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富嶽娘  作者: 橋沢高広
9/11

【第9回】

「彼女の離婚を知ったのは、その三年後だ。この時は富嶽娘ふがくむすめの方から俺に接触している。離婚の理由は『性格の不一致』。半面、自分の事を話したがる彼女が離婚の件に関しては口をつぐんだ」

 直さんは、ここで缶ビールに口を付け、一気にあおり、話を続けた。


「俺は就職が決まった時、会社から二駅離れた場所にアパートを借りている。大学時代まで住んでいた実家と会社との距離が離れていた為だ。就職が決まったという連絡を富嶽娘にした際、このアパートの住所は教えている。

 その彼女が、ある日突然、アパートに現れたんだ。この時、離婚の話を聞く。そして、何日か泊めて欲しいと願い出た」


 私の身体からだが嫌な予感に支配される。言葉にならない〈何か〉が口から出ようとしたが、私は、それを必死に抑え込んだ。

「富嶽娘は離婚後、友人の家を転々としていたらしい。当初は親が住む実家に戻っていたと話していたが、『元々、この結婚に両親は反対だったの……』という言葉を聞いて、実家での生活に〈いたたまれなく〉なり、そこを飛び出したんだと俺は解釈した。そして、友人宅等で泊めて貰える所もなくなり、最終的に俺のアパートへ来たと推測する。富嶽娘の訪問が夜遅くだったのと、翌日が日曜日だった為、俺は一晩だけ彼女を泊める事にした。先に言っておくが、俺は彼女を抱いていない」

 私は、この言葉を聞いて物凄い安堵感に包まれた。全身を支配していた嫌な予感が一気に消え去って行く。

「但し、これには、ちょっとした裏話がある……」

「『裏話』って?」と思わず、聞き返しながら、私の中に再び緊張が走った。グラスに入ったビールを一気に飲み干す。直さんも缶ビールを喉へと流し込んだ。その缶が空になる。

 私は唯一、手を付けていない缶ビールを掴み、プルトップを開け、その中身を私と直さんのグラスに注いだ。これで空になった十二本の缶による林がテーブルの上に出来る。

 直さんは、「ありがとう」と言って、話を始めた。


「俺は翌々日の月曜日から出張だったんだ。函館に一週間。その間、留守宅になるアパートに富嶽娘を住まわせる訳にはいかない。日曜日の午後には出て行って貰う必要があった。

 この時、俺は富嶽娘に対して『追い返す』のを最優先事項にしたんだ。彼女も表面上は『一泊だけ』という条件を了承したが、隙さえあれば、俺の考え方を変えさせる行為を試みても、おかしくはない。その証拠に全裸となった富嶽娘が俺の布団に入って来た。だが、俺は、その〈誘い〉を拒絶する。

 結局、紆余曲折はあったが、彼女は諦めて彼女用に敷いた布団に戻った。

 一方、富嶽娘にしてみれば〈拒絶〉された事で、そのプライドが傷付けられたのは間違いない。翌日の朝、感情が全く感じられない口調で、『泊めてくれて、ありがとう』という言葉だけを残し、アパートから出て行った」


 この話を聞いた瞬間、直さんの〈怖さ〉を知った気になる。

 おそらく普通の男なら、「まぁ、泊めてやったんだし、彼女からの誘いだし……」と、女を抱く筈。はっきり言ってしまえば、好きな言葉じゃないけど、『据え膳食わぬは男の恥』という諺もある程。その上、私も女だから解るけど、〈勝負〉に出た時、拒絶されたら女としてのプライドはズタズタにされる。直さん、それを解っていながら、自分の目的……、富嶽娘を追い出すという目的を遂行する為に「男の恥」を敢えて選択したんだ。

(直さん……、やはり、普通の人じゃない……)

 直さんの話が続く。

「今回の一件で俺は富嶽娘のプライドを大きく傷付けただろう。その結果、もう、彼女と会う機会は『ない』と考えていた。しかし、運命は更なる悪戯いたずらを仕掛ける」

(まだ、続くの?)と思いながら、私は話の続きを聞く。

「その前に前提となる話をしておこう。もし、あの夜、月曜日からの出張がなかったら、俺と富嶽娘が、どうなっていたか判らない。まぁ、俺も男だし……、未練がなかったと言えば嘘になる。しかし、俺と富嶽娘との間には何もなかった。その為、俺は彼女を直ぐに忘れられると思っていたんだ。だが、ここでも運命は悪戯を仕掛けていった。彼女が帰った後、一冊の本が俺の部屋に残される。岩波文庫版の『富嶽百景 走れメロス 他八篇』だ」

 私はテーブルの上にある太宰治の文庫本を手にして、「もしかして、この本?」と尋ねた。

「そうだ」と、一言だけ発した後、直さんは話を続ける。


「この本を見付けた時、富嶽娘は『忘れた』のではなく、『わざと置いていった』と直感した。そこには、『私の事を忘れないでね』というメッセージが込められている様な気がしたんだ。もし、俺の推測通りに『忘れた』のではなく、『置いていった』のだとしたら、その効果は余りにも絶大だった。

 それ以降、太宰の『富嶽百景』……、いや、太宰が書いた本を見ると富嶽娘を思い出す様になる。

 俺は、この時、彼女の居場所を知らなかった為、こちらから連絡が出来なかった。だが、その連絡先が判っていたなら、彼女と会う努力を惜しまなかっただろう。しかも、相当な努力を……。俺の中で彼女が魅力的な女性としてイメージされ始めたんだ。そして、彼女の話が……、あの上手い話が聞きたいと強く思う様になって行く。

 この頃、俺には縁談話が何件か舞い込んだが、全て断わった。それは『女』としての富嶽娘が俺の中で満たされていた為……」


(魔性の女……)

 そんな言葉が私の脳裏をかすめる。おそらく、富嶽娘は自らのプライドが傷付けられた事に対して、最後の抵抗を試みたんだと私は感じた。更に、その抵抗は結実してしまう。

(直さん、富嶽娘に恋をしてしまったんだ!)

 たった一冊の文庫本を上手く利用し、直さんの心を鷲掴みにしてしまった富嶽娘。正に「魔性の女」だからこそ出来る仕業しわざだと私は痛感した。

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