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Another Face 〜バイトしてたら人間やめることになりました〜  作者: 蔵井海洋
第六章 水の龍/力の源
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Episode6-2 何者の宝

 光金製薬・研究棟にて。

 ホールでの社長挨拶を終えた後、椿姫は他の招待客とともに、増築された研究棟へと赴いていた。本社ビルと研究棟を繋ぐ、病的なまでに白で統一された渡り廊下があり、そこを三〇名ほどでぞろぞろと歩いていたが、窮屈さは全くないほど幅があった。

 敷地内にしてはかなりの距離がある廊下を渡り切り、渡り廊下同様、白で統一された研究棟の内部に辿り着く。それと同時に案内人が口を開いた。


「こちらが、我が社が新たに導入した最新設備が揃う研究施設です。このように壁をガラス張りにすることで、問題が起きたらすぐに分かるようになっているのです」


 研究室の前に立ち、案内人は歩きながら誇らしげにそう言った。

 椿姫はポケットに手を突っ込みながら、ごそごそと手を動かしている。

 そしてしばらく建物内を歩いた後、ある研究室の前で立ち止まり、案内人が話し始める。


「こちらの研究室では我が社の主力商品である、湿布の改良や新たな湿布製品の開発を行っているのです。そしてこれが、来年、発売予定の湿布の試用品となっております。よければお一つどうぞ」


 案内人に目配せをされた部下たちが、光金製薬のロゴが入った小さなビニール袋を配っていく。それは最後尾を陣取っていた椿姫にもすぐに手渡される。


「ああ、ありがとうございます」


 椿姫はなるべく不自然に思われないよう挨拶をしたつもりだったが、その瞳はとても十代の少女のそれとは思えないほど鋭く、手渡した男性社員は、ぎこちない笑顔を浮かべながら足早に椿姫の下を去っていった。


「はあ……」


 やってしまった――――椿姫は小さくため息を吐く。


「それでは次に参りましょうか」


 再び列がゆっくりと動き始める。

 椿姫は目にはただ工場見学をしているような光景しか映っていないが、確かに違和感のようなものを感じるのだ。異形の気配に似た、強い悪寒を。


「ッ!」


 そして、あるモノが椿姫の目を釘付けにした。思わず立ち止まってしまうほどに。

 そこには、関係者以外立ち入り禁止というステッカーが貼られた、何の変哲もない扉があった。それだけならば、ここへ来るまでにも何度も目にしてきた。だが、これは何かが違うと椿姫の本能が叫ぶ。

 椿姫は高鳴る心臓、噴き出る冷や汗を必死に抑えながら、周囲の目を盗み、その扉へと近づいていく。

 カメラや警報機の類はない。今のうちに――――

 扉に手を掛けた、その時、


「何をしているのじゃ?」

「っ!」


 椿姫の背後から声を掛けられた。それは年若い女の声で、この場に似つかわしくない古めかしい言葉遣いだ。その女は大声ではないが可憐で、良く通る声をしており、それでいて、身も凍るような、冷たく鋭い無機質な声色である。

 少女の心臓が飛び跳ねる。いや、強い力で締め付けられたといった方が近い。

 椿姫は強張る表情を必死で笑顔に変えながら、背後の何者かを刺激しないように、ゆっくりと振り返る。


「……」

「して、貴様そこへ何用じゃ?」


 背後に立っていたのは、秀麗な容姿をした青い着物姿の女だった。不思議そうな顔を浮かべており、そこに攻撃的な意思は見受けられない。しかし、その視線は昆虫や小動物を見る人間のような、圧倒的な上位の存在が向ける類のものであった。

 病的なまでに白で統一されたこの空間では、この女の恰好はやけに存在感がある。いや、この女そのものから異様なオーラが放たれている。まるで、冷たい水に浸かっているような、そんな感覚を覚えた。

 噴き出る冷や汗を拭う暇など、椿姫にはない、必死に思考を巡らせる。


「…………」


 椿姫は記憶を辿る。しかし、セレモニーの招待客リストにこのような恰好をした女はいなかった。浮世離れした容姿をしたこの女を見逃すはずはない。だが、この研究者とも思えない。会社の従業員も同様だ。一体この女は何者なのだろうか。


「……っ」

「聞こえておらんのか? もう一度聞くぞ、何の用で、この場におるのだ」


 しかし椿姫は確かに分かる。

 彼女の本能が強く訴えるのだ。この返答を誤れば死ぬ、と。

 少女は即座に決心を固め、震える顎や脚をさらに震わせながら、口を開く。


「あっ、あのう! ちょっとトイレを探していましてぇ! めっちゃやばいんですけど! も、もうっほんっとにやばいんですけど! どこがトイレか分かりませんか! ででで出来れば教えて欲しいんですけど! なるべく近い所を教えて頂けると嬉しいんですけど!あっトイレ、トイレ見つけた! すいません! あぇぁりがとぉうごぜぁいましたぁ!」


 全身全霊を込めて阿呆の振りをした椿姫は、女に言葉を挟む余地を与えないように、一気に捲し立て、その場を全速力で駆けて行った。


「……面妖な女よの?」


 残された青い着物を着た女は、呆気に取られたまま口をぽかんと開け、自身の胸を渦巻く困惑を吐露した。





 夕暮れ時、隆一は廃病院から徒歩で自宅の帰路についていた。

 照り付ける太陽の熱さは鳴りを潜めているが、蒸し暑さは依然として人々を悩ませている。それは隆一も例外ではない。


「あっついなあ……」


 戦闘による疲労と湿った熱気によって、隆一は亡者のように力なく歩いている。

 彼の脳裏では、先程まで死闘を繰り広げていた、黒の魔人の姿が思い浮かべられていた。

 柳沼や【轟焔】ですら、その存在について全く分からないという、謎多き漆黒の魔人【疾風】。 

 今日を含めて何度も相見え、今後も対峙することになるであろう強敵に、如何にして対応するべきか、答えの出ない迷路をぐるぐると巡る。


「あーもう! わっかんねえ! 喉乾いたし!」


 水分、そして何よりも糖分が欲しくなった隆一の視界に、公園の自販機が目に映る。

 まるで街灯に群がる蛾のように、隆一は赤色の自販機に引き寄せられていく。

 そして、近づいていくと建造物で見えなかった人影が目に入る。

 気は進まないけど、割って入るか――――


「すいません、先いいですか……っげ」


 暗がりでよく分からなかったが、近づくと、その人影は女で、青い着物を着ていることが分かった。そしてそれは隆一が知っている人物であった。しかし、彼女の名前を隆一は知らない。ただ、古めかしい口調で話すということで記憶に残っている。


「おう、この前世話になった童ではないか。元気だったかの?」

「ええ、お陰様で。そちらこそお元気そうで……」

「ははは、世辞は良い。貴様はさっさと選べ、妾よりも選ぶのが早そうだからな」

「はあ、ありがとうございます。それじゃあ、お言葉に甘えて……」


 隆一は硬貨を入れると、すぐに微糖のブラックコーヒーを選択し、ボタンを押す。すぐに音を立てて、黒色のスチール缶が落ちてきた。それを取り出すと、着物の女の視界に入らないよう、自販機の前から退く。

 青年はその場で缶の中身を一気に口に流し込む。口の中いっぱいに独特な風味と苦み、そして、隠れきれていない甘みが一気に広がった。


 微じゃねえじゃん、めっちゃ砂糖入ってるの分かるじゃん――――糖分を欲しがったのは自分であることは重々承知していたが、それでも砂糖の配分に納得がいかない隆一であった。


「……ふむ」

「あの……大丈夫ですか?」


 隆一が缶の中の黒い液体を飲み干して、しばらく経っても、一向に悩み終わる気配が見えない着物の女に、見かねて話しかける。


「こーひーとやらは苦かったんのでな、別のものを選んでいるのだ。しかし、見た目だけでは判断がつかぬ、むむむ」


 眉間にしわを寄せながら、自販機を睨みつけ、唸る。そんな事をしたところで、自販機から何かが返ってくるわけでもないというのに。


「ミルクティーとか、どうですか? 甘くて美味しいんでオススメですよ」

「ふむ、そうか。ではそれを」


 しかし、女は一歩たりとも自販機に近寄る気配はない。


「……はい」


 隆一は渋々、女の前に立った。

 すると、着物の女は袖から銭を取り出し、隆一に突き出す。

 女の意図を察した隆一が、両手で椀を作ると、そこに銭を落とした。


「白眉の紅茶……でいいですか? この白いパッケのやつ」

「うむ、早うせい」

「はあ」

「何か言ったか?」

「いいえ何も?」


 隆一は平静を装いつつ、ボタンを押した。先程と同様、スチール缶はすぐに落ちてくる。

そして、缶に纏わりついていた水滴を手で拭いた後、女の前に差し出す。しかし、女の顔は渋い。隆一は思考を巡らせる。幸い、答えはすぐに出た。


「ああー」


 缶のプルタブを開けた状態で再度女に渡す。

 今度は笑顔で受け取った女が中の液体を口に含んだ。


「はあー、良いな、この茶。気に入った。苦しゅうないぞ」

「それはそれは……」


 早く帰りてえ――――だが、口にはしない。確実に面倒な事態を招くことを予想したからだ。

 隆一は引きつった笑みを浮かべて、青い着物の女から一歩離れる。


「それじゃあ、僕はこれで」

「うむうむ、世話になったな」


 隆一は足早に帰路へと戻っていった。

 その後ろ姿を、女は横目で見つつ、缶の紅茶を飲み干した。


「最近の若者は元気じゃのう」


 女の独り言がすっかり闇に呑まれた空に吸い込まれていく。





 隆一が家に着くころには、地面で鈴虫や蝉たちが合唱を催し、遥か頭上の空では無数の星が瞬いていた。肌に張り付く汗も、今となっては気にならない。


「ただいまー」


 夜が遅いせいか、返答は帰ってこない。

 しかし、度重なる疲労からか、隆一は靴を乱雑に脱ぎ捨てると、そのまま風呂場に真っ直ぐ歩いていく。


「ああ、お帰り」

「ただいま」


 居間の前を通ると、テーブルに置いた資料と睨めっこをしている父、隆源が開いていた障子から隆一に声を掛けた。

 隆一は返答を返すと居間を通り過ぎようとする。


「……風呂か?」


 そこへ隆源が声を掛け引き留める。

 隆一は噴き出る熱を冷ましたい衝動に駆られながらも立ち止まった。


「汗かいたし、先に入ろっかなって」

「……そうか、ご飯は食べるのか?」

「食べるけど、何?」

「ああ、いや、まあそうだな。待っているから、もう風呂に行きなさい」

「お、おう」


 不思議そうな顔をしながらも、風呂場へそそくさと歩いていく隆一。





 時が過ぎ、隆一は脱衣所の鏡の前で、濡れた髪をタオルで拭いていた。


「ああーいい湯だったぁ。やっぱ湯船に浸かるってのは大事だわ」


 タオル越しに荒々しく髪を動かす隆一。その顔は天にも昇るようなとろけた笑みに歪んでいる。

 そんな中、隆一の背後にあった脱衣所の扉からがらりと開く音がする。


「……うぇ」

「ああ、悪い、すぐ出るから」


 脱衣所に入ってきたのは椿姫であった。鏡越しに見えるその姿は何とも言えない顔をしている。食べていたものをうっかり床に落とした時のような、そんな顔を。

 椿姫がそんな顔を浮かべるのも無理はない。今の隆一はパンツ姿で髪を拭いていたからだ。

 しかし、椿姫は平静を装うことが得意だった。すぐにいつもの澄ました顔になる。


「いえ、まあ、兄さんも仕事の後でしょうし。……私もお風呂に入りたいので、早めに出ていただけると助かるのは事実ですけど」

「じゃあ、飯食ってくるわ。んじゃ」


 椿姫も疲れていることは見て取れたため、隆一は着替えを持って脱衣所を出る。


「……ありがとうございます」





 時はさらに進み、隆一と隆源は一緒に食事を摂っていた。テーブルからは先程まで置かれていた資料は除けられ、代わりに三人分の食器が乗せられている。その内の一つは椿姫の分であり、現在は入浴中のため空だった。


「母さんは?」

「高校の同窓会だ」

「ああ、そうなんだ。……で、話って?」

「ん? ああ、そうだな」


 テレビを消し、何とも言えない無音の状態を脱すために、隆一の方から話を振る。

 無骨な見た目をした父が、ぎこちなく、けれど確かに言葉を紡いでいく。


「先生のこと覚えているか?」

「先生? 先生ってどの?」

「……覚えていないか」


 隆源は俯き、椀に入った味噌汁を口にする。

 父の様子を見て、隆一は申し訳ないような、それでいて僅かな憤りが混ざった何とも言えない感情になった。


「で、先生って誰なんだよ」

「お前が我が家の次期後継者だった頃、偶に剣の稽古を付けてくれていた人だ」


 隆源の言葉選びの途中も、食事を摂取することを欠かさない隆一。

 山菜の天ぷらがメインであったが揚げたてでないため、衣はややふやけている。しかし、母、美冬特製のネギダレに漬けて食べれば全く気にならない。さっぱりとしたダシとネギの触感がふやけた衣を補っている。


「その先生は、お前があの崖から転落する少し前に修行をするために海外へ出ていたんだ。そして、最近またこちらに帰ってきたそうでな。家へ挨拶に来られた」

「ふーん、そっか」

「事故のこと、記憶喪失のこと、色々話した。先生、お前のことを甚く気に掛けていらっしゃった。見舞いに行けなくて申し訳ないともな。ああ、無論、お前の身体のことには話していない。安心しろ」

「……そっか。ありが、とう」


 隆一は照れを隠すように味噌汁を啜った。そしてむせる。


「でな、近くお前に会いたいとも言っていた」

「ああーそう」

「大変お世話になって、お前も実の父親のように懐いていた。実の父親のように。実の、父親のようにな」


 何故そこを繰り返す――――

 隆源が咳払いをして、場の空気を再びシリアスなモノへと変える。


「まあ、今のお前からすれば知らない人のことだものな。そのような反応になるのも無理はない、か」


 隆源の目に映った隆一の姿勢は一貫して他人事のようだったからだ。そしてそれは事実でもあった。隆一は昔の自分を別の人間のように感じており、頭では同一人物だと思っていても、感覚が伴わないのだ。

 心の内を見透かされた隆一は顔を伏せる。


「お前が、昔の自分のことで気に病んでいることは知っている。最近は、色々なことが重なってさらに辛いことも……」

「やめようぜ、辛気臭いの」


 俯いていた隆一が一転して顔を上げ、父の言葉を遮る。

 隆源の視界に映る隆一の表情は、晴れ渡る空のように爽やかだった。


「俺は前に進むことに決めたからさ。辛いことや悲しいこと、過去も全部ぜんぶ背負って進んでいくって。まあ、辛いことばっかなのは、目に見えてんだけどさ。……だから、その一歩として、明日ぁ先生に会いに行ってくる」

「……そうか」


 隆源は口角を僅かに上げると、自身も食事に戻り、不器用ながらも、息子や風呂から上がった娘との談笑を楽しんだ。


 ありふれた日常、この家にはそれが何物にも代えがたい宝物なのかもしれない。

 口にこそしなかったが、三人は一様にそう感じた。

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