生い立ち 1
本編ですが、まだ世界の雰囲気と主人公の背景のフレーバー的な本編の序です
あらすじ通り、次から動きだし村出ちゃいますので空気だけ伝えられているとよいのですが
トラスケは今年で十五になる。年の割に体は大きく力も気力もあり丈夫な質だ。村では一番の髪と瞳の黒ささだが、さほどの大都市でもないこの県の都にでも行けば、村人とは違う様々な地の血を引いた住人や旅人がいくらでもいるので特別目立つ外見でもない。
気力も、村の中では強いほうだが飛び抜けてもいない。祈りや呪い仙術や妖術の源と言われる気力は、生き物であれば獣にも蛮人蛮族と呼ぶ辺境の者たちにも帝の天下に暮らす者にも、皆備わっている。気力を込めれば、多少重い荷を担げたり速く走ったり長く歩いたり、念じたり手を当て揉んだりすると傷や病の痛みが和らぎいくらか治りが良くなる。体が育ったり、立ち上がり歩き話すことと同じように力の差はあっても自然と身につくものだ。
こちらも県の都にでも行けば体と気力の強さで並でない働きをする、トラスケと別格の偉丈夫はいくらでもいる。
より上流層に好まれる、気力を用いての道術、仙術、徳と気力を兼ね備えたものの祭祀の力なども話には聞くが、それらに触れたことはない。
同年代より物覚えは良いほうで、野良仕事や村のことなどよく教わりよく果たした。
小さな村なので村長一家からして特別でなく野良仕事など皆と同じく働く。農繁期は村総出でないと立ち行かない。そんな中でも家業というわけではないが役割の分担担当はある。狩り、家畜の世話、農具や家具の修繕、村の慎ましい祖廟の世話と祭り事、村の外への使い走り、などは慣れもいることなので手が足りなければ誰でも駆り出されるが、それぞれ頭や長や担当がいて務める。
子供は七つくらいから半ば遊びながら下の子どもの世話も手伝い、村の中のこと、水汲みや家畜の世話やらを手伝う。十くらいから村近くの野良仕事とあわせて、それぞれの頭を手伝い一通り村のことを学ぶ。見込みのある向いている者は頭の下につき次代の担当としてずっと勤めていく。
トラスケが物覚えがいいというのは自惚れでもなく、この頭たちから目を掛けられつつもいいように駆り出されてそつなくこなしている。大変ではあるが色々やるのは性分に合っているようで特に不満もない。言ってみれば立ち位置があやふやではあったが特にトラスケも母も、村の大半も特に気にしてもいなかった。
村は、中心になる作業や祭りごとをする井戸のある広場を、防壁を兼ねた日干し煉瓦と土壁造りの二階造りの長屋がぐるりと囲んでいる。外側の壁を厚く頑丈に造り、最低限の窓だけ暮らしのためでなくいざというときの物見として開いている。長屋の一か所だけ荷車が通れる幅の門があり村の内側の広場に入れる。長屋のそれぞれの間取りの出入りの扉や一階の庇と二回の回廊を兼ねた張出や階段は広場の側に造られている。その長屋の日当たりや風通しのいい間取りを多めに使っているのがお屋敷だ。お屋敷には村長の、村を起こした一族の当主が家族の隠居や、子の世代の夫婦やまだ幼いものや部屋住みの叔父などと暮らしている。その近くの長屋の間取りは村長一族に連なる、現村長から見てまた従弟だのその子だのの夫婦家族が暮らしている。村人が暮らすだけでなく、物置や寄合所や託児所、作業部屋になっている間取りもある。
広場には井戸の他、一族の祖廟、納屋、作業小屋、家畜の小屋、野菜の畑などがある。子供たちが遊んでいたり誰かしらがいて作業などをしたりおしゃべりをしたりで何かとにぎやかだ。
村には犬、豚、鶏、猫、驢馬、そしてたまに羊と山羊がいる。
犬はこのあたりでよく見る、狐よりやや大きい程度の、顔つきも体つきもどちらかといえば華奢ななりでふかふかの尻尾がくるんと巻いており愛嬌はある。どこやらからもらわれて来たり里子に出したりで大体親子一家族、五匹前後、二三匹のおとなと子犬がいる。大きな獣と戦えるでもなく、お大尽の邸宅でご婦人に愛でられるなりでもないが、見知らぬ者や夜中の騒ぎに吠えるぐらいはするし、狐を追い立てたりうさぎの穴を見つけて掘るくらいはするので一応の番犬、猟犬だ。ねぐらは門の脇の小屋だが繋いでいるでもないので広場で遊んでいたり長屋のどこぞに潜り込んで寝ていたり、囲いの外で遊んでいたり、夜に門を閉じるときに外にいて朝まで門の前で寝ていたりといい加減なものだ。
豚は十頭ほどを広場の小屋と長屋の一角で飼っている。村の数少ない銭の元で、殖やして肥えさせ県の都や宿場町にそのままや干し肉にして売る。その銭で村では賄えない塩や酒や金物や壷や農具など生活の品や上等な布や書物や祭り事の品などを買う。食えるのは年に何度かの贅沢なものだ。
鶏は数十羽いて、これも広場に小屋がある。肉も卵も村でほとんど食う。銭にはなるが豚に比べて手間の割に値が付かないのでよほど急に入り用でもなければ売ることはない。一方で、豚に比べて手間の割の食いでは比べ物にならないので、豚は銭と祭り事のため、鶏は食べるもの、となっている。
猫は飼っているのか勝手にいるのかよくわからない。多分十匹位は村の中で寝起きしていて、村の外でもよく見かける。村にいるものは愛想もよく、ちょっと食い物を失敬したり、油を舐めたりもするが、鼠を捕るので叱るくらいで済んで可愛がられている。意外にも鶏を取って食ったりはめったにない。稀にはあるのでその時は括られたりする。
驢馬は長屋の一角が房になっており二、三頭が大事にされている。その分荷をくくり付けられたり荷車を引かされたりでたいそう働かされている。農村でももう少し豊かなら荷駄馬、さらに豊かなら騎馬を養えるのだろうがいなくとも何とかなっているし、驢馬より働く分、相応に飼葉も必要だ。そこまでの豊かな草場が港氏村の領分にはない。
羊や山羊は近隣ではほとんど飼われていない。豚のほうがこの地に合っているらしくまた村でも慣れているので銭のためにしろ食うためにしろ羊や山羊よりよいらしい。北のほうに羊や山羊を育てて暮らすものがいて県の都で市の立つ日にはまず連れてこられて売られている。肥えたものが安ければ買い、祭り事や祝いまで村にいる。殖やし肥えさせ生業にするに足りないが、しばらく痩せないようにするには豚と大して手間は変わらない。
子供たちはこれらを手伝い手ほどきを受けながら育つ。
トラスケもそうして村で暮らしてきた。