episode8
もう三〇年以上も昔、私がまだ小学校だった頃のある夏休み。
幼かった私は、誰にも秘密で屋敷から抜け出して、昆虫採集へ出かけた。
過保護だった屋敷の人間に対する、反抗心があったことは微かに覚えている。
冒険気分だった私は、いつになく夢中になって虫取りに精を出し、森を駆け回った。
手のひらほどのカブトムシやクワガタをカゴに入れると、私は増々有頂天になった。
しかし、調子に乗り過ぎたのだろう、私は何かに足を取られて転んでしまう。
そして、私の視界は一瞬にして暗転し、意識は遠くへと投げられてしまった。
気が付くと私は先程までの森とは違う、見知らぬ森にいることを悟った。
見渡す限りが、見たこともない植物や動物たちで溢れかえっていたのだ。
それを照らす薄い青紫色の天は奇麗で、幻想的であったこともよく覚えている。
だが同時に、私は身体が小刻みに震えるほど恐ろしかった。
私は夢中になって辺りを走り、元の森に、屋敷に帰ろうとした。
まるで孤島に取り残されてしまったようで、最早冒険という気分ではなかった。
次第に私は疲れから、ひとり地面にうずくまって泣き始めてしまった。
強烈な寂しさが身体中を包んでいたことをよく覚えている。
もう駄目だと諦めかけた時、
「あら……こんな所にヒトがいるなんて、珍しい事もあるのね」
私は彼女と出会った。
美しい、彼女を表せる言葉はそれしかない。
太陽の光を反射する純白の髪、陶磁器のように艶やかな白い肌。
こちらをまっすぐに見つめてくる、海のように碧く輝く二つの瞳。
艶やかな桜色の唇からは、永遠に聞いていられる心地の良い声が発せられた。
「アナタ、一体何処から来たの?」
見惚れてしまっている私を見て、彼女が首を傾げつつ言う。
その愛らしく、美しい姿に私は増々彼女に釘付けになった。
彼女が不思議そうにしながら、右手を私の前でスライドさせていた。
そうして、ようやく私は意識を自分の身体に引き戻したのであった。
屋敷に帰りたい、口早にそう言うと、彼女は納得と言った顔をする。
「ついてきて、アナタが元いた場所まで返してあげる。これも役割だしね」
彼女の意味深な言葉は理解できなかった。
だが、帰れるという言葉に希望を見出し、私は彼女の後ろをついて行く。
彼女の後ろについて歩いていくと、段々と森に深い霧が掛かっていった。
幼かった自分は理解できない現象が起こっている、という事だけは理解していた。
とても恐ろしかった。私が持っていた万能感など、粉々に打ち砕かれてしまった。
恐怖で震える手を何とかするために、私は彼女に近づいて白い手に触れる。
「……? ああ、怖いのね。子どもだし当然ね」
急に手を握られても、彼女はさほど驚かなかった。
私の顔を一瞥するだけで、足はそのまま目的地の何処かへ向かっていく。
その頃には周囲は霧によって、一メートル先を見通すことすら困難になっていた。
呻き声のような不気味な音が、私の爪先から頭のてっぺんまでをゆっくりとなぞる。
実際には何かに触れられているのかもしれない。だが、それを確認する勇気はない。
彼女の手を握る力がより強くなり、そして、この手を離せば死ぬとさえ思えてきた。
「真っ直ぐ、前だけを向いていなさい。アナタをここに連れてきて食べようとしたモノは、アナタがその存在を知覚した瞬間、襲ってくるわ。とにかく気を抜かないことね」
彼女は淡々と私の常識を超えた、恐ろしいことを言い放つ。
気を抜かない、私は彼女の言葉に従って、頬の内の肉を噛みながら前を見る。
と言っても、見渡す限りは白色に塗りつぶされていて、何処も同じように見えた。
しかし、直後に視界がある一点に吸い込まれるように、捻じれ、歪んでいく。
「ここで止まって。目を閉じて、深呼吸して」
彼女は急に立ち止まり、そう言った。
私はあまりに突然のことで一瞬反応が遅れたが、彼女の言うことを聞く。
瞼を閉じて深呼吸をすると、強い眠気に襲われ、立つことすらままならなくなる。
まるで肉体を波に預けているような、そんな感覚が体中を駆け巡る。
「そのまま意識を離していいわ。そっちに行ってからは、私に出来ることはないから、自分で何とかしてね。もう会うことはないでしょうけど、元気でね」
淡々とそう言う彼女に、私は名前を訊ねた。
彼女に一生会えなかったとしてもせめて名前を聞きたかった。
最早、意識が完全になくなろうとした瞬間、微かに声が届く。
「……シアよ」
前半の部分は意識の波に呑まれて聞こえなかったが、確かに聞こえた。
そして、すぐに私の意識は闇に呑まれた。
…………。
……。
「……様! 大丈夫ですか!」
気が付くと、私は元いた森に帰ってきていた。
私のすぐそばには、代々家に仕えてくれている使用人家の娘がいた。
私よりも年下なのに、昔からしっかりした子だった。が、この時ばかりは違った。
目の周りを赤く染めながら頬を濡らし、鼻を啜る音がこちらまで聞こえてくる。
私は先程まで出来事は夢だったのではないかと考えながら、少女を宥める。
帰路の途中、私は彼女の温もりが消えた手の感触を確かめる。
そして、屋敷で無断外出をどう言い訳したものかと頭を悩ませた。
時は午前一〇時前、風切家の居間にて。
隆一は顔をヒクつかせながら、目の前で茶を啜る【水龍】と白髪の女を問いただす。
「で、この状況がどうなってるか聞かせてもらえるかなァ?」
「どうとは?」
「…………」
今にも飛び掛からんばかりの剣幕の隆一に対して、二人の女は余裕を崩さない。
肝が据わっていると言えば聞こえはいいが、ふてぶてしいとも言えるその態度に、隆一は増々こめかみ部分に青筋を立てる。とはいえ、睨んだところで解決するとも思わなかったため、もう少し、踏み込んでみる。
「あの師匠のことに決まってるだろ! 何だアレ!?」
隆一は居間から見える場所にある台所に立っている、風切を指差した。
何時になく風切は上機嫌で、包丁を使ってキャベツを千切りにしていた。目にも留まらぬ速さと正確無比な包丁捌きで、半分にカットされたは見る見るうちに細切れにされていく。……料理上手で、それなりに性格がいい、その上パートナーが欲しいと思っているのに何故結婚相手がいないのだろう?
「ッ!」
瞬間、風切が殺気を醸し出しながら隆一の方を見た。
「あ、ははは」
苦笑いしながら、手を振り返す隆一。
それを見て風切はニコッと笑い、再び千切り作業に戻る。
「……だから、アレ何だって聞いてんだよ!? どう見たって普通じゃあねえよ? 何でルンルン気分で鼻歌交じりに包丁握ってんの! ってか、ここに住めるようになったのも何かやったからじゃあないのか……!」
風切に聞こえないよう、隆一はぼそぼそと言う。
【水龍】と白髪の女が彼に少し寄って、耳を傾けてくる。
「やったんだよな? ………………怒りませんから」
「……はあ、ちょっとだけの」
「……案外正直モノなのね」
やったんじゃねえか! ――――と、口には出さない。
「どんな方法を使ったんだ」
「まあ、その、幻覚を使って、その間にちょろっと同居することに、な?」
「アンタら何でもありかよ……」
隆一は頭を抱える。
住処を得たはいいが、手段が最低すぎたのだ。
「まあ、第二夫人の力も借りたがな」
「共犯かよ!」
隙のない二段構えであった。
思わず、隆一は机に頭突きをしながら叫ぶ。
そして、顎を食台に乗せたまま【水龍】と白髪の女を睨む。
「で、師匠はどんな幻覚を見せられてるんだよ」
「最近、気になる人が出来た」
「鬼! 悪魔!」
「龍なんじゃが」
「安心して、私が相手を見つけておいたわ」
「それ余計にややこしくなるやつ!」
この未亡人ズ、碌なことをしない――――そう思わずにはいられない隆一。
とは言え、彼にはそれよりも優先して聞くべきことがあった。
一先ず、隆一は咳払いをして、話題を転換する。
「ん、今から真面目な話になる。……この前、【雷姫】にあった」
「おろろ、これはまた難儀なことになったの。予想の範囲じゃが」
「……どうだった? あの子何か言っていたりした?」
「いや特には。でも、白い姿だったけど俺に気づいてたんだよな」
「えっ、あの厳ついヤツ? よく気付けたもんじゃなぁ」
「……?」
白髪の女だけは、話が分からないといった様子で首を傾げた。
しかし、構っている暇はないので、隆一はそのまま話を続ける。
「父さんの前だったから、正体についてあの場で言う訳にはいかなかった。けどさ、父さんが【雷姫】が竜ヶ森だっていうことに気づくのも、時間の問題かもしれないんだ」
「まあ、かなり親交が深いようじゃし、パパ上が気付くのも時間の問題かもしれんの」
「……ねえ、拷問とか、されないわよね?」
「流石にないでしょ。……させるものか」
あの子を酷い目には遭わせない――――
間髪を入れずに【水龍】が、湯呑を持ちながら話し始める。
「口調崩れているのはこの際放置しておくとして、今後どうする腹積もりじゃ?」
「先ずは、竜ヶ森と連絡が取りたいところだな。色々と話し合いが必要そう」
「難しいのぅ、妾に届けられた文によると、小娘は【幻相】と一緒だと思うぞ」
「文? 今時古風なもん使ってるんだな? ……それにしても弱ったな」
と、隆一が呟いた瞬間、食台の上に置いた彼の携帯が振動を始める。
画面を表に返すと、そこには見慣れた番号が表示されていた。
隆一は二人に目配せをすると、その場で電話に出る。
「……え? 本当ですか!?」




