data5. 謎の勉強会
放課後、夕日の差す教室に二人きり。そんなアバンチュールなやつらを見かけたなら、即刻羽交い締めにして屋上から吊し上げてやりたい。と思っていた中二の夏。
その二年後、まさか自分が経験者になろうとは夢にも思っていなかった。
今、僕の目の前に百合園さんが座っている。誰もいない教室に二人きりだ。ことの成り行きで、彼女に勉強を教えることになったのだ。
先日、成瀬先輩の放った一言が主な原因。僕は全く覚えていなかったが、賢い子が好きだと公言していたらしい。
それで……。
「山田くん、わたしに勉強教えてくれない? どうしても頭が良くなりたくて」
断る理由も見つからなかったので、承諾するはめになったというわけだ。
一科目目は、現文。文章を読み解いて、要約しろという問題。僕自身、あまり現代文は得意ではないのだけど、これくらいなら教えられるだろう。
「うーん、こうかな?」
どれどれと覗き込んで、うっと喉が潰れる。そうだ、百合園さんの字はすこぶる独自性が強いのだ。
よくこれで先生たちは読めているなと感心する。
「ねえねえ、どう? 合ってるー?」
「あっ、ああ……そうだなぁ。これは後回しにして、次の教科を先にやろう」
「……どして?」
少し膨れた顔も可愛らしい。斜め下から見上げる感じとか、長いまつ毛で虚になった目とか。
「これからの時代、最も重要なのは英語だから。そっちからやろう」
日本語じゃなければ、なんとか読めるかもしれない。
なんとかごまかして、僕は現文のノートを閉じた。
二科目目、英語。少し暑くなってきたからか、首筋に汗がにじむ。
下敷きで風を作ろうとした時、百合園さんがおもむろにセーラー服の裾をパタパタと揺らした。その拍子に、ちらりと肌の色が見える。
うう……、心臓に悪い。慌てて反対へ視線を向けるのだけど、次はスカートが捲られて太ももが露わになっている。
いくら僕が血の気のない草食男に見えたとしても、気が緩み過ぎてないか?
「なんか急に暑くなってきたねぇ。窓開けよっか」
「……そうして下さい」
ガチャリとスライドした窓から、そよそよと優しい風が舞い込む。
ほんのり赤らんだ彼女の横顔がとてもキレイで、目が離せなかった。
「さっ、続きしよっ!」
「あっ、ああ……」
ぴょんと跳ねるように腰を下ろして、百合園さんが滑らかにシャープペンを動かしていく。
最近、一緒にいる機会が増えて忘れていた。彼女は学校の人気者で、本来ならば僕なんかと関わるはずのない人だ。
誰に対しても優しくて超絶美人で、少し変わっているところはあるけど、百合園さんは……。
「……ねぇ、山田くん」
ぽふっと額に手の温もりが伝わる。それから、首筋を両手で覆われた。
「ひっ、ふわぁっ!」
なんだなんだ?! ほんのり冷たい指が、妙に背中をゾクッとさせる。
「よそ見ばっかりしてるから。ちゃんとこっち見て?」
ガラス玉のような瞳にじっと見つめられて、ごくりと喉が鳴る。凄まじい透明感に吸い込まれそうだ。
そっと指先が離れても、火照った頬は熱いまま。この頃の僕は、どうかしている。
それじゃまるで……百合園さんのことが……。
「今度こそ、ちゃんと出来てるかな?」
「な、なにが?」
「えーっ、問題だよぉ! これからの時代は英語が重要なんだよね? 頑張って解いたんだけど」
言いながら、彼女は切なそうにノートを見せる。
そうだった。今は勉強を教えている最中だろう。僕は何を妄想に更けっているんだ。
ページが少し焦げているのは、おそらく集中し過ぎたからか。
しかも……これは筆記体で書いてあるのか? 達筆過ぎて、逆に読めない。
「ごめん、百合園さん。英語は僕より君の方が出来るのかもしれない」
「じゃあ、今度はわたしが教えてあげるね。Happiness depends upon ourselves.はどんな意味でしょう?」
「幸せかどうかは、自分たち次第? たしか、ギリシャ哲学者の名言だったような」
「ピンポーン! なんだぁ知ってたんだねぇ」
自分の得意分野で優位に立ちたかったのだろう。少しつまらなそうに、百合園さんは唇の先を尖らせた。
その表情があまりに悔しそうで、思わず頬が緩みそうになる。百合園さんでもそんな顔をするんだ。
視線を感じて「なに?」と仏頂面へ戻すと、彼女はなんでもないと楽しそうに笑った。
最後は、保健体育。
引き出しから出された教科書に視線をおとして、「……なぜ?!」と立ち上がってしまう。
「山田くん、どうしたの?」
「あ……、いや。そんな教科書だったかなと思って」
冷静を取り戻して、椅子へ腰を下ろす。
落ち着け、僕。いくらなんでも、あの百合園さんが卑猥な勉強をするはずがない。
きっと、運動神経が良くないんだろう。球技のコツとか走るフォームを……そんなの僕には聞かないだろう!
だとしたら……?
頭の中で自問自答していると、シャーペンを持ったまま、百合園さんが動きを止めていた。
「……わたしの字って、やっぱり変だよね」
ノートに書いてある文字を眺めながら、ぽつりと放つ。
「中学の時ね、仲良かった子に言われたことがあるんだ。何書いてあるか読めない。汚いって。自分では普通に書いてるつもりなんだけど、普通じゃないよね」
唇に小さな笑みを浮かべるけど、すぐにしぼんで消えて行く。
ずっと気にしていたのか。
暗号のような文字に視線を落として、僕は膝の上でこぶしを握る。
「……そんなこと、ない。英語、めちゃくちゃ上手かったし。変えようと頑張ってるの、知ってるから」
あれ、何を言っているんだ僕は?
すこぶる恥ずかしくなって来たぞ。
沸騰した頬に、6月に似合わない冷たい風が吹き付ける。
百合園さんが窓を向いて、
「……なんか不思議。その一言で、あの時言われたことがどうでも良くなっちゃった。山田くんって、魔法使いみたいだね」
乱れた髪を耳にかけながら笑みを浮かべた。
「……それは良かった。この先なりたくはないけど」
夕日の色に顔を隠して、僕も空を見る。
そんなこんなで、全く勉強会の意味をなしていなかったけど。
まあ、本人は満足しているようだし、今日のところはよしとしておこう(ほっこり)