【第10回】
私はグラスに残ったビールを飲み干す。直さんも、それに倣った。
ほぼ同時に私は、「ちょっと……」と言って、トイレを借りる。
そこから戻ると十二本あった缶ビールの林とビールグラスが消え、代わりに麦焼酎の四合瓶と氷が入った、氷入れ《アイスペール》と陶器で出来たカップが用意されていた。
「炭酸水、あったと思ったんだが、なかった……、と、言うより、炭酸水のつもりで買って来たペットボトル、実はミネラルウォーターだった……」と、直さんは笑いつつ、そう言いながら、ペットボトルに入ったミネラルウォーターもテーブルの上に置く。
「後は適当に……」と言って、直さんは焼酎の水割りを手際よく作った。私も、それに続く。焼酎の量は少なめにしたが……。
その水割りを飲みながら、私は気になっていた疑問を口にする。
「結局、直さんは結婚相手として、姉貴を選んだんだよね。富嶽娘の事は吹っ切れたの?」
「実は、その段階でも運命は悪戯を仕掛けるんだ」と言って、焼酎が入ったカップを口にした後、直さんは話を続けた。
「次に富嶽娘と会ったのは、更に三年が経過した時だ。突然、彼女がアパートに現れた。俺の心が〈ときめく〉。その際、彼女を手放さない様にするには、どうしたら良いのか、そればかりを考えていた。取り敢えず、話の切っ掛けとして俺の部屋に忘れた文庫本の話をすると、『もう、いらない』と言って、衝撃の言葉を俺に告げる」
「『衝撃の言葉』?」と、瞬時に尋ね直す。
「『妊娠した』という短い言葉……」
(!)
私は絶句した。そして、富嶽娘……、いや、魔性の女が何を計画して、何を実行したのかを理解する。
(復讐したんだ……、この娘……、自らのプライドをズタズタにされた復讐を……)
「ねえ、直さん、一つ確認したいんだけど……」という、努めて平静を装った私の言葉に、「何だい?」と直さんは応じた。
「直さんが富嶽娘をアパートに泊めた時、月曜日から出張する為、一晩しか泊められないという説明はしたの?」
「もちろんした。それが一晩しか泊められない理由だったんでな……」
「そう……」と言って、私は話を始める。
「富嶽娘は直さんに復讐したかったんじゃ、ないのかな。直さんは彼女を抱かなかった。結果として『女としてのプライド』が傷付けられた富嶽娘は復讐を目的として、わざと太宰の文庫本を置いていく。
『いつかこの本、取りに来るね』と……。
一方、その裏では、『次に会った時は、私を好きにして、いいのよ』と、暗に示しながら、直さんが持つ〈男の欲望〉に対し、『富嶽娘の存在』という〈火種〉を残す手法を使ったんだと思う。
富嶽娘にしてみれば、直さんが『自分』……、つまり、富嶽娘に未練を持つか、どうかは判らない。でも、未練を持ってくれたら、富嶽娘の勝ち。結果として、直さんは富嶽娘に負けてしまった。そして、その結果を知る為に直さんの前へと再び現れる。もし、直さんが富嶽娘の仕掛けた勝負に負けていた時、更なる追い打ちを掛ける為、妊娠という事実までも用意した。三年という歳月が必要だったのは、この懐妊が実現する為の期間。彼女は自分の妊娠すらも利用して復讐の結果を知りに来たんだと思う」
直さんは焼酎が入った陶器のカップを口にしてから、話し始めた。
「おそらく、美礼ちゃんの推測通りだろう。俺も、そう考えた事がある。但し……」
「『但し……』?」と、私は口を挟んだ。それに直さんが応じる。
「美礼ちゃんの推測に対して、『おそらく』という言葉を付けたのには理由があるんだ。
話の前半、つまり、俺が富嶽娘に未練を持った処までは、その通り。しかし、彼女が『自らの妊娠を利用してまでも、更なる追い打ちを掛ける』という意見には疑問の余地がある。絶対に違うとは言い切れないが……。
その理由として、富嶽娘は自分の事は好き勝手話すが、俺自身に関しては、ほとんど尋ねていない。つまり、富嶽娘は俺に彼女がいるのか、どうか確認しないで行動を起こしているんだ。そういう意味に於いて富嶽娘は『自分勝手』とも言えるが、優しい目で見れば『自分に正直』と、表現しても良いのかも知れない。
確かに太宰の本を『置いていく』という行為は、俺に対する復讐心の現れだったのは間違いないだろう。だが、その裏には、『私を忘れないで!』という切実な思いがあった様な気がするんだ。その証拠に彼女は自らの妊娠を告げた際、『ごめん』とだけ言った。この言葉の意味、美礼ちゃんなら、どう解釈する?」
「『もう私、あなたのものに、なれない……』という意味……」
そう言いながら、私は姉貴の懐妊を思い出していた。同時に、「妊娠という事態によって姉貴は、もう、直さんの許に戻る可能性はなくなった。妊娠とは、そういうものだ」と、考えていたのを思い出す。
(富嶽娘は自分が仕掛けた復讐の結果を知る為ではなく、謝りに来たって事?)
私の頭が一気に混乱した。コップの中にある焼酎の水割りを飲み干し、新たな水割を作る。今度は焼酎の量が多めだ。
「私、何か、混乱している……」という言葉に直さんが反応した。
「俺に対する復讐心を富嶽娘が持っていたのは間違いないだろう。しかし、単なる復讐心だけなら、もっと早い時期に俺の様子を見に来る必要があった筈だ。人間、会えない人をいつまでも待ち続けられる程、『真っ直ぐな思い』を維持出来ない。生きていれば、数々の誘惑を受けるからだ。普通なら、それを跳ね除けてまで会えない人に固執しないだろう。まぁ、俺の場合は『固執』してしまったが……。だが、富嶽娘を〈想い続けた〉事を俺は後悔していない。いや、むしろ感謝している程だ……」




