愛すること
朱雀城後宮蘇芳は、元々立ち入ることの出来る人物が厳選されるが、ここ数日警備は更に強化され、出入りできる人物も総入れ換えされた。
騒然とした空気は世界単位のもので、それは誰の目にも明らかだった。動乱とも変革ともとれる時の流れの中、しかしその城の主らだけは、世界から切り離されたかのように静かで無垢で、残酷だった。
昴は藍の傍を離れなかった。鬼神が乗り移った柳瀬嘉瀬村は、世界中の夜叉もろとも克羅藍によって滅ぼされた。これはこの世界の『事実』で、喜びと戸惑いが朱雀城内にいても感じられる。悲壮感はあまりない。それだけ柳瀬一族は信用を失っていたのだろう、と思うと、愚かすぎて嘲笑すら隠し得ない。
寝台に横たわる藍の横顔を見つめる。小さな掌を包む手に、昴は僅かに力を込めた。
世界の全てが終焉を迎えたあのときのあの場所で、昴は確かに鬼神に支配されていた。何もかもを捨てて藍と生きれたなら、藍を望めたなら。そう思う己がいることは知っていた。
だが、昴は鬼神に身体を奪われるまで気づくことができなかったのだ。紅蘇だとか国だとかそんなものは、藍とは比べられるはずもなく、大切で愛しくて――奪ってしまいたかったことに。
克羅という姓から、碧の国から、彼女を必要とする全てのものから奪い、己だけのものにしてしまいたかった。決して綺麗な感情ではない。欲だけに支配された誰の幸せも望めないその想いに昴は気づかなかった。いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。恋い焦がれ、渇望し、大きくなってゆくばかりのそれは、確かに昴の中で強く脈打っていたのだから。
それでも抑え込んでいられたのは、ただ藍の幸せを思っていたからだ。藍のためなら。何にも変えられない、愛しくてやまない彼女のためであるなら、昴は願うだけでいられた。
けれど、藍が朱雀城内に――すぐ近くにいるのだと分かったときには、願うだけ、とはならなかった。生涯二度と会うまいと覚悟し、決別したはずの少女。その少女に触れて、抱き締め、そうして二度と離したくないと思ったときには、己の中に鬼神の存在を許すこととなってしまっていた。
藍の短くなった髪が額にかかっている。その髪をそっとどかし、そのまま頬に触れる。今にも起きてきそうな安らかな表情なのに、藍が目覚めることはもはやない。それは昴自身が良く分かっていた。
昴は一度死んだのだから。藍を望み、鬼神に心体を乗っ取られ、実の父をも殺した。心を食われた中で思うのは、藍が欲しいというそれだけだったのだ。
だが、最期の最後で藍の幸せを望むことができた。
だから死ねた。あの剣で藍に己を貫かせたときに、自分自身でいられたことだけが、救いだった。
鬼神に引っ張られるように陥った先は、今思い返しても寒気がする。虚空でも闇でもない。無、そのものだった。
その中で感じた温もりと、頬に落ちてきた滴が、何であるかを昴は知っているーー。
ふと、昴は背後に人の気配を感じて振り向いた。いつからそこにいたのか、まるで場に溶け込むようなそれに、しかし興味は沸かなかった。
「藍の様子はどうだ?」
壁に寄りかかり、腕を組んでこちらを見つめる姿に既視感を覚えた。白西国に滞在してから、随分な時間が経過しているのに、そのときのことを鮮明に思い出すことができた。ーーあの頃は、何よりも大切なものが、まだ手の届くところにあった。
何も言わない昴の隣の座椅子に、祈真は乱暴に座った。
「飯ぐらい食え。食べてくれないと訴えられる俺の身にもなってみろ」
昴と一切視線を合わせることなく祈真は言う。
「ただでさえ、碧とも紅とも関係ない俺や遥世がてめーらの代わりを受け持ってるっつーのによ。大体、弥春には藍の世話だけ頼んでんだ。お前のことまで面倒かけるな」
「……すまない」
自然、声が震えた。
「……一応報告しとく」
祈真はそれに応えることなく、淡々と言った。
「まずは柳瀬一族。名目上は城の後宮に保護していることになってるが、実際のところは軟禁状態だ。特に紅子のいる撫子には厳重に見張りを付けてある。あのガキに何か出来るとは思わねぇが……事情が事情なだけに、仕方ないだろ。内情が極一部に留まっているだけ良しとするしかない。まあ、剛山や隆生らによるけどな。あいつらが許さないと言えば俺もお前の弟を庇えねーし、少しでも洩れれば手だてはない。今のところはまだいいが……」
言いながら祈真は藍に視線を向ける。その先に続く言葉を昴は分かっていた。――藍が目覚めなければ、いずれその咎で和歌滝は処される。
「大きな反乱も特にない。捕虜を逃がすとかで騒ぎ立てた一部のやつらがいたが、大したものじゃなかったからうちの軍で抑えた。克羅でも特に問題は起きてないという報告を受けている」
「……そうか」
沈黙が流れる。
「……あれから三日だ」
祈真が呻くように言った。
「藍は一度も目を覚まさないのか?」
ギュッと、昴は唇を噛んだ。血の味も慣れたものだった。それを見やり、しかし咎めることなく祈真は言う。
「青の勾玉は割れた。月華の剣も折れた……。碧の一族の血は途絶え、月の神子の……藍の役目は終わったはずだ。だが、藍は生きている」
祈真は藍の頰に手を伸ばす。
「息をしている。呼吸がある。分かるか?生きてるんだ」
細い筋を辿るように、言い聞かせるように、祈真は言う。
「難しいことは俺には分からん。遥世が言うように、藍の魂はここではないどこかに、閉じ込められたままなのかもしれねー。けどな」
祈真は、昴の肩に手を置いた。
「死んでない。それにはきっと意味がある。勾玉が割れて死を示しているはずなのに、こいつはただ眠ってるだけなんだ。希望はある」
一度死んじまったやつが、と祈真は続ける。
「へこたれるな。お前以上に希望をもてるやつはいねーんだぞ昴。お前は死から甦ってきたんだ。藍より断然すげえことしてるじゃねーか」
祈真様、と仕えの者から声がかかった。今行く、と祈真は返事をし、昴の肩から手を離す。
「藍は生きてる。そんな辛気臭い顔でそばにいるんじゃねーよ。せめて愛の言葉の一つでも囁いてやれ」
また来る、との言葉を最後に、祈真は部屋をあとにした。本来なら昴が片付けねばならない仕事を、祈真や遥世を始め、紅の官吏や、碧の将らが動いてくれているのを、昴は知っていた。使いものにならない自分の代わりに、彼らは動いてくれている。
嘉瀬村という悪の化身を滅ぼしたのが、碧の宝である藍姫と、帰郷した紅蘇若宮の昴の二人であると、祈真や遥世が世間に話を流し始めたのも、頭の片隅で知っていた。碧の姫と紅の若子が協力したからこそ、鬼神を消滅することができたのだと。
歴史は創り上げられていくものだと、漠然と思う。
昴は鬼神に乗っ取られただけだ。そして意志も何も持たぬままに、実の父を殺したのだ。
「藍」
柔らかな髪。すべらかな頰。藍が藍たるその姿をじっと見つめながら、もう何度目になるかーー昴は名を呼ぶ。
祈真は知らないのだ。昴が甦ったのは、他でもない、藍のおかげだ。藍が自らの魂と引き換えに、昴を現世に呼び戻したのだ。昴の力でもなんでもない。
「藍……どうしたら……お前に会える?」
ーー愛おしい、目の前の少女に会いたい。
望みはただ、それだけなのだ。
昴の胸元で、美しく輝く紅玉の勾玉が揺れた。
その日の夜、昴と藍の元を訪れた者があった。緑北国の兵に連れられ、遥世と津都惟、剛山、藍の守りを務める隆生とともに現れたのは、なんと、紅南国の宮号妃の友佳であった。
母とも呼べる久しい人を前に、昴は久方ぶりに藍から視線を外した。それでも、藍の生を感じていたくて、握った手は離せなかったけれど。
久しぶりに会った友佳は、藍以外に関心を寄せることのできなかった昴に、強い衝撃をもたらした。三人の子を抱えながらも、この国を憂い、陰ながら昴を支え続けた強い瞳にはしかし、今は光がない。泣き腫らしたのか、真っ赤になった目頭と、やつれた様子が、昴の意識をそちらへと向かせた。
「友佳殿……」
友佳は昴と視線が合うなり、唇を震わせた。
そして、だれが止める間もなく、膝をつき、頭こうべを垂れ、額を床に押し付けた。
「申し訳ございませぬ!」
そんな友佳を見る隆生の目に憎しみがこもっているのを、昴はぼんやりと理解した。自らの主を殺した子の肉親ーーそれが隆生にとっての友佳だ。
「あなたに会いたいとーー、昴」
遥世が昴に言う。
「本来なら会わせるべきではないのだけれど……あなたは実質、紅南国の新しい王なの。白と緑で現状を維持するのには限界がある。藍の容態が分からない今、鬼神を倒し、禍の世から脱した要の一人であるあなたが、表に出てこないのは、問題だわ」
撫子の宮はーー、と遥世は続ける。
「藍を射った紅子の母でもあるけれど、城内でのあなたの味方でもあると聞いたわ。少しーー、話して見るのもいいんじゃないかと思って……」
言って遥世は立ち上がる。
「藍が大切なのは分かるわ。けれど、どこかで区切りをつけないとーー。碧玉の勾玉が失われた今、藍はーー」
遥世は唇を噛むと、津都惟と共に退出した。それに伴って、隆生も部屋から出る。彼は部屋の外で待機するらしい。従って、この部屋にいるのは、友佳、剛山、昴、そして未だ眠り続ける藍だけだ。
「友佳殿……どうか顔をあげてください」
昴は友佳の両肩を掴み、椅子に座らせた。藍以外の人に触れるのは、久しぶりだった。人は本来温かいということを、今更思い出した。
「和歌滝は、元気ですか?飛渡は?友理は……そろそろ言葉を覚え始める時期でしょうか?」
友佳の美しい顔に、涙が伝う。昴はその雫を目でぼんやりと追った。
「あの子が、克羅の姫を射た理由を聞いたときーー」
友佳は視線を伏せたままだ。
「納得しました。あの子は貴方を慕っていたから……貴方を守るためならやりかねません……もちろん、許されることではない」
「和歌滝に弓の扱いを教えたのは、俺です。毒の扱いもーー」
戦の最中、蘇芳の宮から飛び出してきた和歌滝とぶつかったことを思い出す。あのとき、和歌滝は昴の部屋から、毒を持ち出したのだ。だから、毒を隠し持っていた胸元から手を離さなかった。ーー己がそれに気付けていれば。
和歌滝の無邪気な笑顔を思い浮かべる。
「藍に鬼神ごと俺を貫かせたのも、俺です。その光景をみて、和歌滝は藍を射た。俺が悪い」
「そんな……いいえ!」
「和歌滝は俺を救おうとしただけだ」
「あの子は克羅の姫を射たのです……その咎を受けなくては……無論、母親として、私も罰を受ける所存です」
昴は笑った。思いの外優しい笑みを浮かべることができた。
「いいえ、友佳殿。あなたも、和歌滝も、咎を受ける必要はない。むしろーー、あなた方は被害者です」
その言葉に、友佳は面食らったようだった。言葉が止まり、昴をじっと見つめる。昴は淡々と説明した。
「藍が眠り続けているのは、藍の魂がここにないからです。永遠に囚われているーー。なぜそんなことになったのかーー俺を現世に戻したからだ」
口から言葉は出てくるのに、感情が伴わない。
「藍は、自らの魂と引き換えに、俺をこの世に甦らせた。俺のせいなんです。和歌滝が射たから、藍は眠り続けているんじゃない。俺のせいだーー」
藍の手を再び握る。冷たくて、生きているのが不思議だった。このまま、息もしなくなってしまったらーーそれが恐ろしくて、昴はここから離れることができない。
「人は不確かなものを信用しない。だから、俺が甦った事実を差し置いて、和歌滝が藍をこの状態に陥れたという事実で、納得している。……魂がここにないなどということを信じるのは、術師やその類いぐらいだ」
「紅子が、過度の毒で国長の意識を奪ったのは確かです」
剛山が淡々と言う。冷静に振る舞うこの男も、やはり藍を国長と崇める一人なのだ。昴の言葉は甘言に聞こえるだろう。
「それでも、この状態が和歌滝のせいだとは言えない。もし本当に和歌滝のせいなら、俺はここにいない。とっくに死んでいる」
言って、昴は再び藍に視線を戻し、頰を撫でた。柔らかく滑らかな肌に、もう何度触れただろうか。その度に、生きている人間にしては低すぎる温度を知って、昴の心は氷のように冷えていくのだ。目の前の愛おしい彼女を失うかもしれない恐怖で。
そんな昴をじっと見ていた友佳は、ややあって、泣きそうな笑みを浮かべた。
「あなたの頰に傷をつけたのは、この娘なのね」
昴は友佳を見た。我が子を見つめるような、そんな笑みだった。
「貴方がこの城で、己を殺し、世界を見つめ、紅の民のために独り戦っていたのは、この娘のためだったのね」
剛山が視線を逸らす。碧の将として、藍や祈真から何か聞いているのかもしれなかった。昴が藍を想っていることを聞いているのか、それともーー。
「……離れていても、生きてさえいてくれればいいと、思っていました。幸せでいてくれるなら、と」
けれど、と昴は呟く。
「心が叫ぶのです。藍がほしいと。己のものにしたいとーー。そこを鬼神につけ入れられました」
昴は苦笑する。
「……愛するという感情は、美しいものだと思っていました。けれど、こんなにも、醜く、残酷なものなのですね。幸せになってほしいと思っていたはずなのに……己が幸せにできずとも、誰かと共に幸せに生きてほしかった。そう思っていたはずなのに……」
目の前で眠り続ける少女が、愛おしくてたまらない。
「己に巣食う鬼神が藍の命を奪おうとしているのが分かって、ようやく理性的になれた。そうすると今度は、命を賭して、彼女の命を守ろうと、心が動くんです。己のものにしたいと思っていたはずなのに、藍と共に死に、同じ場所に行くということは、考えられなかった」
藍を望む心、藍を生かしたい心、藍に幸福になってほしい心ーーそのどれもが昴の本心なのだ。鬼神が滅したあのとき、昴を突き動かしたのは、藍を想う心、ただそれだけだった。あの時の己の行動にーー藍の手を借り、昴自身を剣で貫いた行動に、後悔はない。
藍は生きて、昴は死ぬ。それが分かっていて、それを望んでの行動だった。なのにーー。
「それなのに、藍は俺を現世に戻し、自らの魂を無の世界へと留めた。俺に新たな生命を与えたんです」
そして今、目覚めぬ藍を目の前にして、再び心が渇望するのだ。
「俺は生きている。藍も息をしている。ーー共に生きたいと、心がそう叫ぶ……」
静寂が、場を包んだ。
柔らかく、しかし切ない笑みを姫に向け、その頰に優しく触れる若子。その二人の姿が、友佳や剛山から見たら、息を飲むほど神聖に見えることなど、昴には分からなかった。
穏やかな沈黙が場を支配する。それはまるで時が止まったかのような錯覚を、その場にいる者らに、感じさせた。
昴の胸元で、紅い玉が揺れるーー。
「……昴」
ふと、気付いたかのように、友佳は声を上げる。
「藍様は……どうやって貴方の命を救ったの?」
昴は友佳を見た。
ーーどうやって、だって?
そんなの、と続けようとして、昴は止まった。
藍が昴を救い出したことを、昴は『知って』いる。それは、あの無の世界で、藍を『見た』からだ。
身体もない、感覚もないあの世界で、それでも昴は確かに『見た』。いや、『視た』のかもしれない。藍は昴に寄添い、泣いていたのだ。その温かさを昴は覚えている。泣くな、と伝えたかったのに、それは声にならなかった。そして、藍が昴に触れた瞬間、『何か』を介して、温かいものが昴の中に流れ込んできたーー。
「国長は、月の神子の再来だ。……そのような力をもっていても、不思議ではない」
友佳の問いには、剛山が答えた。
「月華の剣を用いることができたのも、国長だけだ。夜叉を感知できるのも、消すことができるのも、あの方だけ。……昴殿を虚無の世界に引きずり込んだのが鬼神なら、そこから救い出せるのも、国長だけなのだろう」
剛山の言葉に、友佳は頷く。しかし、納得した表情ではなかった。
「……藍姫が月の神子の再来なのは分かります。夜叉を滅ぼすことができたのは、それが所以でしょう。ですが、昴を甦らせたことと、それは同義ではないはずです」
友佳の瞳に光が宿る。学者の家系に生まれた彼女は、思考の幅が広く、深い。
「月の神子としての役割は『夜叉を滅ぼす』というその一つ。つまりは破壊です。昴を救う力はもっていない。破壊と救済は対極なはずよ……」
剛山は驚いたように友佳を見下ろしていた。友佳はそれに気づかず、思考を深めるのに没頭していく。
「月の神子の力ではない……つまり常時的力の行使とは無縁のはず。覚醒?いえ、状況をふまえればその確率は低いから……肉体、魂ともに消耗が激しい中となると、本人のものではない……ならば永続的な……かつ不可逆の力の行使……つまり変化が論の根幹になる……」
友佳は独り言のように、論理を組み立てていく。
「変化……鬼神の破壊、藍姫の昏睡、昴の再生ーー違うわ。これは結果。結果の原因が問題なのだから……」
「ーー勾玉」
昴は呟く。友佳も剛山も顔をあげた。
「あの場面で、不可逆だったのは、藍がもつ勾玉です。橘王ーー遥世さんに聞きました。あの碧の勾玉は、藍が握ってその色になったと。そして、割れることは善の神の血が途絶えたことを意味すると……」
友佳の考えが、昴の中に染み込んでいく。同時に、僅かにもたげる、希望の光。
「だが、勾玉が割れたのに、藍は生きているーーそればかりに思考が捉われて、考えてもみなかった……。別の視点でとらえれば、俺が目覚めたから、勾玉は割れたんだ」
胸元の勾玉を昴は握りしめる。紅く燃えるような色の意味を教えてくれたのは、やはり遥世だ。
「碧と紅の勾玉は、永続的なものだった。それこそ、月の神子と日の神子がもつ太古からのーー」
「藍姫は克羅一族最後の一人にして、月の神子の再来。そして昴、あなたも……」
友佳は泣きそうな顔で昴を見た。
この朱雀城に戻り、友佳に最初に会ったときに、昴は教えてもらった。嘉瀬村の血筋は真の柳瀬ではない、と。だが昴だけはーー、静紅の血を引く昴だけは、日の神子の血を引く柳瀬であると。
「昴殿は日の神子の再来です」
剛山はじっと昴を見据えた。
「今回の戦の間、国長は常に二つの勾玉を身に付けておられた。ご自身で染め上げた碧の勾玉、そして、本来なら紅玉といわれるはずの、無色透明の勾玉。この城で貴方が目覚めたそのとき、貴方の手の中で、紅玉は色を取り戻していた」
昴は頷いた。それは遥世からも聞いていたことだった。昴は藍と同じで、日の神子の最後の末裔にして、再来なのだと。藍を失いつつある今、それに何の意味があるのだ、と愕然としていたが、昴が日の神子の生まれ変わりであり、勾玉を己の色としたのであれば、もしかするとーー。
「……二つの仮説が立てられるわ」
友佳は言う。
「一つは、紅玉の色を昴が取り戻したから、貴方は甦ったというもの。でもこれでは、藍姫が昴を救ったことにはならない。昴がいう藍姫が救ったとの言葉には合わないわ」
もう一つは、と友佳は続ける。
「碧玉が割れたから、貴方が甦った。この場合、割れたことが意味をもつわけではない。結果として割れたということになる」
昴は頷く。
遥世が言うには、勾玉が割れることは、血が途絶えたことを意味するという。しかし、藍は生きている。すぐに命を落とすーーという暗示なのかと考え、だからこそ昴は藍の元を離れなかったが、そもそも、その前提が間違っているとしてーー。
勾玉が、月と日の血を示すためのものではなく、何らかの力をもっているものだとしたら?
「藍が勾玉の色を取り戻した。だから彼女には、永続的であった勾玉の力を行使することができ、その力で昴を救った。結果として、勾玉は失われたーー。もし、そう仮説できるとしたら……」
剛山が息を飲む。友佳が昴を見つめる。
昴の中の希望の光が、確信に変わる。
「俺にも、藍を救うことができるかもしれない。この紅の勾玉で」
ゆらりと、勾玉に映る光が揺らめく。
沈黙が場を制した。
動揺、不安、そして期待。どれもがこの場の真実だった。昴の中で、蒼く激しい炎がゆらりと燃え上がる。それは、冷徹なまでの、現状を壊すための思念であった。まるで身体に芯が入ったかのように、昴は思考を研ぎ澄ます。
あの時のようにーー、藍が昴を救ったあの虚無の世界で藍がやったように、昴も藍の元に向かわなくては、藍を助けられない。だからこそ、あの空間に昴は向かう必要がある。
ーーでも、どうやって?
あの空間は、現世でも常世でもない。ましてや、その境でもなければ、誰かが知る場所でもない。無であり、虚であり、有限で無限の世界そのものなのだ。そう、言うなれば美しい夢幻と表裏であるかのようなーー。
ーーどうしたら辿り着ける?藍と俺の共通点は何だ?
しばらく思考し、そしてそれに気付いて、昴は顔をあげた。
「友佳殿」
考え込んでいた昴の側で、友佳も剛山も何も言わずに待ってくれていた。そして昴が思考を巡らせたことがわかったのだろう。昴に視線を合わせると、友佳はかすかに微笑んだ。
そんな友佳に向かって、昴は頭を下げる。
「恩に着ます」
道は開けた。希望もある。漠然とだが、これならやれる、と心が言う。そのきっかけをくれたのは、友佳だ。
「藍を救います。どうかそれまで待っていてください。貴女も、俺の弟も、絶対に悪いようにさせません。何よりーー目覚めた藍が望まない」
己の知る藍は、そういう女だ。
「……昴のためだもの」
友佳の微笑みは、昴が昔から良く知る、彼女の優しさそのものだった。心労が表情から一瞬消える。
「私の大好きな静紅と、大好きな貴方のためだもの。ーー私の息子だもの」
ぶわりと、昴の心が波打った。藍を失ってから、動かなかった心が、だ。この女は、昴をいつも大事にしてくれる。昴の望みを叶えるために、寄り添ってくれる。それは紛れもなく母であった。
昴は友佳の肩を抱き込んだ。母である静紅が死んでから、己を守り続けてくれた強い女性なのにーーこんなに細かったなんて。
「ありがとう」
友佳の肩が震えていた。大丈夫だ、と伝えるため、その肩を優しく叩くと、そっと引き離す。
そして昴は、剛山に向かって言う。
「この事実を、大司空と橘王に連絡してもらえますか?藍を救う手立てが見つかったと」
「すぐにでも」
剛山は頭を下げる。昴は続けた。
「そして、この場にしばらく誰も入れないでほしい」
昴は藍を見つめる。寝台に横たわるその様は、彫刻のようだった。それに命を吹き込むのは、昴だ。他の誰にも出来ないし、譲りたくもない。
「……分かりました。昴殿を信じます」
剛山はもう一度頭を下げ、友佳を伴って部屋を出ていく。
足音が消えれば、城深いのこの場所は、外の世界と遮断される。音もなく、たった二人きりになったこの場所で、昴は首元から、紅玉の勾玉を外した。
寝台横の椅子に腰掛け、藍の額に手を当て、かかった髪をはらう。光に当たると青みを帯びる美しい髪は、いつの間にか随分と短くなっていた。けれど、その柔らかさは変わらない。
反対の手に握りしめた紅玉を、昴はもう一度見つめた。この石に力があり、力を行使できるのが昴だけなら、願うものなど一つしかない。
紅玉の勾玉ごと、昴は藍の手を握った。氷のように冷たい手に、少しでも自分の熱が伝われば良いと思う。
深く息を吐いた。
あの虚無の空間に向かう手段は、たった一つ。意識の混濁だ。夢を見るのと似ている。だが夢と違うのは、そこに何らかの力が働いていることだ。
藍の側で、昴も藍と同じ状態になれば、勾玉の力で藍の魂に出会えるはず。それが昴の考えだった。
無音の中、左手で藍の手を握り、右手で藍の額に手を当てて、昴は目を閉じた。
藍の命はここにある。だから、藍の魂もここに在るべきなのだ。なんとしても自分が連れ戻す。そしてーー共に生きる。
瞼の裏の暗闇を見つめ続けた。変わらぬ景色を眺め続けるうちに、闇が昴を覆う錯覚を覚える。時間はあまり経っていないようでもあったし、かなり長いことそうしているような気もした。
藍と二人だけのこの空間。音の無い場所ではあったが、しかしここまで無音だっただろうか、と昴は考える。風の音も衣ずれの音もしない。いくら城深くとはいえ、ここまで音がないのもーーと考えを巡らせたその瞬間。
じわり、と頭の奥が痺れたのを昴は感じた。同時に、左手が燃えるように熱くなってゆく。しかしそれは、どこか心地の良い熱でもあった。何かの力を漠然と感じた。
ーー藍に会えたら、なんと言おう?
伝えたいことがたくさんある。想いが大きすぎて、言葉にできるか分からないけれど、藍の笑顔が見れれば、きっとそれだけで自分は幸福を得ることができる。そんな気がした。
じわり、じわり、と痺れが広がってゆく。今いる空間が、歪み、藍と昴だけが世界から切り離されていくような錯覚。目が覚めているのに、夢に向かって進んでいるような、妙な感覚だった。
掌の熱がいよいよ増し、頭の中が、ぐわん、と大きく脈打った。それが一瞬にして全身を駆け抜けた、と思った瞬間、昴は一人、その空間に立っていたのだ。




