煩悩とともに生きる
よく「煩悩を捨てろ」というが、本当だろうか?
仏教の個人的な最終目的は迷いを捨てることである。迷いと何から来るのか。無知でる。よく知らないから、迷いが出る。
さて、なぜ無知と煩悩がつながってしまったのか。
煩悩は悪である。仏教でいうところのは悪は悟りを邪魔するものを指す。煩悩は言い換えれば我欲である。我欲は視野を狭める。つまりは、視野を広げるには我欲つまり執着心を捨てろというのである。
しかし、煩悩とは人が生まれながらにして持つ欲である。それを捨てることができるだろうか?
これは、2つの言葉が混じったと思われる。
「欲望を捨てる」と「煩悩を消す」である。本来、煩悩は捨てるものではなく、消すものであった。消すとは、無くすことではなく、切り離すことである。煩悩にとらわれているから真実が見えないというのである。
煩悩自体は罪ではあるが、悪ではない。罪といのは業である。生きていくために必要な所業であって、悪行とは異なる。
たとえば無益な殺生という言葉がある。殺生自体は罪ではあるが、悪行ではない。誰も救われない殺生というものが悪行なのである。食べるために猪を殺した。これは決して無益ではない。他に食するものがあったろうという人もいるが、それは次の段階である。
農作物を荒らすので猪を殺すのも、無益ではない。
この段階に、悟りはない。これは単に欲望のままに生きているという段階である。
他に手段がないのか。そのことで、何が失われ何が得られるのか。この問いをいかに突き詰めて結論を出したかが重要になる。
無益をさけるために具体化したのが掟である。
母猪は殺さない。
子猪は殺さない。
余分には殺さない。
みんなで分けて余すとこなく活用する。(地方によっては虎や狼など森の動物のために一部残すという考え方もあるが、むしろ襲われないための知恵である)
怪我をした猪は殺す。(人に敵意を持つようになるから)
畑を荒らす猪だけ殺す。(集団で畑に下りてこなくするため)
これらは最小限の殺生で目的を達成するための手段である。だが、これは悟りではない。悟りとは個人が納得するまで消化された状態になることである。
掟の目的を知り、自分の行動を常に煩悩にとらわれていないか、疑い見直すことが必要とされる。