episode8-7
「……結局、全然寝れなかったな」
牢の壁際にある、粗雑な作りの固いベッドの上で、隆一は朝を迎えた。
地下であるため外光は全く入ってこないが、彼の体感がそう伝えてくるのだ。
夜は煩かったネズミやゴキブリの足音がぴたりと収まったのも、それを裏付けているようだった。
「さてと、これどうすればいいんだ?」
彼は牢の檻に顔を近づけ、外の様子を確認する。
薄暗く五メートル先すら満足に見えないが、人外の目で注意深く観察する。
だが、それでも暗闇を見通すことは難しく、彼は歯を食いしばりながら檻に体重を掛けて外へ身を乗り出そうとする。
「うぉぁッ!」
閉じられていたと思っていた檻の扉が勢いよく開かれ、隆一の身体は外へ放り出される。檻を握っていたため転ぶことはなかったものの、彼の心臓は激しく動悸していた。
しかし、一体誰が扉の鍵を開けたのだろうか。クロエが扉の鍵を閉め忘れたということも考えられるが、少なくとも自分の目の前で閉める様子は見ていた。もしくは後から鍵を開けたのか、隆一はそう考えつつ、檻から離れて木島を探しに出る。
アザレアさんかな? ――――
他に考えられるとすれば、【水龍】が寝ている間に鍵を開いたのだろう。
そう思いながら彼は上階へと躍り出た。周囲に気を配りつつ、慎重に屋敷の中を歩いていく。やはり、牢とは違って掃除が行き届いていて、ゴキブリやネズミはおろか、塵一つ見当たらない。
「ちっ、木島はどこにいるんだ」
確認した部屋が八つを超えた頃には、焦燥感からそんな感想が出ていた。
敵内部に味方がいるとはいえ、あまり時間を掛け過ぎるのは得策ではない。
次で一度探索を終えよう、彼がそう思いながらドアノブに手を掛けた時、
「一〇分だ」
「なッ!?」
「時間はないぞ」
「……」
隆一のすぐ横からそんな声が聞こえてきた。
視線を動かすと、そこには白衣の男が壁に背をもたれている。
男は隆一に携帯を投げつけると、早くしろというような視線を送る。
全体像は見えてこないが、青年は一先ずドアノブを引いて、暗い部屋の中へと足を踏み入れた。
「木島、いるのか?」
隆一は白衣の男から投げられた自身の携帯でライト機能を使い、陽が差さぬ真っ暗な部屋を明るく照らす。他の部屋と違い、この部屋には家具というものが存在しない。
床にはペットボトルを始めとした大量のゴミが散乱している。幸い、汚臭しないがかなり不衛生な環境であることは間違いないだろう。だが、これらのものから、何者かがこの場所で生息していることだけは分かった。
「おい、木島、返事をしてくれ」
携帯の光を上から下へ、左から右へ、流していく。
しかし、映るのは空気中に浮遊する埃と、大量の潰されたペットボトル、バラバラの紙くず、布団の切れ端や中身の羽毛など、何者かによって破壊されたゴミばかりだ。
そんな中、隆一は部屋の隅で青く反射するものに気づく。
それは青い瞳を持つ、黒い毛並みの異形だった。
「木島、お前木島だなッ」
隆一は思わず、その瞳に向かって駆け寄ろうとする。
だが、
「ウゥッ!!」
瞳の持ち主は獣のように低く唸り彼を威嚇する。
それは明確な拒絶であり、敵意を示すものだった。
隆一の脚は震え動きが鈍るが、それでも、止まらず進み続けた。
「なあ、そのままでもいい。聞いてくれよ」
「ウゥゥゥッ! ソレイジョウ、チカヅクナァァァァ!」
獣の口の端から粘性の高い唾液が零れ落ちる。
そして、生々しい不快な獣の臭いが部屋中に立ち込めた。
だが、青年の表情はピクリとも動かず、真剣に青い瞳を見つめる。
「分かった近づかない。だから、聞いて欲しい。俺はお前を元の“人間”に戻す、そのためにここに来た。色んな人に迷惑が掛かると思う、でも、俺はお前を死なせたくないから、絶対元の所に返してやる、取っ捕まえてでもな」
「ウゥッ!」
「それだけだ、じゃあな。……また」
隆一はそう言い残し、暗い部屋から出ていく。
廊下には変わらず、白衣の男が壁にもたれながら彼を待っていた。
「終わったか。付いてこい、君には聞きたいことがあるんだ」
「……分かった」
屋敷の二階、その一室にて。
陽が僅かに差し込むだけの、机と二つの椅子しかない簡素な部屋で、隆一は机を挟んで白衣の男と白染めのメイドの二人の対面する形で座っていた。
「あの、白髪の彼女……【雷姫】について教えて欲しい」
「プライバシーに関わる問題だと思うけどな」
「牢屋の鍵を開けてやっただろう」
「アレ、アンタだったのか」
出されたコーヒーを啜りながら、隆一はやや驚いて白衣の男を見た。
「彼女について知っていることを教えてくれたら、今回の事は黙っておこう」
「……竜ヶ森クロエ、十六歳、俺の通ってる学園の二年でクラスメイト。というのは表の貌で本当は【幻祖六柱】の一柱の【雷姫】、以上」
「他には? 知っているんだろう? 情報は小出しにしないでもらおうか」
「好きな菓子はモンブラン、滝山駅近くの有名な洋菓子店のが特にお気に入り」
「違う! そういうのじゃあないんだ」
「どういうのだよ」
彼が真面目に答える気がなかったのは確かだ。
しかし、白衣の男がどういった答えが欲しいのか分からないのも事実だった。
「彼女の家族について教えて欲しい。お母さんがいるとか、誰がお父さんなのとか、母さんは何処に居るのか、何処に住んでいるのか、そういうことを教えて欲しいんだ」
「あ? ストーカーか何かか? ってか訊きたかったのは母親の方なのかよ」
一変して熱に浮かされた様子になった白衣の男がそう訊いてくる。
思わずカップを落としそうになった隆一であったが、ギリギリで踏みとどまる。
この白衣の男は一体何を考えているのか、わざわざ【幻相】を裏切ってまて訊ねる、その動力源となっているものは何なのか、青年は男やメイドの一挙一動を逐一観察する。
「前置きをすると、俺はあんまり詳しくない」
お母さんの方とは知り合いだし、住んでる場所も知ってるけど――――
「それでも構わないっ」
「じゃあ、んんっ」
隆一はわざとらしく咳払いをする。
そして何処から何処まで言うべきか、或いは言わないか、考える。
「お父さんはもう亡くなってるらしい。んで、お母さんは心を痛めてるそうな」
「何てことだ……」
「で、えーっとお母さんは森で暮らしてるんだ。そこは湖がすごく奇麗で、色んな魚がいて、鳥がよく狩りをしに来る。彼女はそれを一望できる小屋に住んでる、らしい」
適当言っちゃった――――
隆一は頭の中に浮かんできたことをそのまま口に出す。
嘘がばれないか心配だったが、幸い、白衣の男は神妙な顔で考え込んでいる。
「でさ、アンタは何で俺にそんなことを訊くんだ?」
「君の質問に答えるとは一度たりとも言っていない!!」
「ええ……。おま、……ええ? 何で急にキレてんの?」
「彼にコーヒーを出してくれ、とびっきり美味しいヤツをな」
「……畏まりました」
戸惑いを隠せない隆一に対し、白染めのメイドが新しいカップを置いた。
湯気とともに鼻孔をくすぐる独特の甘美な香りは、彼の飲みたいという欲求を最大限にまで増幅させる。そして、一気にカップの取っ手に手を掛け、口元へ運び、黒々とした魅惑の液体を一息に飲み干す。
「ぐっ……!?」
隆一は強烈な痺れと眠気に襲われ、机に突っ伏した。
その様子を想定内とでも言うように、白衣の男とメイドはじっと見ている。
「昨日から思っていたのだが、君のコーヒー好きは少し異常だな。こんな場所で出される飲食物が普通であるはずがないと解っていただろうに、コーヒーに対しては全くの無警戒。いやはや、全く分からないよ」
「す、すとーかぁ、より、は、マシだ、っての」
「通常の人間なら死んでいるが、君なら安心して長い眠りには付けるはずだ」
青年の視界が霞み、徐々に瞼を上げられなくなっていく。
彼の身体はメイドによって椅子に括りつけられ、口に布を噛ませられる。
白衣の男は青年の一挙一動を観察して、自身の作った薬の効果を確認する。
「今は寝ておくといい。きっと、今日は騒がしくなる」
「…………」
同屋敷の客室にて。
【水龍】がソファで寝っ転がっている。
そんな中、唐突にクロエが部屋に入り、不機嫌そうに声を掛ける。
「ねえ」
「…………」
「ねえったらッ!」
「おおう、何じゃ、騒々しいのう」
ぐっすりと眠っていた【水龍】は、微弱な電流によって起こされる。
だが、彼女は特に痛みを覚えた様子もなければ、驚いた様子もなかった。
「隆一が白衣の野郎に連れていかれたわよ」
「ほう! 敵じゃしそれくらいはされるじゃろうて」
「アンタと隆一が裏で繋がってんのは分かってるのよ!」
「……あんまり大声で言われるのは困るんじゃがのう?」
惚けたふりを一変させ、【水龍】の鋭い視線がクロエに向けられる。
その視線に少女はやや気圧され、そっぽを向いて口を窄める。
「知らないわよ、そんなこと。で、どうすんのよ」
「まあ命に別状はないじゃろ。勘がそう言っとる」
「はあ!? 適当言ってんじゃないわよッ!?」
「妾の勘は当たる、安心せい。それよりも……」
「それよりも、何なのよ」
「今夜は騒がしくなるぞ」
「はあ?」




