至らぬ妻なので国へ帰らせて頂きますと、辺境伯夫人は突然ドレスの裾を翻し、客人達の前から消え去った。残された者達の終幕は……
あくまでも異世界の話であり、特定の国をモデルにしているわけではありません。国の在り方、制度も創作です。
話をわかりやすくするために、ここに出てくる四つの国について説明をしておきます。
✱アルドス王国・・・主人公の辺境伯の国。山岳地帯にあり、工業が盛ん
✱バルディン国・・・辺境伯夫人の母国で、アルドス王国の西隣に位置する農業大国
✱チークズ国・・・バルディン国の北部の高原に位地する、遊牧民の国
✱デストルド王国・・・バルディン国の南西に位置する森林地帯にあり、武器産業や工業が盛ん
「遅くなってごめんね。ずいぶんと君達を待たせてしまった」
旅支度をした男が深々と頭を下げた。すると彼の恋人は首を横に振った。そして、
「いいえ。仕方のないことですわ。最後までご自分の目で確かめたかったのでしょう。わかりますわ。そうして結局私達を選んでくれたのでしょう? それで十分ですわ」
と言うと、彼女は聖母のような優しい笑みを浮かべたのだった。
✽✽✽✽✽
二年に及ぶ世界大戦がようやく終了して、寂れかけた領地もようやく賑やかさが戻ってきた。
そして久し振りに開かれた辺境伯のパーティーの中盤で、主催者の妻が、夫と客人達に向かってこう言った。
「皆様にはこれまで色々とご迷惑をおかけしましたことを、心からお詫び申し上げます。
私がいたことで皆様と辺境伯である夫が仲違いしていたことにも気付かず、至らぬ妻で恥じ入るばかりです。
ですから今後は皆様と夫が円滑にお付き合いできますように、今日この時をもって私は身を引かせて頂こうと思います」
夫人は彼らに見事なカーテシーをすると、唖然とする人達を残し、突然ドレスの裾を翻してホールから出て行った。
暫く呆けていた夫がようやく我に返って妻の後を追ったが、妻は玄関前に停めていた馬車に乗り込み、出発するところだった。
男が慌てて妻の名前を呼んだが、それに応えたのはまだ幼い息子と娘で、馬車の中から笑顔で手を振っていた。
夫は急いで妻を追いかけようと執事を呼んだ。そしてすぐに馬車を出せと命じたが、執事は言った。
「主催者がパーティーを抜けるなんてとんでもないことです。
そもそも何故あの方を追いかけるのですか? もう妻でもない方を」
実は辺境伯夫妻の離婚は昨日のうちに成立していた。
何故なら夫が記入した離婚届を愛人から突き付けられた妻が、それに彼女の名を記入して既に役所に提出済みだったからだ。
「どうせお別れになるのなら、もっと早くなされれば良かったのに。
辺境伯ともあろう方が、あんな下位の者達のご機嫌を取るためにこんなパーティーを開かなればならないなんて、なんと情けない。
みんなあの疫病神のような女のせいですよ」
執事の憎々しげな言葉に主は目を剥いた。
「離婚とはなんのことだ!
それに我が妻を疫病神だとか女とか呼ぶとは、お前は気でも触れたのか!」
主の物凄い剣幕に、執事は驚いて後退りした。何故そんなに怒っているんだと。
主もあの奥方を嫌っていたのではなかったのか!
だから他所の女性と浮気をしていたのではないのか!
「旦那様は隣国出身の奥様を嫌っていたのではないのですか?
バルディン国を守るために何故兵を出さねばならぬのだと、ずっと文句を言っておられたではないですか!」
「あれはチークズ国ともっと上手く付き合えば侵略などされなかっただろうと、バルディン国の外交の下手さを嘆いていただけで、妻に文句があったわけじゃない。
そもそも悪いのは勝手に平和条約を破って侵攻したチークズ国だろう」
「しかしバルディン国が国防にもっと力を入れてさえくれれば、連合国の私達が援軍を送らなくて済んだではないですか!」
主の剣幕に一瞬怯んだ執事だったが、あまりにも理不尽な物言いに腹を立ててこう言い返した。
すると、主は信じられない顔をして執事を見た。
「なに馬鹿なことを言っているんだ。農産物を優先的に輸出してくれるならバルディン国の防衛は我々がすると申し出たのは、我が国の方なんだぞ。
そんなことはお前も男爵位があるのだから、知っていて当然のことだろう?」
「なっ、何で我が国がそこまでバルディン国にそんなに下手に出る必要があるんですか!」
執事こそ主の言葉が信じられなくて、声を荒らげた。すると、主は大きなため息をついて両肩をガクンと落とした。
「いくら父が雇ったとはいえ、こんな能無しを執事にしていたとは、私こそが本当に愚かだった。今のお前の言葉で全て理解した」
「どういう意味ですか!」
いくら使用人とはいえ男爵である自分を無能とは何事だ。代々この辺境の地においてこの伯爵家を守ってきた父の願いだったから、王都での就職を蹴って態々戻ってきてやったというのに。
執事は憤懣遣る方無い思いで主を睨みつけた。しかし主はもう執事を窘めることもなく諦めの境地に達したのか、淡々とした調子でこう説明したのだった。
「我が国は地下資源や水資源に恵まれ、工業が盛んな先進的で裕福な国だ。しかし山間部にある国であり、耕作地が少ない。
それ故に食料品の自給率は著しく低く、広い穀倉地帯を所有しているバルディン国からの輸入に全面的に頼っているのが現状だ。
いくら金があっても食べる物がなければ人は生きていけない。つまりバルディン国から兵糧攻めにあったら、我が国など一溜まりもない。
だからバルディン国には戦力を付けて欲しくはなかったのだ。
とはいえ、バルディン国と隣接しているのは我が国だけではない。チークズ国やデストルド王国などとも隣り合っているのだから、彼らとて防衛するためには軍備を整えなければならない。
そこで我が国から提案したのだ。最低限の防衛だけはしてもらいます。ですが、もし侵入されるようなことになれば、我が国が援軍を送り、敵を追い払いましょう。
その代わり、農産物の輸出は我が国を最優先して欲しいと。つまり防衛協定を結んだのだ。
つまり我が国がバルディン国を援護したのは何も人助けなどではない。自国の民を飢え死にさせないためだ。
そしてそもそもその案を国王に出させたのは先代の辺境伯だった父だ。
バルディン国と接している我が領地は、いつも戦時下にいるような状況で、気の休まる時がない。
いくら税金を免除されているとは言え、絶えず兵士を整備しておくには費用がかかる。国の援助が増額されないなら、いっそ隣国側に付くぞと脅したのだ。
国は父の脅しに屈した。そして増額しないで済むならと、この提案をバルディン国にしたのだ。
しかし今思えば国は、いざ援軍を送ることになった時のシミュレーションさえもしていなかったのだろう。
辺境伯の跡取りである私自身が、自らバルディン国の令嬢と婚姻関係を結ぶことで、両国の架け橋になろうとしたというのにだ。
妻はバルディン国の農林大臣の娘だった。彼女も両国のために身を犠牲にしてここへ嫁いで来てくれたのだ。
それなのに娘がこの国の者達に冷遇されて、離縁されて戻ってきた。しかも孫達まで虐めに遭っていたと知ったら、農林大臣閣下や隣国の上層部はどう思われるだろうな?」
主に不満たらたらだった執事も、ようやくここにきて事の重大さを理解して青褪めた。
国の重責を背負う立場の者が公私混同するなんてあってはならないことだ。しかしそれが建前に過ぎないことくらい執事にもわかっていた。
両国の友好のために致し方なく隣国へ嫁がせた娘が、嫁ぎ先で冷遇され、しかも浮気をされた挙げ句に一方的に離縁させられたと知った父親が、この国をよく思うはずがない。
しかもかわいい孫まで理不尽な目に遭ったというのならなおさらだ。
これまで食べ物に不自由などしたことがなかった。市場には多種多様の食材が並び、どこの料理屋でも豊かな食材を使った美味しい食事が提供されていた。
しかしその野菜も肉も果物も、そして主食となる麦を使ったパンや菓子も、そのほとんどがバルディン国からの輸入品だった。
確かに戦時中は輸入量は大幅に減ったが、それでも食べることには困っていなかった。
それがもしこれから全く入ってこなくなったら。
いや、焦ることはない。地下資源や工業製品がある。それを輸出しないと脅せば……
いや、駄目だ。我が国から輸入できなくても替わりの国はある。そう、たとえばデストルド王国。
「あっ!」
ここまで考えてようやく執事は、己のやらかした過ちに気が付いたのだ。自分が主に紹介した女はデストルド王国と繋がりのある者だったと。
「まさか、彼女は……」
「そのまさかだ。今頃彼女はこの国を出て故郷に戻ったことだろう。ここに留まったらスパイ容疑で捕まるのは確実だからな」
「そんな……」
「彼女は逃げられたようだが、君は捕まるんじゃないかな」
「そんな。私は国を裏切ってなどいません」
「そうだよな。君が裏切ったのは私と私の妻だよな」
「私は旦那様を裏切ったわけではありません。貴方のためにやったのです。
奥様のせいで皆に責められて辛そうだった旦那様を彼女に慰めてもらおうとしただけです。
そしてそれに乗った旦那様だって奥様を裏切ったのだから、私と同じでしょう」
執事のその言葉に主は目を細め、口角を上げてこう言った。
「私が愛する妻を裏切るわけがないだろう。彼女は私の大切な妻であり、共に闘う同志だったのだからな。
私があの女と会っていたのは逆にデストルド王国の情報を得るためさ。
油断させるために妻との離縁状を渡したら、彼女は大喜びで最後に色々と喋ってくれたよ。
これで私と妻を離縁させて任務完了できると嬉しかっただろうが、スパイとしてはどうなんだろう?と思ったよ」
「ですが貴方だって失敗したではないですか! 奥様に本当に離縁されてしまったのですから」
「失敗? それはどうかな」
執事の指摘に主は怪しげな顔をしてニヤリと笑ったが、それ以上もう何も言葉を発しなかった。
✽✽✽
辺境伯夫人が離婚して母国バルディン国に帰ってから一年経った。
戦争中でさえ市場には多種多様な農産物が並んでいたというのに、今では売り物がほとんど置いていなかった。
というより、売る物がないのでほとんどの店が閉じていて、そこは既に市場という体をなしていなかった。
それでもここはまだましだろう。何故ならこの辺境の地は、アルドス王国内では希少な割となだらかな土地だったので、主食の麦だけは自給できる程度作っていたからだ。
しかしここがバルディン国と接していて、地理的に一番近い町だというのにこの有様なのだ。他の町や都市部がどうなっているのかは、見ずとも予測がつく。
辺境の地に徐々に流れ者が増えていって、食料を得ようと店や豊かそうな人家を襲うようになった。
町の有力者は毎日のように領主の屋敷にやって来て、あのゴロツキどもをなんとかしろと要求してきた。
しかし領主は決して彼らの前には姿を現さなかった。
そしてそれに毎回対応させられたは執事だった。彼はまだ三十代半ばだというのに、この一年でずいぶんと精気がなくなり酷くやつれていた。
「どうにかしろと言われても、税収入が激減して辺境騎士団の兵士を維持する費用がなくなったので、解散せざるを得なくなったのは皆さんもご存じでしょう。
騎士団がなくなったのだから、皆さんに自衛してもらうしかありません」
「なんだと!」
「そもそも自分達の身は自警団で守れるから騎士団なんて要らない。それに自分達の税金が使われるのはごめんだ。許さないと言っていたのはそちらでしょう?」
「むぐぐ……」
「それにこんな事態を招いたのは、奥様をこの町に居られないようにした皆さんでしょう。自業自得です」
本来は彼ら側の人間だった執事が、こういう台詞を吐かねばならないことはかなり精神的にきつかった。一種の拷問に近いものがあった。
しかし、彼らを追い払わなければクビにする。そしてお前も辺境伯夫人をこの国から追い出した一人だとバラす……と言われたら、その命令を聞くしかなかった。
彼は何も対策を取ろうとしない主に代わって、王都で官僚をしている友人達に助けを求める書簡を何度も送った。しかし戻ってくる返事はみな同じようなものだった。こちらもそれどころではない。むしろ辺境の地の方がマシだろう、と。
王都では毎日『食べ物を寄越せ』と叫ぶ民衆のデモで溢れ返っているのだという。
バルディン国から農産物が入らなくなったのは、バルディン国がチークズ国に侵入された時にすぐに応援に駆けつけなかったからだ。そのせいで戦争が長引く結果になり、彼の国では農地が荒廃してしまって、農産物の収穫量が激減してしまったのだ。
その上、バルディン国が農産物やその加工品の輸出をピタリと止めてしまったせいでもあった。
今まで両国の友好のために尽くしてくれていた辺境伯夫妻を、国や辺境の人々が迫害し、彼らの仲を引き裂くような真似をした。そのせいで夫人は離婚して、子供と共に母国へ戻らざるを得なくなってしまったのだから。
バルディン国出身の夫人を虐めていたということは、バルディン国とは友好な関係を築くつもりがそもそもなかったということの証明だ。
そんなアルドス王国に貴重な食料を融通してくれるわけがないのだ。
多くの国民がこの食料危機の原因が何なのかを知っていた。
他国から恩恵を受けていながら、いつのまにかそのことに対する感謝の気持ちを忘れ、物だけを見て、それらを作ってくれる人々に感謝する気持ちを忘れていた。というか、知ろうとも思っていなかったことに。
だから隣国との条約や、助けて欲しいという隣国からの要請、援軍をすぐに出してくれという辺境伯の訴えを、たとえ国民が知らなかったとしても、彼らは王侯貴族達と同じ穴のムジナなのだ。
あまりにも薄情過ぎた。そして、そのことを自分達の生活が貧窮してからようやく気付いたのだから、全てが遅過ぎた。
どんなに謝罪をされようとも許す気のなかった辺境伯は、誰とも面会しなかったし、一切手紙も受け取らなかった。
大体彼が怒っていたのは妻子のことだけではなかった。
条約に基づきバルディン国への援軍の要請をしたのに、国が一向に動かなかったので、辺境伯は自分の騎士団を率いて援軍に向かった。
後になって国営軍が派遣されてようやく自国へ戻れたが、その時には既に多くの犠牲者を出してしまっていた。みんな優秀で立派な騎士だったのに。
それに辺境伯は、チークズ国やデストルド王国の怪しい動きに気付いていたので、それを自国に逐一報告していた。
しかしアルドス王国はそれをバルディン国に伝えなかったし、彼らも動かなかったのだ。
大戦が始まった後も辺境伯は、戦後食料を奪い合うと予想できるデストルド王国について調べていた。
すると、そのデストルド王国の女スパイが我が領地に入り込んでいたことに気が付いた。彼らもまた同じことを考えていたようだった。
暫く様子を見ようと彼女を泳がせていたら、よりによって辺境伯爵家の執事が、なんとこの女に引っ掛かった。まあ結局、主はありがたくそれを逆に利用させてもらったというわけなのだが。
女から得たデストルド王国の情報は、彼がすぐにバルディン国の農林大臣をしている妻の両親へ報告していた。
女スパイから得た情報から、デストルド王国が大戦に参戦したのは、当然だがバルディン国に恩を売るためだったことがはっきりした。
しかしそれだけでなく、彼らがもっと悪どいことを企んでいたことが判明した。
そもそもチークズ国がバルディン国に侵入したのは、デストルド王国が危機感を煽ったことが原因だったのだ。
このままだとバルディン国がアルドス王国に吸収合併されて、農産物は独占され、チークズ国内には入ってこなくなるぞと。
しかしデストルド王国側に誤算が生じた。防衛協定を結んでいたアルドス王国と同時に反撃すれば、すぐにチークズ国を撃退できると踏んでいたのに、アルドス王国はなかなか動かなかったからだ。
そしてやって来たのはわずかな辺境騎士団だけだった。
二週間経ってアルドス王国はようやく援軍を送ってきたが、時すでに遅し。戦いは長期戦になり、世界大戦と呼ばれるようになった。
そのせいで戦場となったバルディン国は荒廃し、自国で食べる農産物を作るだけで精一杯で、他国へ輸出する余裕などなくなってしまった。
デストルド王国はこの戦争中、武器を三国に売り捌いてかなりの利益を生み出していた。
しかし戦後は農産物の値段が跳ね上がったために、それは当然目減りして行った。
そもそもいくら金があっても、食物が無ければ生きていけないのだから、最初から無意味なことだったのだ。それはアルドス王国と同じだった。
デストルド王国の女スパイは、辺境伯と妻を離婚させるという最重要使命を成し遂げて、意気揚々と仲間と共に、アルドス王国を脱出してバルディン国へ入った。
そしてそこを通り抜けて自国デストルド王国へ帰還しようとした。
ところが、バルディン国に入国した途端、アルドス王国元辺境騎士達に捕縛され、バルディン国の王都へ連行され、そこで全てを吐かされたのだった。
こうしてバルディン国は今回の大戦の真実を知ったのだった。その結果……
「援軍を送ってくれてありがとう。お礼に農作物を他国より優先して輸出しますよ」
戦後まもなくして、デストルド王国はバルディン国からこう言われて歓喜した。
しかし実際に輸入された農産物は目が飛び出るほど高額であった。そのためにそんな農産物を買えるのは高位貴族か裕福な商売人だけで、多くの国民の怒りを買った。
戦争に参加して多くの人命を失くしたその結果がこれかと。
いくら賃金が上がっても、その何倍も物価が上がったのでは意味がないと、労働者は仕事を放棄した。
それによって、大戦景気はあっという間に終息し、坂を転がるように転落して行ったのだった。
✽✽✽
「ミレーヌ、遅くなってごめんね。ずいぶんと君達を待たせてしまった」
旅支度をした男が深々と頭を下げた。すると女は首を横に振った。そして、
「いいえ。仕方のないことですわ。最後までご自分の目で祖国の行く末を確かめたかったのでしょう。わかりますわ。
貴方は私達が何よりも大切だと言って下さいました。だから私も子供達も貴方が来て下さると信じていました。
そしてこうして私達を選んで下さったんですもの。それだけでもう十分ですわ、リーバス」
「みんな変わりはないか?」
「ええ、子供達も辺境騎士団、いいえ、今はバルディン国警備隊の皆様やそのご家族の方々も、すっかりここに慣れて元気にしてらっしゃいますわ」
「子供達はよそ者だとか、アルドス人だと言って虐められてはいないかい?」
「あら、虐められるわけありませんわ。この国を救ってくれた英雄の子供だと、むしろチヤホヤされていい気になるんじゃないかと、母親達は皆心配しているくらいです」
「英雄?」
「ええ。貴方と辺境騎士団の皆様だけが、唯一自国の欲ではなく、純粋に防衛条約を守って助けに来てくれたと、国家元首様が国民に向かって仰ったのですよ。
まあ、それ以上のことは仰いませんでしたが、国民は皆それだけで真実を悟ったんです」
「そうか……」
男はホッとしたように息を吐いた。
一年前、アルドス王国の辺境伯だったリーバスの妻ミレーヌは、偽装離婚した後で自分の子供二人と馬車で屋敷を出た。
そしてその後で、既に解雇されていた元辺境騎士団とその家族をお供の者達だと称して、皆でバルディン国へ向かった。
離婚をしなければ、ミレーヌは子供達とアルドス王国から出られなかったからだ。
そして妻が言った通り、そこで彼女達一行は大歓迎されたのだ。
もちろん国民が彼らを真の恩人だと感謝していたこともあったのだが、バルディン国としては国の復興のために、どうしても彼らの助けを必要としていたという背景もあった。
終戦後、バルディン国は敗戦国となったチークズ国を併合した。
チークズ国は元々遊牧民の国で、牧畜業が主な産業だった。そこで、そこを酪農を中心としたブロックにすることに決めた。そしてそれとともに国の防衛基地並びに養成施設を整備することにした。
実現したら、辺境騎士団(今はバルディン国警備隊)の面々は、そこの責任者及び指導者になる予定なのだ。
今回元辺境伯と共にやって来た、居残り組だった元辺境騎士の若者達も、本人が希望すればそこへ配属されることだろう。
やはり今回の大戦で、平和は他国任せではいけないとバルディン国も悟ったのだ。
もちろん、軍を強くして他国と戦争をしようというわけではない。
しかしあの国なら簡単に攻められる、思い通りになると思われたら、その時点で負けだという現実を、国も民衆も身に沁みてわかったのだ。
そしてこの地は名馬の産地として有名だ。そもそもチークズ国は見事な騎兵隊によって攻め入って来たのだから。
ならばこの地を軍事拠点にすればいいと、リーバスが元部下の辺境騎士を通して提案したのだった。
「僕のせいで君には辛い思いばかりさせてしまった。本当にごめんね。
僕が君を選んだりしなかったら、君は異国の地であんなに苦労することはなかったのに……」
「あらいやだ。私は貴方に選ばれたんじゃなくて、私が貴方を選んだのよ。だって貴方、とっても素敵だったんだもの」
「君も素敵だった。目をキラキラさせて僕の話を聞いてくれて。それに飛び切りの美人だったし。ひと目惚れだったんだ」
「まあ、それじゃ私と同じだわ。そのことに十年経ってようやく気付くだなんて、私達ってのんき者の似た者夫婦ね。おかしいわね。
でも最初は本当に政略結婚だと思っていたのよ。
まあ一年後には、貴方が私を愛してくれているって確信していたから、そんなことはもうどうでもいいと思っていたけれど」
「それも同じだ。一生懸命僕の国のことを知ろう、馴染もうとしていた君の姿勢にとても感謝していたし、凄いと思っていた」
「貴方だって、私の故郷の話を楽しそうに聞いてくれて嬉しかったわ。私の国の文化も良いところはちゃんと取り入れてくれたしね。
でも、屋敷の使用人や領地の人達は違ったわ」
「奴らは戦争が始まってから掌返ししたのかと思っていたんだが、それ以前からだったのか? 気付かなかった。今更だけど本当にごめん」
「戦争前は特別嫌がらせをされていたというわけじゃなかったから、貴方が気付かなかったとしても仕方ないわ。彼らも意識的に冷たくしたわけじゃないと思うの。
外国人。しかも平民の女が辺境伯夫人だなんて身分違い、不釣り合いだと無意識に思ったのでしょう。あの執事以外はね」
「バルディン国は共和制でそもそも王侯貴族が存在しないというのに、何故それが理解できなかったんだろうね。
それに、元をたどれば君の家は侯爵家だった。そんな名家だったからこそこの縁談が持ち上がったのに、辺境伯の使用人がそんなこともわからなかったなんて。
やはり母が早く亡くなって、正式に家政を預かる者がいなかったせいなのかな。
そもそも父上はなんであんな奴を執事にしたんだろう。いくら代々うちの執事の家系だったとしても、人には適材適所ってもんがあるだろう。奥様を蔑ろにして、主に愛人を持たせようとする執事なんて信じられない」
「なかなか人の本質まではわからないということでしょう。学生時代の成績は上位だったと本人は言っていましたし。
でもまあ、彼のおかげで貴方の作戦が成功したのだから良かったとしましょうよ。
それはそうと、長旅で疲れたでしょう。子供達が学校から戻ってくるまでにはまだ時間がありますから、一眠りして下さいな」
ミレーヌはリーバスに、客室のベッドで休むようにと勧めた。しかし彼は頭を振った。
「僕はね、客室ではなくて夫婦の寝室で君と眠りたいんだ。
だからそのために、これから役所へ行って、結婚するための用紙をもらってくるつもりなんだよ」
「ずいぶんとせっかちなのね。私は貴方と恋人としての時間を楽しみたいわ。
だって、前は顔合わせの後ですぐに離れ離れになって、結婚式まで手紙のやり取りだけだったでしょう?
まあ、その手紙のおかげでお互いをわかりあえたのだから、それも決して悪くはなかったけれど」
ミレーヌはリーバスの首に両手を回して抱き付きながらそう言った。するとリーバスも蕩けるような笑みを浮かべて、彼女の額に優しく口付けを落とした。しかしこう言ったのだった。
「もちろん僕もできればそうしたい。だけど、世の中何が起こるかわからないからね。だから今すぐに君と夫婦に戻りたいんだ。
君と離れていたこの一年、君を誰かに取られはしないかと、不安で不安で仕方なかったんだよ。
お願いだから、もう僕を安心させて……」
すると、
「わかったわ、仕方ないわね」
ミレーヌは一旦リーバスから離れると、ライティングデスクの引き出しの中から、一枚の紙を取り出して、リーバスに手渡した。
それはバルディン国の結婚届の用紙で、そこにはすでに彼女の名前が記入されていた。
リーバスは満面の笑みを浮かべ、すぐさまその用紙に自分の名前を書き入れた。そしてその後いそいそと二人で役所へと向かった。
その結果二人はまた夫婦となった。そして一年振りに二人揃って、子供達を迎えることができたのだった。
終戦から五年が経った。
アルドス王国とデストルド王国はチークズ国同様に、バルディン国に完全に取り込まれていた。
両国とも王侯貴族制度は廃止され、身分はなくなり皆平民になった。
そしてそれぞれアルドス領、デストルド領、チークズ領と名前が改められた。
どちらの領地でも、バルディン国の一部になってからの方が人々の暮らしが良くなった。次々と新しい政策が打ち出されて、それが見事に成功したからだ。
そして、もう食料の心配をする必要がなくなったことが、人々にとっては何より嬉しかった。もちろんそれは贅沢を言わなければ……の話だったが。
それ故、どうせなら忌々しい昔の国の名前を変えて欲しいと、三つの領地の領民達から声が上がったのだが、バルディン国の国家元首は決してそれを認めなかった。
過ちを犯した記憶を消してしまうと、人はまた同じ過ちを繰り返してしまうからと言って。
そしてこの日、アルドス領の新しい領都に定められたかつての辺境の地に、初めての領主夫妻が着任した。
二人ともまだ三十代半ばくらいで、妻はとても綺麗なご婦人で、夫もまるで騎士のような立派な体躯をした美丈夫だった。そして彼らは二人によく似た愛らしい息子と娘を連れていた。
そんな領主一家を見た領民達は、皆一様に絶句した。
何故ならその領主は、四年ほど前に忽然と姿を消した元辺境伯であり、彼に寄り添っていた領主夫人と子供達は、五年前に自分達が追い出した元辺境伯夫人とご子息、ご息女だったからだ。
そしてこの時、かつて辺境伯家の執事だった男は、もうこの地に自分の居る場所はない、そう悟って項垂れたのだった。