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Another Face 〜バイトしてたら人間やめることになりました〜  作者: 蔵井海洋
第六章 水の龍/力の源
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Episode6 椿姫の探り

 これは遠い日の記憶。もう戻らない平和な日常。


「お兄ちゃん! 今日はお稽古ないの?」


 ソファーに座りながらリモコンを構う兄に、寝ころんだ状態の妹が空に浮かせた両脚をばたつかせながら話し掛けている。妹の顔は期待と喜びに満ちている。

 対して、兄の顔は気だるげで妹の話が右から左へ流れているといった様子だ。


「おう。今日は父さんは仕事だし、先生の道場もやってないしな」

「え! ほんとお! じゃあねえ! 勉強教えてよ!」


妹の瞳が大きく見開かれ、きらきらと光るようにさえ見える。

兄は珍しい何もない日を楽しみたいのか、渋い顔を浮かべる。だが、可愛い妹の願いを無下にするのも心苦しいといった考えもあり、頭を抱えた。


「むむ、よし! じゃあ兄ちゃんが教えてやろう、どこが分からないんだ?」

「んふふー、じゃあ宿題持ってくるから待ってて!」


 妹ははしゃぎながら部屋を出ていく。


「あっ勝手にどっか行ったらやだよ!」

「はいはい、分かってる分かってる」


 わざわざ引き返して、障子の隙間から顔を出しながら言う妹に、兄はため息を付きながら返事を返した。

 程なくして、妹がプリントや教科書を持って戻ってくる。そして、居間のソファ前に設置された机の上にそれらを無造作に広げた。

 兄は勉強している妹の横に移動し、提出課題と思われるプリントを覗き込む。


「えーっと算数、だよな? って大体解けてるじゃん」

「こ、ここ! ここが解んないの!」

「んー? ってこれも式は出来てるし、後は答えを書くだけじゃ……」

「んんんん!」


 兄の指摘を誤魔化すように、妹が唸る。

 兄はその挙動から構ってほしいがために、わざわざ宿題を見て欲しいと言い出したのだと解釈した。しかし、それでいじろうとはせず、兄はしばらくの間、妹の宿題を見るのだった。


「ねえ、お兄ちゃん」

「ん? どうした」


 妹の宿題が終わり、二人が一息ついた頃。


「あのね、お父さんは今日なんでいないの? いつもこの時間はお兄ちゃんに稽古をつけてるのに」

「ああ、それか。それはなあ……うーん、言ってもいいのかなあ」

「えーなんでなんで! 教えてくれてもいいじゃん」


 唇の先を尖らせながら呟く妹。

 兄は長いこと唸っていたが、妹との根競べに負け、話すことにした。右頬を右手で掻きながらぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始める。


「椿姫は幻獣がどこから来るか知っているか?」

「えーっと、この“げんせ”とは違う世界から来るんでしょ?」

「ああ、そうだ。で、その違う世界からどうやって来るか、分かるか?」

「えーと、えーと……うーん……うーん、むむむむむむむ!」

「はい、時間切れ」

「えー! もうちょっと! あと少しだけぇ!」

「幻獣は特別な扉からこっちに来るんだ。……実際の所は、扉っていうよりも穴っていう方が近いらしいんだけどな」


 妹は全く話を理解できていないようで、ぽっかりと大口を開けたまま宙を見上げている。

 そんな妹の様子を尻目に、兄は話を続けようとする。


「それとお父さんの仕事がどう関係しているの?」

「その扉はいつも何処かに空いてるらしいんだけど、普通は特別な道具で何処にいつ発生するのか分かるようになってるんだって。でも、今日はその扉がその道具でも分からなかった場所に発生したんだってさ。で、魔狩師のトップの父さんに見て欲しいって部下の人に言われたんだって」

「ふーん」


 妹の関心は既に兄の話に向けられておらず、その視線は録画された子ども向け番組に釘付けになっている。

 兄はそんな妹の行動に慣れきっていたため、ため息を吐くだけで、それ以上は何も言うことはなかった。





 時は戻り、朝。滝上椿姫の寝室にて。

 窓の外側は小鳥がさえずり、心地の良い朝陽が、夏特有の暖かく爽やかな風とともに部屋に入り込んでくる。そんな清涼な雰囲気とは裏腹に椿姫のベッドの周りは喧騒に包まれていた。


「……ーい!」

「んんんんん!」

「おーい! 起きろー! 今日も仕事なんだろー!」


 椿姫の兄である隆一が大声で叫びつつ、ベッドの上で怪しく蠢いている布団をやや強めに揺らしている。その布団の中からは亡者のような呻き声が聞こえてくる。


「ってか、なんで珍しく早起きしてやることが、珍しく寝坊しかけてる妹を起こすことって……なんだかなあ……」


 一旦揺らすのを止め、息を整えた隆一の視線に、床に散らばった目覚まし時計だったものが映る。

 無念、お前の遺志は俺が継いでやろう……南無――――


「よし、こうなったら……こうだ!」

「うぅぅ……もう少し、あと少しだけ寝かせてください」


 隆一が勢いよく布団を引き剥がす。

 亡者は目に入り込む強力な光に呻き声を上げ、身体を芋虫のようにくねらせる。

 強い睡眠欲に対し、薄弱な理性が勇敢に立ち向かっているのだろうか。


「お前、あの第二班の班長にどやされるぞ! お前も後悔したくないなら、さっさと起きるんだな!」

「うぅぅぅ」


 椿姫は瞼を擦りながら、ゆっくりと立ち上がる。欠伸をする間抜けな姿は普段の椿姫からは想像も出来ない。長年一緒に住んでいる隆一ですら、そんな姿を見たことは今までなかった。兄妹の関係性をある程度“取り戻した”ため、この痴態に遭遇したのだろう。


「よし、起きたな。じゃあ、俺は先に居間に行くから、顔を洗ってこいよ」

「ああ、うぃぃい……」


 のそのそと歩きながら部屋を出ていく妹を見て、隆一が呟く。


「よっぽど疲れているんだな。まあ、最近は特別な任務とやらで忙しいらしいから、仕方ないか。あいつも本当は普通の女子高生なんだもんな……。あーあ朝から湿っぽくなっちまった、最近こんなんばっかりだ、やだねぇ」


 夏風とは正反対に湿った自分を嘲りながら、隆一も部屋を後にした。





 光金製薬・本社ビルにて。 

 光金製薬、滝上重工と同様、Ⅹ県・滝山市を拠点する日本で、中堅的な位置に属する、創業二一年の製薬会社である。代表商品は湿布や軟膏、どれも高齢層をターゲットとした商品展開を行っている。近年は若者向けにパッケージ変更、低価格路線を模索している。


「お待ちしておりました! 滝上様! 本日は我が社のセレモニーへようこそ!」

「…………」


 ビルのエントランスで老齢の男が齢二十に満たない少女に対し、謙って接している。

 少女は素人目にも高額だと判る服を纏い、気品に満ちた振る舞いをしている。その少女とは椿姫のことである。今の椿姫は朝の痴態など微塵も感じさせない。


「では、参りましょうか」

「ええ」


 出来る、出来る、私は出来る。あの過酷な特別研修を乗り越えてきたのだから、出来ないはずがない、落ち着け、冷静になれ――――椿姫の心臓が痛いほどに鼓動している。だが、これを悟られてはならない。ここは既に“虎の穴”の内だからだ。

 何故、滝上家の人間であることを除けば、一女子高生でしかない椿姫が、このような場所にいるのか、それを説明するためには、数週間前に遡らねばならない。





 滝山学園立て籠もり事件から数日が経った頃、椿姫は荒城に滝上重工本社ビルの会議室へ来るように言われ、椿姫と荒城、そして見慣れない中年女性の三人で会話をしたのが事の発端である。


「私が、捜査第二班と合同捜査?」

「ああそうだ。詳しい話は第二班の班長である花咲さんから聞いてくれ」

「自己紹介が遅れたわね。花咲です」

「滝上です」

「単刀直入に言うわ。貴女には光金製薬に潜入してもらうわ。既に必要な書類は用意しているから、署名をしてくれるだけで貴方がすることは終わり。その後は潜入についての打ち合わせをしましょ……」

「いやいやいや、ま、待ってください! 何で私が潜入を?」


 唖然としている椿姫を余所に話を続けようとした花咲。それを椿姫が慌てて止める。

 花咲はきょとんとした後、咳払いをして理由を説明し始めた。


「ああ、そうだったわね、ごめんなさい。説明をするべきよね」


 要約するとこうだ。

 光金製薬は人を異形へと変える薬、“ブルーアイ”を製造している疑いを掛けられている企業だ。これまでにも、APCOによって探られてきたが、その真相には全くと言っていいほど辿り着けていない。そこで、今回潜入をすることになったのだが、その人員選考に難儀していたのだ。そこで、椿姫に白羽の矢が立ったのである。


「ええ……? そこで何でいきなり私の名前が出てくるんです? もっと適切な人材がいると思うんですけど……」

「それは……。この前の滝山学園の戦闘でAPCOから死者四名、重軽傷者二五名が出たのを知ってるわよね。実はウチからも援護を出してたんだけど、そこで班の何人かが病院送りになっていてね」

「……すいません」

「貴女が謝ることじゃないわ、皆覚悟してのことだもの。まあ、そんなこんなでね。どこの班も人員が本当に足りなくて、本来なら、貴女にこんな仕事をさせるべきではないのだけど、この機を逃すわけにはいかないのよ」

「……」

「こちらで全力でバックアップはするわ、だから、この仕事引き受けてくれないかしら」


 椿姫は自身に拒否権などないと感じた。いや、断ろうという考えすら浮かばなかった。

 滝上家に生まれた者、いや、滝上家を継ぐ者として断ることなど出来ない。それが、兄の将来を奪ったことへの償いにもなるはずだ、と。


「やります」





 そして時は戻り、現在。

 椿姫はジュースの入ったグラスを片手に、光金製薬本社ビル一階にあるホールのテーブルに座っていた。天井からは豪奢なシャンデリアが吊り下げられ、やや暗い光で部屋を彩っている。床には一枚の幾何学模様のカーペットが敷き詰められている。

 この場において椿姫は、Ⅹ県の名家の長女という立場で来ている。


「……ふーん」


 一通り辺りを見渡して、中堅の製薬会社が保有するホールにしてはかなり驕奢だと椿姫は感じた。悪く言えば身の丈に合っていないのではないか、と。これは財務諸表を調べたことによって裏付けられたものでもある。


『聞こえているかしら、返事は咳でね。はいの場合は一回、いいえの場合は二回よ。小さくても音を拾えるから、なるべく静かに咳をしてね。いいかしら?』


 耳に取り付けたインカムから、少々ざらついた花咲の声が聞こえてくる。

 予定通りのことではあるものの、椿姫は手に持っていたグラスを離しかけた。しかし、瞬時に平静を取り戻し、花咲の声に応える。


「ん」

『今回の創業記念式典は二日に掛けて続くわ。今日は、そのビル内に新たに併設された研究施設のお披露目も兼ねた視察会。そして、明日がそのホールで行われる新製品の発表会。説明した通り、今日はその研究施設の内部構造を調べてもらうわ』

「ん」

『以上、通信を切るわ。これまでの研修の通りにやれば、大丈夫よ。健闘を祈るわ』


 素人の付け焼刃もいいところだが、やるしかない――――椿姫は自身の気を引き締めるために、両手で頬を二度叩いた。



 少女の受難は苛烈さを増し、やがてその心身を蝕んでいく。

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