。
僕は膝を折り、エニアと目の高さを合わせた。
「エニアは先に戻ってて。僕はやることがあるから」
「そうなの?」
「ごめんね。エニアの魔法は凄かったから、また新しい魔法を使えるようになったら見せてくれる?」
「うん。いいけど、特別ね」
「ありがとう」
僕はエニアの頬を、両側からプニュリと潰してから立ち上がる。
とっても柔らかかった。
「じゃあエニアをお願い」
「ほら、お嬢様、急ぎますよ」
「バイバイ」
「エニア、またね」
「シューノス様も逃げたほうがいいと思いますよ」
「大丈夫。ここ誰かが片付けないといけないから」
「……変わられましたね」
「そうかもね。諦めがついたからかな」
「そうですか。私はお嬢様の世話係なので、これで」
「うん。それで十分。エニアを頼むね」
エニアは見えなくなるまで、ずっと振り向きながら手を振り続けていた。当然、僕もそれに応えた。
可愛らしい嵐だった。突如現れ、初手で突進、落ち葉を撒き散らして消えてった。
「はぁ」
エニアに嫉妬することはないと思ったのだが、実際に魔法を目にするとやっぱり憧れてしまう。
魔法がある世界に転生しておきながら、自由に使えないこの身が恨めしい。
持ったままの箒と周囲を見比べる。さっさと掃除をするとしよう。少しは気が紛れるかもしれない。
よくよく考えると、シューノス・リュスタルトに転生してから箒を使うのは初めてだ。
父から冷遇されているとはいえ、これでも一応、名門リュスタルト家の子息である。いわゆる貴族。雑用をすることは一度もなかった。
箒はやけに手に馴染み、落ち葉集めはスムーズに進んだ。