【第11回】
「えっ? どうして?」という私の驚いた声に対し、微かな笑みを顔に浮かべながら、直さんは言葉を続けた。
「富嶽娘の妊娠を知ったのは今から十一年前。この時、美礼ちゃんの周りで『ある事件』……、まぁ、『事件』という言葉は不適切かも知れないが、『ある事』が起っているんだけど、覚えているかな?」
「十一年前……」と、呟きながら私は悩んでしまう。
(何が、あったんだろう……、十一年前……)と、考え込んでいる時だった。直さんの口が開く。
「俺と和乃が付き合い始めたのが十一年前……」
「あっ!」と、私は大きな声を上げた。
「和乃との関係を話す前に、時間を少し戻すが……」と言って、直さんは言葉を続ける。
「その話は俺が富嶽娘のプライドを傷付けた函館出張の時だった。営業統括部にいた俺は本社の人間として、函館支社の担当者と営業活動を行うのが目的だったが、この時、函館支社にあったパソコンの一部がコンピュータウイルスに侵されるという事態が発生したんだ。これに対応したのがパソコンに慣れていた俺だった。これが切っ掛けとなって俺はシステム部に異動する。
そして、歳月が流れた。十一年前、和乃の所属する販売第二課が使用していたパソコンで運用上の問題が発生する。その対応に当たったのが和乃と俺だった。
君も知っての通り、灰汁が強く、性格が厳しい和乃との共同作業は、それこそ真剣勝負だったが、物凄い充実感を得たのも事実だ。
そんな時、俺は失恋する。それは同時に富嶽娘から解放された事を意味していた。これが要因となり、俺の中で和乃の存在が大きくなり始める。そして、結婚を申し込んだ。
さっきも言ったが、頭の中が富嶽娘で満たされていた時期に俺は、持ち掛けられた縁談を何件か断わっている。実は、一件だけだが、相当な……、『これ、何かの間違いだろう?』と、疑念を持った程の好条件が提示された話もあった。はっきり言うと、この縁談だけは今でも気になる……」
「じゃぁ、直さんと姉貴が結婚出来たのは……」という私の言葉を直さんが受け継ぐ。
「そう、俺は富嶽娘と出会った結果、和乃と結婚出来たんだ。結局、和乃とは離婚してしまったが、俺は一切の後悔をしていない。まぁ、今回の妊娠に関して物凄く驚いたのは事実だが……。
半面、もし、俺と富嶽娘との間で〈タイミング〉が合っていたら、和乃とは結婚していなかっただろう。
俺が就職活動をもう少し早く終わらせ、彼女と会う機会があったら……、彼女が俺のアパートに来た時、俺に出張の予定が入っていなかったら……」
「直さんは富嶽娘と結婚していた可能性がある……」と、私は呟く。
「運命が悪戯を仕掛ける過程で俺と富嶽娘が擦れ違う事はあっても、俺達が持っていた〈歯車〉は噛み合わなかった。正直に言ってしまえば、富嶽娘の俺に対する感情が、どの様なものであるのかは知らない。しかし、彼女の方から声を掛けて来たり、アパートへ来たりしている事実を考慮すれば、俺に対して悪いイメージは持っていなかっただろう。そして、俺は富嶽娘に夢中となった……。会えもしないのに……」
直さんは、まだ少し焼酎の水割りが残っているカップに氷を入れ、焼酎だけを注いだ。それを一口だけ飲んで話を続ける。
「富嶽娘の妊娠によって、俺は彼女から解放された。そして、今回、和乃の妊娠によって、俺は和乃からも解放される。母となる和乃の人生に俺が関わる事は、もうないだろう。俺の過去を話し始めた時に言った、『肩の荷が下りた』というのは、そういう意味だ」
この言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが崩れて行くのを感じていた。これが要因となったんだと思う。酔いが一気に回り始める。
「俺は富嶽娘に感謝しているんだ。そんな彼女と今日、偶然、出会った。『女』としてではなく、富嶽娘の存在自体に俺は〈ときめく〉。それは昔の恋人に会った様な感覚が含まれていたのも事実だが、彼女の娘、そして、息子も連れ、生き生きと楽しそうに買い物をしている富嶽娘の姿に〈ときめいた〉んだ」
直さんは焼酎が入ったカップを口にしてから、言葉を続ける。
「今日、彼女とは簡単な挨拶をした。その後、『今も『富嶽百景』を読んだりするのか?』と尋ねてみる。その答えは、『もう、太宰は読んでいないわ』だった。これが何を意味しているのか、美礼ちゃんには理解出来るだろう。彼女……、富嶽娘は幸せを……、『本物の幸せ』を手に入れたんだ……」
直さんの顔に微笑みが浮かぶ。その口が再び動いた。
「ちなみに、旦那の実家が、この街にあるらしい。『夫にしてみれば、久し振りの里帰り』と説明した。ちょうど、俺がビールを買いに行った駅前のスーパーが特売日だった為、『少し足を伸ばしてみた』という話だ。もちろん、俺は彼女の連絡先を聞かなかったし、俺の連絡先も教えなかった」
直さんの話が薄らと耳へと入って来る。でも、その内容は余り理解出来なかった。
私の状態に直さんも気付いたみたい。
「一気に酔いが回ったか……」と呟き、「隣の部屋に布団が敷いてある。どうせ、泊まるだろうと思って用意しておいた。化粧だけは、しっかり落として寝なさい」と言ってくれた。
イスから立ち上がってみると、私の足取りは思ったよりも、しっかりとしている。そのまま洗面所へと向かい、持っていたクレンジングを使って化粧を落とし、昔、姉貴が使っていた部屋に敷かれた布団に潜り込む。
(直さん、解放されたんだ……)
それだけが、頭の中を支配していた。
私は今、一人暮らし。実家には両親と兄貴、そして、兄貴の子供が二人いる。姉貴にも子供が出来た。しかも、双子だって……。
(私も子供、欲しいな……)と思った瞬間、直さんの顔が思い浮かんだ。
私と直さんが会っている事は家族の誰も知らない。まさか、直さんのマンション、しかも、昔、姉貴が使っていた部屋で私が寝ているなんて誰も想像していない筈。
ちょっとした背徳感を味わう。でも、嫌な感じはしなかった。
(私達、少し変わった間柄……。でも、男と女なんだよね。口説いてみようかな……、直さんを……)
ぼんやりと、そう考えながら、私は眠りに就いた。
富嶽娘(了)
参考文献
『富嶽百景 走れメロス 他八篇』(太宰治) 岩波文庫 1988年11月15日 第38刷




