おーい。まだ生きてるかぁ。
青い空。白い雲。
大の字で草の上に寝そべりながら、それを見つめた。
「綺麗だなぁ」
5年ほど生きてきて、初めて気づいた。陽気の空は綺麗だ。
呑気にしている場合ではないのだが、他にできることもないので雲の動きを目で追った。
「ゴォォオウモォォオオオ!!」
すぐそこから雄叫びが聞こえる。これは勝利の雄叫びというやつだ。自らが強者だと主張する声である。
これを耳にした弱者は恐々として物陰に身を隠す。
木々で休んでいた鳥たちが逃げるように飛び去った。虫たちは葉の裏に身を隠す。
彼らが羨ましい。できることなら、僕も逃げ隠れたいものだ。
でも、今の僕には立ち上がることすらできなかった。
体がぴくりとも動かない。起き上がって走るどころか、指先ひとつすら動かせなかった。
生まれたての赤子よりもひ弱な存在。それが今の僕。
いいことがあるとすれば、頭痛が止んだことだろう。鐘のように響いていた痛みも、今では落ち着いている。
ズンと地を叩く足音が、地鳴りとなって響いた。
僕に大きな影が覆いかぶさろうとする。
視界にそれが入った。巨大な石を片手で鷲掴みにする二足歩行の巨漢。オークが僕を見下ろした。
これで死ぬのか。機械的に判断して受け入れる。
文句をつけるなら、最後に見る景色が『綺麗な空』ではなく『汚いオークの面』になりそうなことくらいだろうか。
オークの表情は平常そのものだ。せめて怒りがこもった顔ならよかったのにと思う。
きっと僕のことを、罠に掛かった獲物くらいにしか認識していない。うさぎと同じだ。
オークは石を両手で持ち直すと、振りかぶるように頭上へと運んだ。
これから僕は殺される。オークは容赦なく、石を僕の顔に落とすだろう。頭部が潰れてジエンド。5年の人生が幕を引く。
生まれてから5年。必死に努力したつもりだったが、何もない人生だった。
死の瞬間が訪れると、過去の景色を流し見るという。走馬灯というやつだ。
僕が過去に経験した光景が、雲に投影され始める。
そもそもこうなった原因は、僕の考えが甘かったからだ。
「はぐれオークが出た」
屋敷で使用人たちがしていた噂話。僕はそれを聞いて屋敷を抜け出した。
倒そうと思ったのだ。図鑑でしか知らなかったオークは、低級の魔物に分類される。
聞かされてきた冒険譚でも、いつもオークはやられ役として存在していた。
駆け出しの英雄たちが、苦戦しながらも勝利する。踏み台として描かれるだけの魔物。それがオークだった。
あのときの僕は、根拠なく確信してしまった。弱い魔物ならやれると。
しかし現実はどうだ。
僕は結局、何も出来なかった。出端に頭を1発殴られて今に至る。
せっかく重い剣も持ってきたのに。振ることすらできなかった。ただの錘でしかなかったと今では思う。
走馬灯は続く。
浮かんだのは父の厳しい顔だった。
『おまえの4つ上の兄、ルドゥワは四歳で魔法を発現し、5歳になったころには魔物を倒せるまでになっていた。2つ上のレノワールも4歳で魔法を習得し、その年で魔法士会の名簿に名を刻んだ。おまえの1つ下の妹、エニアもつい先日、魔法が使えるようになったと聞いている』
しかし僕だけは魔法を一切使えない。
『我がリュスタルト家は、優秀な魔法士を排出する名家だ。代々、国の魔法技術を先導し、発展に貢献してきた。家系図を辿れば中には魔法を不得手とする者もいるにはいる。しかし全く使えない、完全な無能はお前以外に聞いたこともない。平民の中にすら、おまえに劣る者はいないだろう』
父は僕を嫌った。母は不貞を疑われた。母を愛していたルドゥワ兄さんは僕を恨んだ。使用人たちも僕を無視する。
普通に接してくれるのは、レノワール兄さんと、妹のエニアだけだ。
「オークを倒せば、父上に認めてもらえると思ったんだ」
だから僕は、騎士や戦士団、冒険者に探検家など、魔法や武術に造詣が深い者たちが出立する前に、急ぎオークと相対した。
無意味だったわけだけど。
走馬灯は更に過去をほじくり返す。
まだルドゥワ兄さんと仲が良かった思い出。
僕を愛してくれていた、昔の母が見せた笑顔。妹が生まれた瞬間。
言葉を覚えて間もない頃。僕が初めて喋った言葉は『パンツ』だったようだ。もっと簡単な言葉があるだろうと、母が笑っている。
まだ1歳にも届いていない、ベッドの上で手足をばたつかせていた僕。
父上が僕を見下ろしている。そのとき、父上は笑っていた。僕の頬を指で突いて……。
今では決して向けてくれない笑みだった。僕が心から欲していた笑みだった。
死にたくない。そう思ってしまった。やっぱり生きていたい。諦めたくない。
父上に認めてもらいたい。よくやったと褒めてもらいたい。抱きしめてほしい。そのために、そのためにここまで来たんだ。
しかしオークにとって、そんな事情は関係ない。
慈悲など掛けず、持ち上げた石を僕の頭目掛けて落とすだろう。
これも運命なのかな。また頭を打って死ぬわけだ。
……また?
走馬灯はまだ続いた。生まれた瞬間、生まれる前、更にその先へ……。
視界が斜め45度に傾いた。原因は上から降ってきた鉢植えにある。そして視界が暗転して倒れた。
そうだ。思い出した。僕、過去に一度死んでるわ。
死因は頭を打ったこと。鉢植えを頭で受け止めた後の記憶がないから、これが死因と考えてよさそうだ。
最後はきっと、頭に花を咲かせて死んだのだろうな。
僕は異世界転生をしていたらしい。
前世では毎日が繰り返しだった。時計を見ずとも、現在時刻がわかるくらい同じ毎日を繰り返した。
そんな無味乾燥な日常に飽き飽きしていた僕にも、唯一安らげる時間があった。ゲームをしているときだ。
RPGでもいい。ノベルゲーでも、シューティングでも、ストラテジーでも、シミュレーションでも何でも――。
ジャンルなんて気にしない。とにかく現実から乖離した世界。それが重要だった。
望んでいいならファンタジー。魔法があるなら更に良し。机横に、ポテチが合わさればまさに至高。独裁政治すら許せる時間がやってくる。
しかしあの日は違っていた。ポテチの在庫が切れたのだ。
休日の朝だった。我が家のポテチが無くなっていることに気付いた僕は、近くのコンビニまで補充に向かった。
歩いて5分程度の距離。鍵と財布以外は何も持たなかった。
近道のために、狭い裏路地を選ぶ。
半ば駆け足で急いだ。
ふと足元に影が現れる。なんだろうと見上げると、土が詰まった陶器の植木鉢。
急な出来事に「あれまぁ」と思う間もなく、真っ直ぐ落ちた先には僕の――。
これが所謂、異世界転生ってやつか。知らぬ間にミラクルが起きていたらしい。
輪廻転生を否定していたわけではないが、まさか異世界転生が実在するとは思ってもいなかった。
魂の存在を信じたくなってくる。前世の記憶を取り戻せたことを考えると、記憶は脳だけに宿るわけではないようだ。
こうなると、幽霊の存在も否定できなくなってくる。
異世界転生をした。その事実だけでも考えられることがいっぱいだ。しかし時間は残されていない。
ついにオークが石を投げた。太い指から離れた石は、僕の頭に目掛けて落ちてくる。
異世界転生の主人公といえば、常軌を逸した能力を獲得しているものだ。その能力を行使して危機一髪、窮地から脱する。知っている物語ではそうなっていた。
しかし僕にそんなものはない。
魔法がある世界に生まれながら、初歩的な魔法ひとつ使えない落ちこぼれだ。迫る石を避けたり守ったりする手段に心当たりはなかった。
また死ぬ。ということは、再び転生するのだろうか。
父に認められずに終わるのは不本意だけど、こうなった以上は仕方がない。
じゃあ気を取り直して、次の人生について考えてみよう。
次の目標はとりあえず老衰で死ぬことだな。もう頭を打って死ぬのは御免だ。
前世を思い出すのが死の直前ではなく、もっと早い段階であれば言うことはない。
わかりやすい能力とか、馬鹿げた量の魔力みたいな特典も欲しい。知識チートは難しいのだ。僕はそんなに頭がよくない。
そもそも次があるかどうかも不明なんだけど。
とりあえず、今回は終わりと考えてよさそうだ。
意識を保てなくなってきたところだし、短い人生に終止符を打とう。
後悔はないが、納得できない人生だったな。
振り返りながら、ゆっくり目を閉じていく。
最後に見たものは、オークの顔と石――じゃなくて青? これは水か?
「水よ、走れ!」
石が弾き飛ばされる。視界が開けて空が見えた。
「穿て雷! 焼き焦がせ!」
光の筋が刺さり、オークはたじろいだ。
僕を背に、オークと対面する人がいる。その人影には覚えがあった。
2つ年上の次兄、レノワールだ。
「シューノス、無事か!?」
もしかして、助かったのかな?
答えが出る前に限界が来る。
僕は眠気に耐えられず目を閉じた。多くの人の声が膨らんで響いて聞こえる。
そこで僕の意識が飛んだ。
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僕は知らない場所に立っていた。
見上げると、白と黒だけの城がある。ここはその中庭だ。
オークに殴られた草原ではない。リュスタルト家の屋敷でもない。
また転生したなら新しい体を得ているはずだが、僕はまだ5歳児のままだ。
体がそのままだから、異世界転移ってやつだろうか。
おそらく違う。オークに付けられた頭の傷がない。
勇者として召喚されるパターンもなさそうだ。わざわざ死にかけの僕を召喚するとは思えない。
でも、もしトラックに轢かれて致命傷を負った主人公が異世界に召喚されたらどうなるんだろう。転生と転移が同時に発生したらという仮定だ。
召喚された先で『まずい、このままでは折角召喚した勇者様が死んでしまう』って回復魔法を掛けられたりするのかな?
「きっと、そのまま死んで別の世界に転生しちゃうんだろうなぁ」
くだらない妄想に自ら失笑した。
妄想は置いといて、現状を考えよう。
転移系が違うなら、記憶を保持したままでの転生が認められたのかもしれない。つまりこの城には神に相当する存在がいる可能性がある。
女神との邂逅なんてイベントに立ち会えたら、ちょっとばかしテンションが上がる。
もし、泉の精霊よろしく『おまえの欲しいものは何だ』と問われたら『無限に近い魔力』とでも答えておこう。多分この答えなら間違いはない。
ある程度考えがまとまったところで城を見上げる。立派な城だった。
外壁は輝き、草もしっかり刈られている。しっかり手入れがされている証拠だ。
しかし人の気配が全くない。大きな城なら、相応の人数がいて然るべきだろうに。
まさかとは思うが、本当に女神でもいるのだろうか。
警備はいないようだし、とりあえず中に入ってみるかと足を前に出す。
そのとき、後ろから声をかけられた。
「あれ? もしかして新しい人?」
声に誘われ振り向くと、不気味なほどにニコニコと微笑む、青い髪の男がいた。
第一印象は、不審者でしかない。悪く言えば誘拐犯。良く言えば宗教の勧誘みたいな人だった。
「誰?」
「僕の名前はアオ。アオって呼んでねっ」
演技じみた仰々しい口調だった。
筋肉が不足した痩せ型で、不健康という意味で肌が白い。年齢は行っても三十路くらいだろう。
懐から子どもを篭絡させるための飴玉でも出てくるかと思ったが、そんな様子はない。
「ここはどこ?」
僕は自分の名前すら伝えずに、一方的に情報を求めた。
アオはそれを待ってましたとばかりに手を広げる。
「世界と世界の狭間だよ。数多ある異世界の中間点。簡単には説明できないけど、僕たちは黄昏の城と呼んでいる。おめでとう。君はここにアクセスする特権を手に入れた。これは貴重だよ」
「世界と世界の狭間? 異世界の中間? なんだそれ」
「いいからおいで。みんなに紹介するから」
アオは言うだけ言って、城に向かって歩く。
現状を理解できない僕に、無視をするという選択肢はなかった。
仕方がない。今は従っておこう。
不本意ではあるが、アオの後ろに付いて歩いた。
一体ここはどこだろう。その疑問を解消するために。