DV彼氏 ―女子プロレスラー転生―
「おーい、メシまだかよ?」
背後から男の声がして、知世はコンロで鍋を振りながら答えた。
「ごめん、もうすぐ」
肉野菜炒めを皿に取り分け、ジャーからご飯をお椀によそい、お盆にのせて急いで持っていく。
八畳ほどの広さの1DK、奥にベッド、右の壁に寄せてテレビと小さな本棚がある簡素な部屋だった。
フローリングの床にはちゃぶ台が置かれ、スウェット姿の茶髪の若い男があぐらをかいていた。
「おせえーんだよ」
拓也は文句を言いながら箸を手にとり、不機嫌そうにオカズとご飯を頬張る。お茶、という声がして、知世がペットボトルからグラスに注ぐ。
「今日、面接どうだったんだ?」
麦茶を呷ると、拓也が訊ねた。
「うん、いきなりお客をとらされた」
「マジかよ」
拓也の顔色が変わる。実入りのいい風俗で働け、と勧めたのは拓也だ。多少は心配してくれたのだろうか。
「ちゃんと給料はもらえよ。初日を研修つって払わない店もあるからな」
拓也は金に細かい。毎晩、知世にその日のレシートを出させ、細かくチェックする。少しでも無駄な物を買ったら怒る。
「客はどんなやつだったんだ?」
「ちょっと変わった人。ずっと目を合わせてくれなかった」
「たまんねえな、キモヲタ野郎は」
拓也はすぐに他人を見下す。「ホモは人間じゃない」「ガキを生まないレズは死ね」とよく言っていた。友達にその話をしたら「人権感覚がキハクなんだね」と言っていた。
夕食を食べ終わった拓也はテレビの前に寝転び、リモコンでチャンネルを変えた。近くにいた知世の腰を引き寄せ、膝の上に頭をのせる。
「俺、知世がいないと生きていけないから」
太腿に顔を埋め、急にそんなことを言う。
「わかってるよ」
子供のようにすがりつく拓也の髪の毛を優しくあやしてやる。
「俺、おまえと別れたら自殺する」
「別れないよ」
拓也は二言目には「自殺する」と言う。実際、衝動的によく手首を切る。ただし傷はいつも浅い。本当に自殺する人間は、自殺するなんて言う前に深く手首を抉るらしい。
「どこにも行かないでくれ」
「ずっとそばにいるよ」
頭を撫でると、拓也は「ともよー」と腰にすがりついてきた。カーペットに押し倒され、セーターを胸の上に捲られる。
スウェットのズボンを下ろそうとする拓也の手をつかむ。
「ごめん……アレみたい」
今日はそんな気分にならない。ヘルスの初出勤の疲れが残っていた。
あからさまに不機嫌そうな顔で拓也が身体を起こす。
「おめーよ、男はたまりやすいから、いつでもできるよう準備しとけって言ってんだろ。何度言えばわかんだよ」
頭を手ではたかれ、知世は「ごめんなさい」と謝った。とりあえずそう言う癖がついていた。
拓也はちゃぶ台のライターに手を伸ばした。カチカチと音が鳴る。火がつかず、くそっ、と壁にライターを投げつける。
それをぼんやり見ていた知世を怒鳴りつける。
「とってこいよ」
知世はテレビの前に落ちていたライターを持っていった。受け取るなり拓也はそれを知世の顔に投げつけた。
赤く腫れたおでこを知世が押さえる。
「……顔を傷つけるのはやめて」
「んだと?」
怒気をはらんだ声で拓也が睨みつける。
「風俗で働けなくなります」
むくりと拓也が立ち上がり、知世の脇腹をいきなり蹴った。お腹を抱えて知世はうずくまる。足の裏の汚れをこそぎ落とすように、グリグリと背中を踏みつける。
「やめて、拓也」
頭を守りながら腕の隙間から見上げる。暴力をふるうときの拓也は、いつも奇妙に表情のない顔をしている。
ひたすら嵐が過ぎ去るのを待つ。ようやく理不尽な攻撃がおさまった。拓也が膝をつき、知世の頬に手を伸ばす。
「ごめんな、知世。でも俺を怒らせるおまえが悪いんだぞ」
背中からそっと抱きしめられる。
「結婚しよ、知世。俺、おまえを幸せにする」
暴力を振るった直後に求婚する異常さに本人は気づいていない。知世は黙って男の手に自身の手を重ねた。
「俺、介護の仕事やっから。資格とるために勉強するよ」
部屋の隅には介護関係の通信教育のテキストが山積みになっていた。
昔は起業をしたいと言っていた。そんな拓也の夢を応援していたときもあった。それが努力もしていない夢だとわかるのにたいして時間はかからなかった。
「子供を作ろうぜ。俺、家族を一生、養っていくから」
うん、と知世はうなずいた。
「ありがとう」
機嫌が良くなった拓也は急に話題を変えた。
「な、犬飼わね? ホームセンターにいたプードルがすっげえ可愛いんだよ」
「無理だよ。このアパート、ペット飼育禁止じゃん」
「犬がいたら楽しいぜ。な、いいだろ?」
そして気に入らなくなったら捨てるのだ。以前、飼っていた猫もベッドに粗相をした翌日、知世が仕事から帰宅すると消えていた。
拓也は無邪気に「今度ホームセンターに見に行こうぜ」と言い、またテレビの前の横たわる。
「そうだ、また金貸してくんねーかな」
背中を向けたまま言った。
「いくら?」
「3万」
「わかった。あとで出しておくね」
アパートの家賃や光熱費は言うに及ばず、通信教育の教材費から普段のパチンコ代まですべて知世が払っていた。
テレビを見ながら拓也は寝てしまった。体に毛布をかけてやると、天井の灯りを消し、知世は薄暗い部屋で膝を抱えるように座った。
ぼんやりテレビを見る知世の脳裏に記憶がよみがえる。
高校を卒業間近に控える頃、進路を巡って親と喧嘩し、家出同然に故郷を飛び出し、東京にやってきた。
「俺、拓也ってんだけど、君は?」
新宿を歩いているときに声をかけられた。
スカウトやナンパはいっさい無視していた。足を止めたのは先に名前を名乗ったからだ。それだけでイイ人だと思ってしまった。
家がなかったので、その夜、拓也の部屋に転がり込んだ。セックスしたとたん「おまえ」と呼ばれるようになった。
こうして二人は付き合い始めた。一日に何十通とメールが届き、携帯の着信履歴が一時間に三十回を越えたこともある。
若い知世は、それを愛だと思った。束縛されるのが嬉しかった。
拓也は口癖のように「別れたら自殺する」と言った。私のことをそんなに愛しているのか、と感激した。
知世がコールセンターの職を得てアパートを借りると、拓也は自分の部屋を解約し、知世の家に転がり込んできた。
やがて勤めていた不動産屋も辞め、日がな一日パチンコ店に入り浸るようになった。
以前、心配した実家の姉が東京に様子を見に来た。アザだらけの知世の顔を見て、姉は「家に帰ろう」と言った。
数日後、姉から電話があった。拓也から「殺すぞ」と脅迫されたらしい。知世のスマホの着信履歴で姉の連絡先を知ったのだろう。
知世の顔を腫れるほど殴った後、拓也は涙ながらに訴えた。
「お前の家族は人間のクズだ。姉貴はおまえを俺にとられて嫉妬してるんだよ。知世、お前の味方は俺だけだ。おまえの幸せを真剣に考えてるのは俺だけなんだ。なんでそれがわからないんだ?」
毎日、繰り返しそう吹き込まれると、そうなのかと思うようになった。
知世は床に横たわった。フローリングの冷たさで生傷だらけの体を冷やしながら、薄闇の中、冷蔵庫のジィーという音が聞いた。
◇
その日、知世と拓也はラーメン店のカウンターにいた。
拓也が連れていってくれた。知世はもうすぐ21歳の誕生日だった。それを祝ってくれたのかと思ったが、単にパチンコで勝って機嫌がいいだけだった。
「はい、チャーシュー麵おまち」
店員がカウンターにどんぶりを二つ置く。
「あの、フォークを貸してもらえますか?」
知世が店員に頼んだ。
知世を殴ろうとして柱にぶつけ、拓也は右手を突き指していた。本人はおかげでツキが降ってきたと喜んでいたが、箸を使いづらくなっていた。
店員がどうぞ、とフォークを差し出すと、拓也が苦笑いをした。
「ああ、大丈夫ですよ」
「拓也、手を怪我してるんでしょ。フォークを使った方が楽だよ」
「箸ぐらい使えるって」
かたくなにフォークを受け取ろうとしないので、知世は、すいません、と店員に謝って下げてもらった。
それから拓也はずっと無言だった。何を話しかけても答えず、無言で麵をズルズルと啜り続けた。
「ありがとうございましたー」
店員に送り出されて二人は店の外に出た。
「なんでずっと黙ってるのよー」
「ちょっとこい」
近くの雑居ビルの物陰に連れて行かれた。
「もうなんなのよー」
知世がそう言った瞬間、目の前に火花が散った。顔を殴られた衝撃でよろめき、壁に背中があたる。
「俺に恥をかかせるなつってんだろ」
鼻から生ぬるいものがこぼれ、血がポタポタ落ちる。
フォークだ。赤ちゃんに前掛けを頼んだように、みんなの前で子供扱いをされたと感じたのだろう。
「ごめんなさい」
「うっせえ、バカ女」
壁に頭をゴツンと押し当てられ、知世は地面にうずくまった。拓也は近くにあった自転車を持ち上げた。
「死ね、クソ女」
金属の塊が頭に打ち下ろされ、知世は意識を失った。
◇
まぶたがゆっくりと持ち上がった。ただし目を覚ましたのは知世ではない。女子プロレスラーのリリー木村である。
リリー木村(あくまでリングネーム。ハーフではなく栃木県生まれ)は、のろのろと上半身を起こし、辺りを見回した。
湖面のような空間が果てしなく広がり、自分のいる場所だけがぼんやりと光に浮かび上がっていた。
「お目覚めですか?」
そばに体に白い布を巻いた金髪の若い男が立っていた。周囲は深い森のような静寂に包まれている。
「えーと……」
リリー木村がこめかみに手をあてると、金髪男が手で制した。
「私はあなたの世界で言うところの〝神〟が近いかと思います。ちなみにここはあの世とこの世の狭間です。女子プロレスラーのあなたは試合中の事故がもとでお亡くなりになりました」
「あー、そうだった、そうだった」
たしかリング下に頭から落下した。プロレスラーをやっていれば怪我は日常茶飯事だ。特に自分は悪役なので、危険と隣り合わせだった。
「単刀直入にお伝えします。あなたには、これからある女性の身体に入ってもらいます。49日間、一度も暴力を振るわなければ、人生をやり直すチャンスを差し上げましょう」
リリー木村が難しい顔で眉を寄せる。死んだのに、なんでそんな面倒なことをしなきゃならんのだ、という顔だ。
「あなたは少女の頃はレディースのヘッドとして暴力に明け暮れ、プロレスラーになってからは最凶最悪のヒールとして、極悪非道の限りを尽くしましたよね?」
「ヒールは会社から振られたキャラだよ。仕事でやってんの。あんた、プロレス見たことないの?」
リリーの愚痴を無視して金髪男は続ける。
「転生前に暴力衝動を抑えられるかテストさせてもらいます」
「できなかったら?」
「あなたの魂はここで消滅します。転生はありません」
なるほど、とリリー木村はうなずいた。わかりやすい。
「では、さっそく行ってください。いさかいと暴力のない平穏な49日間をあなたが送れることを願っています」
金髪男が静かに手を合わせ、リリー木村の意識は再び闇に包まれた。
◇
「ありがとー、また来てくれたんだねー」
ファッションヘルス店の待合室、ジーパンにポロシャツ姿の若い男性客に知世は笑顔を向けた。
知世とリリー木村が入れ替わって一ヶ月近くが経っていた。目が覚めたらいきなり病院のベッドで戸惑ったが、徐々に状況を呑み込んだ。
(彼氏にDVをされてる女ってことか……男に殴られっぱなしなんて、あたしのガラじゃないけど……ま、しゃーない)
じっとしてるのは性に合わないので、怪我が癒えると、知世が在籍していた風俗店にヘルス嬢と出勤するようにした(現実問題、彼氏がヒモなので稼がなくてはならない)。
(まあ、風俗嬢ってのもどうかと思ったけど、ソープと違って、ヘルスは適当に手や股でしごいてやりゃ終わるからね……)
手を引いて個室に入るなり、客の青年が言った。
「あの……ユリさん、どうかしたんですか?」
頬の青アザを心配そうに覗き込む。
ちなみに知世の店での源氏名はユリだった。自分のリングネームはリリー木村だったので何かの縁を感じないでもない。
「はは、それがちょっと転んじゃって……」
同居する彼氏にDVを受けているとは言えない。拓也からの暴力は続いていた。いつも生傷が絶えない。
(あんのクソ野郎、女の顔を殴りやがって……)
リリーはひたすら我慢していた。なにせ49日間を耐え抜けば、自分にはバラ色の人生が待っているのだ。
(金持ちの家の美女に転生させてもらおう……いや、女じゃなくて男に生まれ変わるのも悪くないな……もちろんイケメンの金持ちで……)
妄想を膨らます知世(中身はリリー)に客の青年が言った。
「怪我をしてるなら今日はサービスはいいですよ」
「そういうわけにはいかないよ」
だが若者は話をしたいと譲らないので、二人はベッドに並んで腰を下ろした。
「あんた、医者の卵なんだっけ?」
リリーが訊ねると、青年がはい、とうなずく。
「今度三年生になりました」
知世は21歳だから、ほぼ同い年ということになる。
(中身がこんなおばさんだとわかったら幻滅するだろうなあ……なんか若い二人に悪いねえ……)
ちなみにリリー木村は享年36歳。リング一筋で独身だった。
「医者ってモテんでしょ?」
「卒業が間近になってくると、お医者さんが現実的に見えてくるのでモテるみたいです。僕みたいな三年生は相手にもされませんよ」
こいつ、顔立ちは悪くない。だが本人いわく、ずっと私立の男子校で、医者の親から医学部に入れと言われ続け、勉強ばかりしてきたらしい。
(たしかに隠しきれない陰キャ臭があるけど……)
こうしておしゃべりだけで90分が終わった。さすがに申し訳ないので知世は店の外まで見送りに行った。
「あの、ちょっといいですか?」
青年が担いでいた大きな黒いデイパックを地面に置き、中から花束を取りだした。
「店の中で渡したら怒られるかと思って……ユリさん、このまえ誕生日でしたよね?」
源氏名のユリにかけて白い百合の花だった。
受け取った花束をじっと見つめた知世は、ちょっと来て、と手を引いてビルの物陰に連れていき、男の頭を抱き寄せ、キスをした。
青年は驚いたように知世を見返す。
「お店の人にはナイショね」
唇に指を立てながら、内心で苦笑いをする。
(まあ、このぐらいはいいんじゃない? 90分、何もサービスをしてないわけだしね……)
そのときだった。別の方向に不穏な殺気を感じた(これはレスラー時代の野生の勘だ)。
表通りに拓也が立っていた。怒りの形相で迫ると、知世の頭髪を鷲づかみにして、首がもげるかと思うような強烈な平手打ちをされた。
「ユリさん!」
割って入った青年の背中を拓也が蹴り、二人は重なるように倒れた。
なんでここに拓也が? とは思ったが、それよりも今は言うことがあった。
「やめて! この人、私のお客さんなの」
「てめえ、客とデキてたのかよ」
怒り狂った拓也がサッカーボールのように知世の体を蹴りまくる。とっさに青年が知世の体に覆い被さった。
「おらっ、死ね。仲良く死ねって」
わめきながら今度は青年の身体をめった蹴りにする。顔を苦しげに歪めながら、客の男は知世の身体を守り続けようとする。
不意に過去の記憶がよみがえった。
女子プロレスラーとしてリングに上がっていた頃、相手のバックドロップを喰らい、マウントポジションで顔をボコボコに殴られた。
彼女は悪役だったから、試合中は罵声やブーイングしか浴びない。むしろリリー木村がやられると客は喜ぶ。だが、朦朧とする意識の中、その声は聞こえた。
「リリー負けるなぁ!」
小さな男の子がリングサイドで声をからしていた。
それがたった一人でも、自分を応援してくれるファンがいる限り全力で戦う――それがプロレスラーだ。
ちっ、と知世は舌打ちをして、ぐったりと自分にもたれかかる青年の身体を横にどかした。即座に拓也が上からのしかかり、知世の顔を殴った。
(一発はあえて殴らせる……これは相手を呼び込むエサ……)
M字に開いていた膝を知世は跳ね上げた。カマのように鋭く曲げた足を、拓也の首の後ろへ巻き付かせる。
右腕を引き込むと、男の体が前に泳いだ。その瞬間をのがさず、すばやく両足を交差させ、後頭部に回した手を引きつける。
三角絞め――格闘技の寝技で使用される絞め技で、英語ではトライアングルチョーク。本来、不利なはずの仰向けの体勢から、上からのしかかってくる相手を一瞬で絞め落とす関節技である。
「ぐっ……」
拓也がうめく。知世は両足をしっかりホールドしたまま、まるで蛇が獲物を絞め殺すようにじわじわと男の頭を押し続ける。
やがて拓也の体から力が抜けた。足をほどくと、意識を失った肉体がゆっくり覆い被さってくる。
折り重なったまま、知世は荒い息をついた。のろのろと身体を起こし、隣で倒れている客の青年の首筋に手をあてた。大丈夫。意識を失っているだけだ。
格闘で服の袖ぐりが破れ、右の二の腕に黒い鬼百合のタトゥー――前世のリリー木村のトレードマーク――がのぞいていた。
知世はすうっと穴に落ちるように意識を失い、膝から崩れ落ちた。
◇
「もう少しだったのに……やってしまいましたね」
神を名乗る金髪男が残念そうに言った。
「しゃーないよ。ボコボコに殴られると、逆にレスラーの本能が目覚めちまうのさ。ところで、あたしの魂が消滅したら知世はどうなるんだい?」
「一ヶ月近く彼女は眠っていた状態でした。あなたがいなくなれば自分の身体に戻ってきます」
そうかい、とリリーは言った。それだけが心配だった。
「じゃあ、さっさとやっておくれ」
どかっと床にあぐらをかいた。後悔はない。いや、あるか――
(イケメンと付き合って、同棲とかしてみたかったな……)
いや、と顔に苦い笑みを浮かべる。
(彼氏はもうこりごりだ……あたしにはやっぱりリングが似合ってるよ……)
そのとき、ふと思い出したように言った。
「あの……神様、だっけ? 魂が消滅する前にちょっとお願いがあるんだけど――」
◇
目を覚ました知世は動揺していた。
辺りに二人の男が倒れていた。一人は彼氏の拓也だ。もう一人は……顔に見覚えがある。勤めている風俗店の常連客の青年だ。
(どうなってるの?……)
何がなんだかわからない。店の近くの路地裏で、自分の知っている二人の男が意識を失っていた。
客の青年がうめき、肩が動いた。
「大丈夫?」
背中を支え、体を起こすのを手伝ってやる。
目を覚ました青年が事情を説明してくれた。店の外に知世が見送りに出ると、拓也が現われ、突然殴りかかってきたのだという。
知世が倒れている拓也のもとへ行った。
「拓也、しっかりして!」
心配そうに恋人に声を掛ける知世に客の青年が言った。
「その男を助けて、また殴られる生活に戻るんですか?」
知世の顔に戸惑いが浮かぶ。
リリー木村が神様に頼んだ最後のお願い――それは意識を失った青年の体に、少しの間だけ入れ替わらせてもらうことだった。
「ユリさんは彼氏が自立できない方が本当はうれしいんでしょ? その人が勤めていた不動産屋を辞めろってけしかけたのもユリさんですよね? パチンコ代を渡していたのは復職させないためですか?」
知世は驚いたように青年の顔を見つめる。
「拓也さんがダメ男でいてくれた方が本当はうれしいんじゃないんですか? この人は自分がいなくちゃ生きていけない、そう思いたいから」
「ちがう――」
「いいかげん誰かに依存するのはやめな。でないと、あんたも拓也も、二人ともダメになっちまうよ」
もうリリーは青年のフリをするのはやめ、自分の言葉で語りかけていた。
伝えるべきことは伝えた。もう思い残すことはない。何よりも神様から許された二度目の入れ替わりの時間は数分だけだった。
「殴られるばっかじゃなくて、たまには殴ってみな。気持ちいいぜ」
親指を突き立てた瞬間、青年が膝から崩れ落ち、今度こそリリー木村の魂は消滅した。
◇
知世は新しいアパートで段ボールの荷ほどきをしていた。
拓也とは別れた。もう終わりにしたいと言ったら「死ぬ」だの「自殺する」だのとさんざん騒いだ。
手をあげられそうになった瞬間、反射的に殴り返すと、クロスカウンター気味に右ストレートが相手の顔面にモロに入り、拓也は腰からへなへなと落ちた。
逃げるように拓也がパチンコに行った後、私物を運び出し、不動産屋に解約を通知して、部屋を引き払った。
ファッションヘルス店も辞め、以前勤めていたコールセンターに復職した。
ノックの音がしてドアが開いた。大学生ぐらいの青年が手に白いレジ袋を持っている。
「コンビニで飲み物を買ってきました。あ、引っ越し蕎麦も」
ファッションヘルス店で常連だった客の大学生だ。夜逃げを手伝ってくれた。別に付き合ってるわけではないが、いろいろと世話を焼いてくれる。
「ありがとー。あ、お金を出すよ」
そばにあった財布に手を伸ばす。
「いいですよ。引っ越し祝いなんですから」
「そういうわけにはいかないよ」
割り勘分の代金を受け取った青年が、床に積まれた本に目を向ける。
「介護士を目指すんですか?」
拓也が申し込んで、手つかずで放置していた教材だ。夜逃げをするとき、前のアパートから持ってきた。
「うん、ちょっと興味があって。私、人の世話をするのが嫌いじゃないみたいだから」
知世は照れたように笑った。あんなDV男の世話ができたのだ。殴られることを考えれば、高齢者の介護もがんばれる気がする。
これから私の人生が始まる――
(完)
女子プロレスラー・リリー木村が登場する短編は他に……
「女子プロレスラー転生」
「ママ友いじめ ―女子プロレスラー転生―」
……があります。
R.I.P
Hana Kimura