悟るための思考法
どの宗派であろうと、基本は「無」の状態で瞑想する。しかし、この「無」というものが何なのかは説明がまちまちである。
「無我」、つまり欲を捨てた状態というのがある。欲とは固執である。執着心を無くすことで物事の本質を見ようというのである。
「無迷」、迷いがない状態。単なる決断ではない。ありとあらゆる心配事に配慮し、心配の種をすべてつぶした状態である。
普通の場合、迷いは執着心から来ると考える。なので、まず「無我」の境地を通って「無迷」の境地に至るのである。すでに「無我」であるはずの弥勒はが、この先何億年も瞑想しているのは、「無迷」の境地に至るためだ。
「どうしたら人々を救えるか」
どうしたら、こそ迷いなのである。
「無」というのを、我によって着色されてない状態という解説書があるが、執着心を捨てることの本質は、視野を広げることにある。一方的な見方ではなく、多方向から物を見、本質を知る。そのための最初のステップとしは、立ち返るのもよいがそこが終着点ではない。あらゆる方向から問題を等しく見つめることが最終目的であることを忘れてはならない。
迷いを取り除く方法であるが、それには迷いの本質を知る必要がある。問題の中には、迷ってない部分と迷っている部分があるはずである。迷っていない部分を取り除き、迷っている部分を露にしていくことで、自分の迷いの本質を知ろうというのである。
初めのうちは、細分化することで迷いが増える。化石を掘るとき、最初は1つの石だが、砕けば数が増える。しかし、個々に同じように細分化していてけば、しだいに調べるべき石は減ってくる。
問題も徐々に小さなっていく。その過程で解決できるものもあるだろう。結果、未解決部分は小さく少なくなっていく、ついには無くなる。
瞑想とは単なる気分転換ではなく、本質を見極め解決するための思考法の一部なのである。