【第7回】
「太宰の『富嶽百景』は、自らの体験を記した小説とされている。山梨県にある御坂峠の山頂に建てられた『天下茶屋』という所で太宰は生活するのだが、当初、太宰は、ここから見える富士山が好きになれなかった。太宰自身、その富士山を、『軽蔑さえした』と記した程だ。
しかし、太宰は、ここでの生活を続ける内に富士山の見方が変化する。時には、『富士は、やっぱり、いいとこあるねえ。よくやっているなあ』と富士山を評価した。
富嶽娘は『富嶽百景』という作品を『富士山の見え方』を通して、太宰の心境が変化していく過程を描いたものだと理解したらしい。その解釈が正当なものなのか、どうなのかは知らない。その一方、彼女が実際に『富嶽百景』を読んで、そう感じたのなら、(それで構わない)とも考えていた。何故なら、それが富嶽娘なりの解釈と捉えたからだ。
富士山の様子を太宰が『良いと感じない時』は、心理状態が不安定な状態となっており、ネガティブになっている証拠、反対に富士山が『良いと感じた時』は、太宰の心理状態が安定しており、ポジディブになっている証拠だと力説する。
そして、『人間は気持ちを切り替えれば、精神的に、どん底にいても、必ず這い上がれる事を『富嶽百景』は、教え様としている』と、俺に説明した。
『私、落ち込んだ時には必ず『富嶽百景』を読んで自分の気持ちをリセットする様にしているんだ』と、彼女は告げている」
(『富嶽百景』かぁ……、読んでみようかな……)と、私は思いながら、直さんの話を聞き続けた。
「一部の太宰作品には『死を匂わす』著作がある。実際に『自殺の事ばかり考えている』と、記した作品もある程だ。もちろん、その様な作品ばかりではないが、太宰自身が〈自殺未遂〉を繰り返し、最終的に自殺したという結果、太宰の作品に対して、その様なイメージが強く植え付けられて、しまったという側面があるのも事実だろう。
しかし、『富嶽百景』には『自殺』という言葉は出て来ない。『死』という文字は二回登場するが、『必死』や『決死隊』という言葉の中で使われているだけ。『富嶽百景』に『死の匂い』は、ない。いや、ネガティブからポジティブな心境へと変わる過程を描いた『富嶽百景』に対して、彼女は特別な感情を抱いたのだと俺は理解した。それは一部とはいえ、『死の匂い』が感じられる太宰の作品だからこそ、より強く彼女が、そう感じたんだと俺は思っている。
後に俺も『富嶽百景』を読み返してみたが、『死を選択しなくても、人間は変われる…… 』というメッセージが含まれていると感じたのも事実だ。だが、これは富嶽娘の話を聞いた後に読んだ為、そう感じたのかも知れない。
まぁ、ここまでは、太宰の作品に関する話しなんだが、運命は、ここで俺に悪戯を仕掛けた」
「運命の悪戯?」と、私は思わず呟く。直さんは、この言葉を聞き逃さなかった。
「そうだ。この瞬間、俺と富嶽娘の関係が始まったんだ……」と言って、話を続ける。
「ここで彼女は持っていたバッグの中から一冊の文庫本を取り出した。角川文庫版の『走れメロス』だ。この本には『富嶽百景』も入っている。彼女が『富嶽百景』を持ち歩いているのは『今、自分をリセットしたいのでは、ないか?』と俺は推測した。案の定、彼女は身の上話を始める。それは、暴力を振るう事があった彼氏と最近別れたという内容だった……」
「ねぇ、それは『誘っている』っていう解釈でいいの?」と、私は思わず口を挟む。直さんが富嶽娘と呼ぶ女性の話は、「今、彼氏がいないから寂しい」と、訴えている様にしか聞こえなかったんだ。
(もし、そうだとしたら……)と、考え始めたのと同時に直さんの口が開く。
「富嶽娘の話だと、情報量としては多くないものの、俺に関係する話題は三滝から聞いているという。『あなたが私を知らなくても、私は、あなたを知っている』とアピールしたんだ。その言葉の裏に、『私の事を知って欲しい』という意味合いが含まれているのは俺にでも察しが付く。端的に言ってしまえば、美礼ちゃんが言う通り、『誘っている』……、つまり、『お付き合いしませんか?』と暗に、ほのめかしていると俺も感じた。こういうシチュエーションになった時、男の行動は二つに分かれる。その話に『乗る』か『乗らない』かだ。だが俺は、この時『どっち付かず』という例外的な選択肢を選ぶ……」
「『どっち付かず』って?」と、私は半ば無意識の内に口を挟んでいた。
「『彼氏には、ならないけど、友達程度なら……』という中途半端な対応を選択したって訳だ。正直に言ってしまえば、彼氏と別れて直ぐに他の彼氏を求める様な女に俺は興味がない。ただ、この富嶽娘、話が凄く上手いんだ。太宰の話を聞いている時もそうだったが、一方的に話はしたものの、その内容は俺にとって楽しめるものだった。『彼女の話が、もっと聞きたい!』と、思ったのも事実。このまま『さようなら』をするには惜しい娘だと思ったんだ」
(直さんって、この辺の判断、上手いんだよね……)と、私は感心した。
一部の女性には常に男性がいないと精神的に落ち着かない人もいる。中には複数の男を〈確保〉している場合もあるけど、一人の男性しか愛せないにも関わらず、その男性と別れた瞬間、次の男性を求める人もいるんだ。だから、常に愛しているのは一人だけ。
私としては、この様な性格の女性は好きじゃない。だけど、自分自身を振り返ってみると、これと同じ事をしている。そういう意味では他人に対して、『とやかく言える立場じゃない』のは解っているけど、『私の場合は、単なる『尻軽女』じゃないのよ!』という意識が強い。『私は男性に対して、真剣なの!』という自負があるのも確か……。
私、直さんの話を聞いていて、この富嶽娘が、どのようなタイプの女性なのか気になり始めていた。単に『男好き』なのか、それとも、何かの理由があって『男と長く続かないだけ』なのか……。
直さんの話で中断してしまったけど、私が、(もし、そうだとしたら……)と、考え始めようとした理由が、ここにあったんだ。きっと、直さんも、この点を見極め様としたんじゃ、ないかな。だから、「どっち付かず」という曖昧な態度を採用したと私は考えた。




