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Another Face 〜バイトしてたら人間やめることになりました〜  作者: 蔵井海洋
第五章 欲望の檻/夢の向こう側
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Episode5-4 破裂寸前の感情

 滝上家・隆一の部屋にて。


「ああああああああああ! 最悪だあああああああああああああ!!」


 何時ぞやのデートの時と同じように、寝坊をしてしまった隆一は今通学路を全速力で走り抜けていた。


 家族に何故起こしてくれなかったのかと聞いたのだが、何度も起こしたと言われては隆一も黙って唇を噛みながら家を出ることしか出来なかった。


 車を出そうかと隆源に言われたものの、金持ちの坊ちゃんが送り迎えされている、などという場面を他人に見られたくない思いが邪魔をして断ってしまった。……今となっては後悔しか残っていないが。


「はあ、歩こ……」


 如何に人智を超越した細胞を身体に内包しようとも、一時間は掛かる距離を三分の一以下に収めるのは至難の業である。


 一瞬でもそう思えばもう身体は走ろうとはしなかった。

 その辺のコンビニで抜いた朝飯でも買って、その辺のコンビニで食べようか、などと考える始末だ。

 それからしばらくして、


「あざっしたー」

「……あーうめー」


 コンビニのコーヒーも中々良いものだ――――カップの小さな飲み口から、白い湯気がもくもくと上がる様子を見て隆一はそう思った。


「もう、九時か……」


 とっくに朝のホームルームは終わっている時間である。

 通学路をゆっくりと、いや、のっそりという表現の方が似合うような遅々とした歩行をする制服姿の青年を、通りすがりの人々は不思議そうな顔をしながら、すぐに目を伏せた。


 それもそのはず、隆一の親類が経営する滝山学園はこの地域に住んでいれば知らぬものはいない、というほどに広大な土地を持っており、著名な人間を多数輩出してきた由緒ある学校である。


 そんな学校の制服を着た青年がコーヒー片手に気だるげな顔で、歩いているというのだから、不良か何かと考えてしまうのも、致し方のないことだ。とはいえ、今現在行っている行動があまり褒められたことでないということは、隆一も自覚している。


「あーあ……」


 隆一が長いため息を吐くと、入れ替わりに梅雨特有の湿った空気が口から肺へと進入してきた。真夜中に雨が降ったせいか、いつにも増して不快な感触の空気が服の内側にまで入り込んできて、気持ちが悪い。


 これならば学校で朝食を摂った方が遥かにマシだろう。

 隆一が学校へ僅かに歩を進める速度を速めた。

 その時、


「きゃあああああああああああああああああああ!!!」


 さほど遠くない場所から、年老いた女性のものと思われる、鬼気迫った悲鳴が耳に届いてくる。


 その悲鳴を耳にした隆一の身体はほぼ反射的に、悲鳴が聞こえてきた方角へと向かっていた。湿ったアスファルトで滑らないよう注意を払いながら、確実に目標へと距離を詰めていく。


 前方にあった十字路を右に曲がり、細く曲がりくねった薄暗い塀の間を潜り抜けていく。しばらくして、視界に太陽の輝きが戻るとともに、目的の地点にたどり着いた。


 視界に入ったのは、露出した肌の部分からまだら模様に鱗が生え、公園近くの道路上で仰向けに倒れこんでいる女と、その傍らで腰を抜かした壮年の女性であった。


 より近づいてみると、鱗の生えた女はまだ息をしている。


「大丈夫ですか! 少し離れていてください」

「え? ええ……」


 隆一の声によって現実に精神を取り戻した女性を、少し離れた場所へ移動させ、救急通報とAPCOに連絡をする。


 それほど距離が離れていなかったためか、すぐさま救急車とAPCOの黒いバンが到着した。鱗の生えた女性はすぐさま搬送されていき、残された隆一と壮年の女性はその場で軽い聴取を受けることになった。


 壮年の女性、以後に工藤(仮名)とする。

 工藤によれば搬送された女、魚野(仮名)は同じ職場で働く同僚であり、交流があったのだが、ここ最近は男絡み(かなり立ち入った話であるため、ここでは詳細を省く)でトラブルがあり、彼女たちの関係は冷え切っていたという。


 昨日、仲直りがしたいという魚野に道路付近の公園へ呼び出され、指定された時刻通り、公園に辿り着いた工藤を待ち構えていたのは、“ブルーアイ”を手に持った魚野であった。


 口論の後、激昂した魚野が“ブルーアイ”を自分に刺し、身体が徐々に変貌していき、そんな魚野に恐怖を抱いた工藤はその場から道路に向かって逃げ出した。そこからは隆一が知る所だという。





「それにしても、滝上。お前今日学校じゃないのか?」


 そう言ったのはバンから降りてきた東藤である。

 隆一はばつが悪いといった顔をして、目を逸らす。


 そんな様子を見て、東藤はくすりと笑うとそれ以上は何も聞いてこなかった。

 その後も、聴取はとんとん拍子に進んでいき、


「取り敢えず今後何かありましたら、こちらから連絡をさせて頂きますので、連絡先を教えていただけますか?」


 という高水の爽やかな声でその場は閉幕となり、それぞれの居場所へと帰っていく。

 ただ一人を除いて。


「…………」

「……どうした?」


 バンに向かう足を止め、東藤が顎に手を添えながら唸る隆一に向けて問いかける。


「いえ、なんか視線が……」

「視線……?」


 この場に来た初めの頃は気付かなかったが、この場をじっと観察している者がいるのだと、隆一に備わった感覚が確かに伝えてきていた。


 魔人になる以前であれば、錯覚だと考えていたはずだが、力を得て以降は、今のような感覚が備わっていると思わざるを得ないことが多々あったため、この感覚は信頼のおけるものだというのが隆一の見解である。


 肌を刺す見えない矢の出所を、感覚を研ぎ澄ませ、居場所の情報を手繰り寄せる。


「……見つけた」


 隆一が視線の主がいると推測される場所へ、尋常でない速さで走っていく。

 その場にいた者たちからすれば、急に隆一が消えたように見えた。


「っ!」


 塀の間から隠れて見ていた視線の主は、瞬く間に距離を縮めてくる隆一に驚き、すぐさまその場から離れようとする。気付かれるとは思っていなかったためか、塀の間にあったゴミなどを蹴散らしながら駆け抜けていく。


「待て!」


 五秒も経たない内に約一〇〇メートルと少々の距離を詰める。

 視線の主が入っていた曲がり角の前で急旋回し、隆一が滑り込むように角へ入り込んだ。


 だが、その場には人っ子一人いなかった。というよりも、曲がり角の先にあった道には多くの人間が往来しており、追跡は困難。というのが正確であろう。


「逃げ足の速いやつ……ん?」


 隆一の眼が、地面に落ちる一つの異物、いや、見慣れたモノを捉える。それを拾い上げ、今一度目にしたものが何なのか確認し、そして、確信した。


「はあ、はあ……滝上? いきなりどうした、手に持ってるそれは」

「ボタンです。……滝山学園の……女子制服の」


 青年の脳裏を最悪な想像がよぎる。



 

 午後一〇時一三分。滝山学園にて。


 昼でありながら、まるで無人のように静かになった校舎の階段を、苛立ちを露にしながら登っていく。足音は階段のみならず廊下にまでも反響し、それは隆一の精神が普段とは違うことを示しているようであった。


 隆一のクラスは普通科、二年C組。AからEまでが連なっており、それらを二つの階段が挟んでいる。そういった構造上、どうあがいても他のクラスの生徒に注目されることは避けられない。


 事実、教室前の廊下を歩く度に、ちらちらと様子を窺ってくるような視線を散発的ながら痛いほど浴びせかけられた。

 だが、そんなことは気にも留めず、隆一は苦虫を噛み潰したような表情で歩き続ける。


 その心を埋め尽くしているのは羞恥でもなければ、怒りでもない。不安と否認、この二文字であった。


 意外にも教室へはすぐに辿り着き、勢いよく教室の戸を開いた。その力によって戸は柱にぶつかり、大きな音が教室及び廊下に響く。


 その音によって一斉に隆一の方に大量の視線が向けられた。

 僅かな間を置いて、授業を行っていた豪山が唖然とした顔で隆一に問いかけてくる。


「滝上……随分と遅かったな。…………お前の口から話を聞いてもいい?」


 ほんの僅か、一秒にすら満たないような時間。


 クラスにいた人間は誰もが息を呑んで隆一の口に、声に神経を注いだ。

 仮にもこの数か月、或いはそれ以上の時間を、ともに過ごしてきた間柄である。


 滝上隆一という人間を総て、とはいかないまでも、ある程度の為人は知っている。


 そんな知人若しくは友人が、今日はいつにも増して、いや、普段から恐ろしい顔をしているが、まるで悪鬼のような顔をしているというのだから、これはただ事ではないのだろうというのが、この瞬間、この場にいた者たち総ての認識である。


 件の青年の口が、ゆっくりと、開かれていく。……実際は周りの者たちがそう感じているだけなのだが。


「倒れてる人に出くわしてぇ……救急車呼んだりぃ、何があったのか事情を聞かれたり色々してたら遅れましたぁ」

「……んーそっかあ、ありがとう。じゃあ座れー?」

「はい……!」


 拍子抜けした。そして、喋り方が癪に触る。



 午後〇時五分。昼休み。滝山学園・食堂にて。


 騒々しさで溢れかえる、ありふれた学生食堂。その隅で、隆一と街田、そして共通の友人は箸を片手に冗談を交えていた。その冗談というのは、


「ってかお前さー。授業ふけるってんなら、メッセ送っといてくれれば、何とかしてやったってのによ」


 そう言ったのは街田である。

 昨日の様子からしてだいぶ堪えていると思ったが、存外、目に見えて参っている様子はなく隆一はひとまず安心を覚えた。

 出来る限り平時を装い、街田達に応じようと心掛ける。


「あのなあーさっきも言ったけど、倒れてた人見つけて救急車ってのは本当だ」

「でも、授業さぼろうとしたのもホントだろ?」

「だろー?」

「うぐっ、ままあ! そそういうこともあるよな! あー唐揚げ美味しそうだなあ! いただきまーす」


 熱い――――

 勢いよく頬張ったがために、隆一の口の中で火の通った濃厚な肉と油が弾け、頬の内側や舌と言ったものに掛かる。


「あっふ!……んっはあ……」

「お前って誤魔化すのホントーに下手だよなー。ほら口んとこ、垂れてるぞ」


 苦笑しながら懐からティッシュを取り出した街田が、隆一の口の端から零れ落ちる油をふき取った。


「お、おう……わ、悪いな」

「気にするな」

「なー」


 な、何なんだこれは……――――

 廊下の前を歩いた時とは毛色が違う情が籠った視線が隆一たちに突き刺さる。

 隆一は周辺に流れた妙な空気による気まずさを誤魔化すようにお茶を口に流し込んだ。


 辺りの空気が平時のモノに戻るのにそう時間は掛からず、三人もすぐに食事と談笑に耽った。

 しばらくして、昼休みの終わりが近くなり、そろそろ教室に戻ろうかといった時。


「なあ、啓」

「どうした?」


 隆一が神妙な面持ちで街田に話し掛けた。

 街田もそれに合わせて思考を切り替える。

 ……マイペースなもう一人は既に食堂から姿を消していた。


「今日、峰山は学校に来てたか?」

「朝は来てなかった……でも、お前が来る前、一時限目が終わる少し前くらいに廊下を歩いてるのを見た」

「……そっか」


 一時限目が終わる前ならば、あの場にいたとしてもおかしくはない。

 手に持った氷入りのコップが、やけに重く、そして冷たく感じられた。


 隆一はコップの中身を空にした後、深く息を吸い、呼吸を整える。直前に潤したはずの喉がやけに渇いているように感じられた。緊張しているせいだろうか。

 しかし、言わねばならない。


「……なあ、啓」

「だから、なんだよ?」


 再び隆一が街田を呼ぶ。先程までよりも、神妙な面持ちで。

 街田は困惑の色を見せながらも、古くからの友人に応じる。


 二人の周囲を取り囲む湿気た空気が、冷たくなっていく。相対的に、周りの騒々しさが増したようにさえ思えてくる。

 コップからにじみ出た水滴が、セピア色のタイルに零れ落ちた。


「今日は……お前すぐ家に帰れ」

「は? お前何言って、」

「いいから」


 街田の疑問を封殺するように、隆一が言葉と気迫で畳みかける。じわりと隆一の着る制服が内側から濡れていく。


 隆一と街田の視線がぶつかり合い、火花を散らしているように幻視させられる。


 周囲の空気が止まったようにさえ感じられ、窓から差し込む光がいつも以上に眩しい。


「…………」


 街田は不満顔を崩すことはなかったが、それ以上は何も言わなかった。

 二人は何も言わず、食堂のトレーの回収棚に置いていき、食堂を後にする。



 思いと思いが交錯し、それはやがて爆発する。

 そんな前触れを感じさせることなく、学園の敷地内は生徒たちの楽し気な声や鳥の鳴き声、清涼な風の音で彩られていた。

 

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