ハーデルの決意
本当ならセンベルと、このまま結婚したい。しかし、それはできない。何故なら、本来の婚約者、行方不明だったセンベルの兄・フロノス皇太子が、ノウム国から凱旋帰国を果たしたからだ。ハーデルは鏡に映った自分の、蒼白の顔を見つめなおした。それは皇太子がオリヘン国の正規軍を引き連れ、シグロ討伐に遠征してから、十四年後の出来事だった。
ハーデルの家には、思い人の祭壇、という部屋があった。未婚の者が中に入り、奥の祭壇を見つめると、その者の将来の結婚相手が見えるというものだ。ハーデルは6歳でフロノスの許嫁となったため、そこにフロノスの面影が浮かぶのを当たり前のものとして受け入れていた。ところが、フロノスがシグロで行方不明になり、そこから十年の歳月が流れると、祭壇は光を失った。
「フロノス様はもう、この世にいないのかもしれない。でも、私には、フロノス様を待ち続けることしかできない」
十代に入ると、皇太子の許嫁、将来のオリヘン国王妃として、王宮から侍女なども派遣され、王室行事への参加も義務付けられたハーデルだったが、ハーデル十五歳、フロノス十九歳の時から生き別れとなり、フロノスの生死不明のまま、年月だけが過ぎていく中で、ハーデルが成しえたのは、心を閉ざすことだけだった。ハーデルが時々絶望に打ちひしがれながらも、自らの運命を受け入れようともがいている時、意外にも、彼女の前に現れたのが、フロノスの弟・センベルだった。
「シグロ公国が崩壊し、友好国ノウムになっても、兄の行方は分からない。だから僕が国王になって、君を王妃として迎えたい」
精悍な兄と比べると、目立たない弟・センベルだったが、彼も三十歳を迎えると、それなりの風格を表すようになった。それどころか、彼は熱心な平和主義者で、国内の多数派の反対を抑え、王宮軍の削減を進めるなど、自らの政策を進めようとする強引さも持ち合わせていた。センベルの王位継承が、まさにタイミングを計るだけに至った時、突然、飛び込んできたのが、フロノス皇太子ノウム国からの凱旋帰国の一報だった。
フロノスが王宮に戻ると、翌日には使者が訪れた。
「一日も早く、婚儀の打ち合わせがしたい」
ハーデルがセンベルからの連絡を待ったが、それはなかった。時間は刻々とすぎていく。私はどうすればいいんだ。ハーデルが、思い人の祭壇に入ると、そこに見えたのは、フロノスではなくセンベルのような気がした。
周囲が騒ぎはじめた。
「あなたは王妃になるのよ。あなたが王妃になれば、以前の敗戦で名誉をはく奪された、あなたの兄・マーディの名誉回復も成し遂げられる。一族のためにも王妃になって」
と母親が言うと、
「センベルは平和主義というより、臆病者だな。強いフロノスが王になってこそ、オリヘンの未来は明るい。早くフロノスに嫁ぎなさい」
と父親も語った。
その夜のことだ。突然、ハーデルの部屋の窓の外に、センベルが現れた。彼は壁をよじ登り、2階にあるハーデルの部屋のバルコニーに滑り込んだ。ハーデルが慌てて、窓を開けると、
「ハーデル、連絡できなくて、ごめん。残念だけど、僕は、この国を去ることにした。曲がったことが嫌いで、優しかった兄だったけど、長い牢獄生活の間に変わってしまい、このままだと、僕は殺されてしまうみたいなんだ」
「そ、そんな……」
ハーデルがセンベルの手をすがるように握ると、
「でも、大丈夫さ。兄は君のことは忘れてないみたいだから。……どうか君には、兄の力になってほしい」
センベルはそう言うと、涙でいっぱいの笑顔を見せた。
私は決めた。ハーベルは握ったセンベルの手を離さなかった。
「私も一緒に行く。私はあなたと離れない」
センベルはハーベルの目線を外し、絞り出すように言った。
「もし、君がいなくなったら、フロノスは大規模な捜索隊を組織するよ。君に、そんな苦労をかけられないよ」
ハーベルは笑った。
「私はもう、死んだように生きるのは嫌。思いのまま、生きたいの。さあ、一緒に行きましょう」
2人の逃避行が始まった。