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Another Face 〜バイトしてたら人間やめることになりました〜  作者: 蔵井海洋
第五章 欲望の檻/夢の向こう側
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Episode5-3 虚像の恩人/妖婦の名前

 太陽に照らされる見慣れた校舎と校庭、そして生徒や教員、どこにでもあるありふれた光景だ。しかし、目の前にあるそれらはどこか淡く、存在が不安定に思える。

 これは夢なのだと隆一はすぐさま悟った。


「明晰夢か……」


 自身が夢を見ていると自覚している夢。

 それを明晰夢と呼ぶのだと、隆一は以前、オカルト好きな友人である木島から聞いたことがあった。


「滝上、暇なのか?」


 隆一の肩が成人男性特有のがっしりした手によって叩かれる。

 やけに生々しさと質量を持った感覚に、隆一はびっくりと飛び上がった後に振り返った。


 後ろにいたのは、太陽のように明るい、というよりも、暑苦しい笑顔を作った豪山だった。


「確かに、自分が参加しない体育ってのは暇だろうなあ」


 どこかデジャブを感じるものを感じた。

 後ろを見ると、何時の間にか体操服を着た男子生徒たちがサッカーを行っている。


 そうか、今は体育の実習の時間なのか――――隆一の服装もそれに伴って体操服に変わっている。しかし、眼前の男子たちと違い彼が身につけているものは泥一つ付いていない、新品同様であった。


 これは、過去の記憶をもとに作られたモノなのか――――まだ学園に入学して間もない頃の記憶が呼び起こされる。これは隆一にとって初めて運動を楽しいと思えた日だった。


「よし、滝上! 行くぞ!」


 声とは裏腹に優しい力を加えられたボールが隆一に向かって転がってきた。

 隆一は難なくそのボールを受け止め、豪山に向かって蹴り返す。


「おう! 中々上手いじゃないか!」


 それは当然だ、と隆一は思った。何故ならこれは夢なのだから。

 昔の記憶は目も当てられないほど酷かった。どや顔をしながら勢いよく蹴ったボールはあらぬ方向へ逸れていった上に、勢い余って転んでしまったほどである。


 しかし、そんな隆一を豪山は苦笑交じりに根気よく蹴り方を指導してくれたのだった。

 目の前にいる豪山が隆一の蹴ったボールを足で受け止め、足の裏と地面でボールを挟み込む。


「滝上! 次は少し強めで行くぞお!」


 豪山が声を張り上げて勢いよくボールを蹴った。……少し強すぎるのではないかと思うほどに。


 豪山の恵まれた躰から放たれたボールは隆一の腹に目掛け、目にも留まらぬ速さで炎を纏っているかのように、いや、これは夢だ。纏っていても何らおかしくない。燃え盛る炎の虎を纏ったサッカーボールは殺意を孕み、唸り声を上げながら、通った路を焼き尽くし、隆一へと突き進んでくる。


「ってえ! 夢だからってやっていいことと悪いことがあるだろうが! ふざけんな! 雰囲気ぶち壊しじゃねえっ……かあ!」


 そう叫びながらボールを受け止めた隆一も、今は夢の住人である。炎の熱さを感じ取りながらも、車のような衝撃を放つボールを右足で華麗に受け止め……いや、止まらない。


 ボールは隆一の脛部分で回転を続け、炎の虎は竜巻を起こしながら隆一という障害を乗り越えようとしている。荒れ狂う炎の突風は周囲のものを焼焦がし、灰へと変えながら突き進んでいく。


「負けるかああああああああああああああああああああああああ!」


 だが、滝上隆一という男は負けず嫌いである。恩師である豪山を乗り越えたい、それがたとえ夢であろうとも。そして、何よりも諦めた姿を見せたくないという確固たる意志が隆一の心に、身体に力を与える。


「うおおおおおおおおおおおおお!! 俺はぁ! 豪山先生! 絶対にあんたを超えて見せるぞおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」


 隆一の右脚に猛々しい稲妻を纏った龍が呼び起こされる。

 炎を纏ったサッカーボールを徐々に押し返していき、炎の勢いが削がれていく。それと同時に竜巻も止まる。そして、


「だらあああああああああああああああ!!」


 ついに炎が消え、風が止まり、時間さえも止まったように感じられる。

 龍はボールに張り付いていた虎を軽く一蹴すると、大地を揺るがすような咆哮を上げた。


「いっけええええええええええええええええええ」


 隆一は飛び上がり、中空に浮いていた稲妻を纏うボールを勢いよく蹴りつける。


 澄み渡る青い空を猛々しくも優雅に舞う龍はボールを覆い、躰から発せられる雷を周囲に落としながら豪山へと突き進んでいく。さらに、巨体が巻き起こす疾風も先ほどの竜巻の比ではない。塵を吹き飛ばし、木々の葉を宙へと躍らせた。


 そんなボールを豪山は瞬きすらせずに、逃げるようともせず、じっと見つめている。

 そして、


「ぬうううううううううううううううううううううううん!!!!」


 豪山は暴風と轟雷を身に纏う龍を、両手でもって真正面から受け止めた。

 如何に惠体の豪山といえど、龍の前ではちっぽけな存在にすぎず、身体は徐々に後ろへと押されていく。だが、豪山の瞳に諦めるという意思は全く宿っていない。この一撃を確実に受け止めて見せるという闘志。かつてサッカーのプロを目指していた時の夢と高揚が宿っていた。


「ぐううううううううううううううううううう!!!!!!」


 その思いに感銘したかのように、ボールに宿っていた龍は雷を落とすことを止め、段々とその姿を透けさせていき、やがて暴風が収まると同時にふっとその姿をどこかへ隠してしまった。


「ナイスだったぞ。滝上」


 二カっと白い歯を見せ笑う豪山。その白い歯は太陽の光を浴び、きらりと光った。


 この勝負は、諦めない心を持った闘士・豪山の勝利であった。……いや、そもそもこれはただのパス回しだったはずなのだが。まあ、詳しいことは気にしない方が良いのだろう。何せこれは夢なのだから。


「はあ、はあ、はあ。あー」


 隆一は額から流れる汗を手で拭いながら、肩で息をする。

 疲れ切った隆一を見つめながら、豪山は隆一へと歩いてきた。


「滝上、そろそろ飽きてきた頃だろう。三人でパス回しをやらないか?」

「え、三人?」


 記憶が正しければ、この後チャイムが鳴る五分前まではパス回しをしていたはずだ。


 思わず疑問の声を上げるが、所詮は夢であるのだから多少の差異は気にするべきではないのだろうと思い、豪山の誘いに乗った。


「おーい。こっちだ!」


 豪山が後ろに向かって叫ぶ。

 しかし、誰もこない。不思議に思っていると、


「うひゃあ!」


 隆一の首を冷たく、か細い手が掴んだ。

 幽霊か! などと思い後ろを振り返ると、


「初めまして、かしら?」

「え、竜ヶ森?」


 太陽に照らされ美しく輝く白髪に、腰まで伸びた長髪の艶のある美人。しかし、隆一の記憶ではこの時期にはまだ転校していなかったはずだし、ここまで長い髪を持ってもいなかったはず。その上どこか現実のクロエよりも大人びているような気さえする。


 年齢は隆一よりも少なくとも五つか六つは最低でも上だろう。……纏う艶やかな空気や切れ長の眼、そして彼女の色気を増させる口元のほくろが更に上のように感じさせるが。


 そもそも、彼女が身に着けている服は肌や髪色とは正反対の黒いドレス。夢であるとはいえ、この場所、この状況には随分と不釣り合いな恰好である。


 どこかで彼女に会ったことがあるような気がした隆一であったが、それをすぐに思い出すことは出来なかった。


「は、初めましてぇ!」


 意図せず声が上ずる隆一。

 青年は顔から火が出そうになるほど恥ずかしくなった。

 思えば、初めてクロエと話した時もそうであったと青年は思い出す。


「ふふふっ、緊張しているのかしら」

「い、いやあ! 別にそんなことはなないです。そのお! 今日はいい天気ですねえ!」

「そうね、いい天気ね。ふふっ」


 ただの夢だというのに、やけに緊張してしまう隆一であった。

 それにしても、碧色の瞳といい、髪といい、やけにクロエに似ていた。将来成長すればクロエもこうなるのだろうかと隆一は妄想を膨らませる。


「ねえ、貴方の名前は何かしら?」

「え、お、僕ですか?」


 妙に豊満で艶やかな肢体を近づけてくるその女性に、隆一はどきりとして後ずさるが、急に背後から生えてきた木にその動きを遮られる。


 白髪の女性の体温や生暖かい吐息が身体を刺激する。


 ああやっべー。べーわーこれマジでべーわー、夢の中で卒業とかしちゃうのかなあー。あー、でもなーやっぱなー! 現実で作った彼女じゃなきゃなー! ――――などと思春期の青年にありがちな青い肉欲に憑りつかれ、聞かれた問いすら忘れそうになるほどに、女性の魅惑の身体は魅力的で刺激的だった。……眼前の女性が現れた時には豪山の存在など、とうの昔に忘れていたことは言うまでもない。


「ふふっ、私に敬語は必要ないわ。話しやすいようにしてくれていいのよ」

「そそそう? 俺は滝上隆一。隆一って呼んでくだ……呼んで!」

「そう、隆一……いい名前ね」


 白髪の妖艶な美女は薄っすらと悲し気な微笑みを浮かべるが、それはすぐに消え、隆一の左手を両手で握り、自分の顔に引き寄せた。


 幼気な青年は気恥ずかしくて仕方がなかったが、決して悪い気分ではなく、むしろひんやりとした肌が心地よいとさえ思えた。


「温かい……」

「あの、貴女の名前を教えてくだ……教えて」


 思い出したように隆一が涼し気な女に名前を聞く。


「私の? そう……いい、よく聞いてね。絶対に忘れてはだめよ?」


 女は大層不思議そうな顔で首を傾げた後、悲愴な顔つきになり、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「わ、分かった」


 妖艶な女が真剣な眼で隆一の黒い瞳を見つめる。その潤んだ眼は一切揺るぐことはない。

 隆一もその瞳に応えるように意を決し、絶対忘れまいと集中する。


「私の名前は……」




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