【第5回】
「俺には、何だかの転機が訪れた時、高確率で会う人物がいる。今日、その彼女……、その人物、実は女性なんだが、内心、(今日は何か重要な事態が発生する!)と思いながらも、彼女と会えた事に対して、心が〈ときめいた〉んだ……」
(直さんが心を『ときめかせる女性』……、そんな話、初めて聞いたわ!)と思いながら、私はグラスのビールを口にし、次の言葉を待った。
「そうしたら、案の定だ。和乃からのエアメール。そして、妊娠。これには正直、驚いた……」
(そっちの話じゃない!)と、私は心の中で叫ぶ。
(姉貴の話は、どうでもいい! その〈女性〉の話が聞きたい!)と思いながらも、私、自分の中で広がり始めた不安感に気付く。胸が締め付けられる様な感覚を覚えた。しかも、その原因に気付いている。直さんの、「ときめいた……」という言葉に私の心が反応しているんだ。
私は自らを襲った、その感覚を否定するのに必死となり始める。正直に言って、〈それ〉を認めるのが怖かった……。でも、〈それ〉を〈完全否定〉する程、私は自分の感情をコントロール出来ない。アルコールによって阻止されているんだ。酔った思考回路が暴走を始める。時を同じくして、私の中にいる、もう一人の私が叫んだ。
(直さんを〈ときめかせる〉、その人って、誰!)
私、気付いていた。
(直さんが好きなんだ……)って。
でも、直さんの事を「男」として好きかと言われれば、そうじゃない。もし、そうなら、私、彼氏は作れないと思う。何故なら、それは直さんに対する背信行為だと認識しているし……。
男性とお付き合いを始める時、私の脳裏に直さんの顔が浮かぶ。そして、今度こそ、「良い彼と出会ったな」と、直さんに言って貰いたいと切望する。そう考えて、お付き合いするんだけど、毎回、〈振られて終わり〉という結末が待っているんだ。だから、懲りずに他の男性とお付き合いをする。直さんも、「今度は、どれだけ続くかな?」と言いつつも、私の幸せを願ってくれている……、と、思う。
私も三十二歳。結婚に対して、焦っているのも事実。しかも、元々結婚願望が強い。心に余裕がないのも認めるわ。その為、言い寄って来る男性に対して一応、〈品定め〉は、するものの、合格点が付けられれば、お付き合いを始める。そのハードルは若い頃に比べると低くなったけれど、まだ高い方だと思う。その自覚もある。
身体が目当てと思われる奴は無視するし、誠意を見せない男もお断り。真剣に「結婚」という二文字を念頭に置いたお付き合いしか、しない。でも、最終的には振られちゃう……。
そんな時、直さんは必ず、「次がある。君の姉さんと結婚した人間もいるんだ。世の中には君の事を理解してくれる人が絶対にいる筈だ」って、言ってくれる。
私の中で直さんは、「私を理解してくれる〈お兄さん的〉な存在」だと考えていた。でも、それは無意識の内に、そう思う様、自らによって感情をコントロールしていたのかも知れない。直さんの、「ときめいた……」という言葉で私の感情が揺らぎ出したのが、その証拠。私の中にある〈それ〉……、直さんを「男」として見る自分……、私は、〈それ〉を認めるのが怖かったんだ。
今、私、直さんの心を〈ときめかせた〉、その女性に対して、複雑な感情を抱いている。「嫉妬」とまでは言わないけど、それに近い感情……。
アルコールの所為で無意識の内にコントロールしていた直さんに対する感情の箍が今、外れ様としているのかも知れない。半面、酔っているとはいえ、私の脳内は、まだクリアな状態。だいぶ感情が掻き回されているけど、冷静に判断出来る筈……。
「ねえ、直さんが『ときめく人』って、どんな人?」と、出来るだけ平静を装いながら、質問してみた。私にしてみれば「勝負に出た!」んだ。何しろ、その「ときめいた人」が気になって仕方ない……。
直さんが発した、「気になるかい?」という言葉に、「直さんが『ときめく人』って、『どんな女性なんだろう?』って思ったの。だって、直さん、姉貴と離婚してから、女性とお付き合いしていないでしょう? そんな直さんが、『ときめいた……』なんて言うし、気になって……」と、私は極力、冷静に応じた。
直さんは五本目の缶ビールを直接口に付けた後、「ちょっと失礼」と言って立ち上がり、トイレへと向かう。そして、用を済ませた後、リビングを素通りして、自分の部屋に行ってしまった。
(何をしているんだろう?)と思っていると、直さんは一冊の文庫本を手にして戻り、テーブルの上に、その文庫本を置く。私は、その本のタイトルを見た。そこには『富嶽百景 走れメロス 他八篇』と記されている。
「太宰治?」と、私が尋ねると、直さんは、「太宰の『富嶽百景』を読んだ事は、あるかい?」と聞き返されてしまう。
「太宰は『走れメロス』と『人間失格』ぐらいしか読んでいないけど……。でも、昔の話だし、内容は忘れちゃったわ……」と、私は応じた。
「そうか……」
そう言って、直さんは少し考え込んでしまう。私は無理に言葉を掛けずに、直さんが話し始めるのを待った。




