【第6回】
缶ビールを、そのまま口にして一気に喉に流し込んだ直さんは、「その缶、まだ入っている?」と、私の前にある缶ビールを指差す。私は缶の中に残っていたビールをグラスに注ぎ、「空」と、一言だけ発した。
直さんは再び立ち上がり、冷蔵庫の中から、私にとって五本目、直さんにとって六本目となる缶ビールを取り出し、テーブルの上に置く。五百ミリリットルの缶がテーブルの上に十一本並んだ。中々、壮観な光景。
「呑み過ぎよね」
自戒の念を込めて私が、そう言うと、「正直に言って、動揺しているのも確かなんだ……」と、直さんは呟き、言葉を続ける。
「美礼ちゃんは、何回か俺の過去を聞き出そうとしたが、気になるかい?」
その言葉に黙って頷いた。私が口を開かなかったのは何を言えば良いのか、適切な言葉が思い浮かばなかったから……。酔いが回っているみたい。普段なら何の躊躇もなく、言葉が出て来るのに……。
直さんが話し始める。
「俺が今まで美礼ちゃんに自分の過去を話さなかったのは、一人の女性が俺の転機になる場面で度々、登場していたからなんだ。俺は過去の話に「もし」を加えても意味がないと考えている。だが、彼女だけは別。もし、彼女と会うタイミングが〈ズレ〉ていたなら、俺は和乃と結婚していなかったかも知れない……、いや、高確率で和乃と結婚していなかった筈だ」
(!)
私の中に衝撃が走る。
(姉貴と結婚していなかった? どういう意味?)と、思った瞬間、直さんの口から言葉が紡がれた。
「彼女は俺よりも二歳下の女性……。俺は心の中で彼女を『富嶽娘』と呼んでいるんだが、今日、その富嶽娘と会い、和乃の妊娠を知った事で肩の荷が下りた気になったんだ……」
「『肩の荷が下りた』って?」という私の疑問に、「今なら、美礼ちゃんに俺の過去が話せそうだ。それを聞く気があるなら、『肩の荷が下りた』という言葉の意味が解ると思うが、俺の話を聞く気は、あるかい?」
私はグラスに入っていたビールを飲み干し、五本目の缶ビールを開け、グラスに注ぐ。そして、「聞く気、満々!」と告げる。
直さんは一度、笑った後、自分の缶ビールを手にして、プルトップを開けた。そして、直さんの話が始まる。
「高校三年の時、三滝というクラスメイトから、文化祭に関する相談を持ち掛けられた。詳細は覚えていないが、何故か、「二人っきりで話そう」という事になる。俺は三滝が住んでいた街の最寄駅で待ち合わせをした。
この待ち合わせ中に三滝は当時、付き合っていた女の子と会ってしまう。別の高校に通う女子生徒で一年生だった。三滝と彼女……、この彼女が富嶽娘なんだが、どこで知り合ったのかは知らない。正直に言って興味はなかった。
富嶽娘には失礼だが、容姿としては、ごく普通の女の子。特段の美人でもなければ、特別に可愛い子でもない。俺は彼女に興味を持たなかった」
私は黙って、直さんの話を聞き続ける。
「『会ってしまったのは、仕方ない』と、三人は駅前にあった喫茶店に入り、俺と三滝は何だかの打ち合わせをした。その内容は、もう覚えていないが、二人の話が終わった処で富嶽娘が俺に質問をする。
『太宰治って読んだ事、ありますか?』って。同時に彼女は、「相当な太宰ファン」とも告げていた。
一方、彼氏である三滝は小説に全く興味がない。富嶽娘にしてみれば、太宰の話をしたいんだが、三滝じゃ相手にならないから俺に話題を振ったんだ。
俺自身、太宰に対して特段の興味は持っていなかった。それでも何冊か読んでいる。これを知った彼女は一気呵成に太宰の話を始めた。俺は何度か富嶽娘の話に加わろうとしたものの、彼女は一方的に話すだけで俺の口は一切、挟ませない。
(なんだ、こいつは……)と、内心思っていたが、話を聞いている内に、ある事に気が付いた。彼女、そんなに多くの太宰作品を読んでいない様なんだ。半面、読んだ作品については、かなり詳しい。つまり、一つの作品を『深く読み込むタイプの読書』をしていると判断した。
その中でも彼女は『富嶽百景』という作品が、お気に入りだと理解する。俺が彼女の事を『富嶽娘』と呼んでいる理由が、これだ」
「『富嶽百景』が好きな娘だから『富嶽娘』ね」と私は、ここで短く口を挟んだ。
直さんの話が続く。
「いくら友人とはいえ、学校が違う三滝の彼女と頻繁に会う筈がない。実際に高校時代、富嶽娘と会ったのは、この一回だけ。その後、四年近い月日が流れた。
大学四年の時、俺は卒業出来る目処はついたものの、就職先が決まらず、物凄く焦っていた時期がある。
その様な時に偶然、富嶽娘と再会した。声を掛けてきたのは彼女の方からだ。俺は一瞬、(誰?)と思ったが、富嶽娘が簡単に自己紹介した為、全てを思い出す。
俺は、『お茶でも飲みませんか?』と彼女を誘っていた。そして、近くにあったファミリーレストランへと入る。
実は高校卒業後、俺は三滝と一度も会っていない。何度か連絡したのだが、音信不通となっていた。三滝の彼女である富嶽娘なら、(彼の所在を知っているのではないか?)と思い、お茶に誘ったのだが、二人の関係は既に終わっており、三滝の所在は知らないという。実質上、俺は彼女と話す話題をなくしてしまった。
この後、何となく話題が太宰へと移る。俺は、この時、彼女が『富嶽百景』を好んでいる理由を知った」
直さんは、ここで缶ビールを口に運ぶ。そして、話を続けた。




