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天錦宝史伝 〜新戦記編〜  作者: 花歌
終章 〜夢幻 錦色〜
59/63

血と涙

 祈真は全力で廊を駆けていた。

 何かに導かれるかのように、藍が城内部に一人向かって行ってから、かなりの時間が経っている。ーー焦りを禁じ得なかった。


 藍が突如として単独行動に走り、すぐさま後を追おうとした祈真や隆生を遮ったのは、夜叉でしかなかった。なんとか藍の側近くから離れないよう、道を遮る夜叉を力の限り斬りまくったが、どこからともなく湧いてでてくるやつらに、焦りだけが増す。鬼神の差し金としか、思えなかったからだ。

 憤る祈真や隆生らだが、しかし、突如として、その夜叉の動きが止まった。唖然とした祈真の仲間を始め、侵入した碧と白の兵を排除するために来たはずが、夜叉の出現に混乱していた紅南国の兵さえも、動きを止めた。そして次の瞬間、すさまじい叫声が、その場をーーいや、世界を奏でた。まぎれもなく、夜叉の断末魔の悲鳴だった。

 時が止まったかのように動けぬ人の傍で、夜叉は灰となり、塵となり、消えていった。その様が、藍が月華の剣で夜叉を薙ぎ払ったときと同じ現象であることに、祈真はすぐに気が付いた。

 祈真の心臓がドクリと嫌な音をたてた。

 夜叉が消えたということは、鬼神が消えたということ。つまり、藍は鬼神を、碧の宝重ほうちょう、月華で貫いたのだ。いにしえからの縁を解き放ち、この世界から、悪が消えた。禍の世を脱するーーそれを心から望んでいたはずなのに。

 ーーこの胸騒ぎはなんだ……。

 思うと同時に、祈真は駆け出していた。

 藍が向かった、城の最深部に向かって。

 胸騒ぎが杞憂であることを祈りながらーー。




 城の内部に行き着き、人の気配がする空間に入った祈真は、思考が停止した。

 真っ赤だった。

 板の間に、信じられないほどの量の赤が広がっていた。その鮮やかさは、大輪の花を思わせる。しかし、鼻につくのは、鉄の臭気。ーーまぎれもなくその赤は血であった。

 そして、流れ出たであろう赤の真ん中に、折り重なるようにして倒れる二人の影。それが見知った影だと知ったとき、祈真の息が一瞬止まった。

「藍姫!?そんなーー」

 祈真と、藍と行動を共にしていた隆生が、絶望の声をあげた。その他の藍の護衛や、祈真の部下さも、あまりの惨状に息を飲む。広い御殿の中央で、寄り添うように倒れている二人は、まるで真っ赤な花の上で眠りについているようでもあった。

「長姫!」

「国長……!」

 隆生を含む、藍の護衛が藍の元に駆け出した。目の前の光景に衝撃を受ける様を見て、思う。

 彼らにとって、藍は最後の希望だった。碧の王都、克羅を取り戻し、絶望から這い上がりつつある碧の人々にとって、この光景は信じたくないはず。夜叉が消え、鬼神が屠られ、碧の国がこれから、再生を果たすというまさにそのときにーー。

 絶望と混乱が思考を占める中で、しかし祈真の本質は、どこまでも白西国の大司空であった。混乱に陥っている碧の兵を押しのけ、二人のーー藍と昴の容態を確認するため、その場にしゃがみ込んだ。その移動の際、部屋にもう一つ、幼い子どもの気配を感じ、目視したが、そんなものに構っている暇はなかった。

 一見、どちらの方重症なのか、祈真には分からなかった。まず最初に目を引いたのは、昴の腹から心の臓あたりに広がる、おびただしい血糊の量で、服のほとんどが血に染まってるだけでなく、その血が床にも広がっていた。これだけの血を流しているのであれば、確実に助かる見込みはないーーのだが、昴の顔色は、死人のそれではなかった。実際、胸元を見れば、呼吸があるのが確認できる。ーー彼は生きている。

 それを一瞬で見抜いた祈真は、昴の容態確認を部下に任せ、藍に寄り添った。ーーこちらの方が、命に関わる状態だと、判断したからだった。

 藍の身体はぼろぼろだった。

 手脚に太刀で斬られた痕があり、いたるところに、血が付着している。腹から胸のあたりが最もすさまじい赤だったが、なぜかその場所に大きな斬り傷は見られない。出血は主に左腕と右脚。特に右脚は重症だ。出来るだけ早く傷跡を縫合しなくては、後に影響が出かねない。

 それだけでなく、首元にも太刀傷があった。深くはないが、異様な傷だった。こんな傷が残るほど追い詰められていながら、なぜ首が繋がっているーー?

 そして藍の背には、矢が一本突き刺さっていた。場所的にも、深さ的にも、おそらく大したものではないーー。

 しかし、そう判断した祈真は、自分の考えをすぐに覆すことになった。

 藍の呼吸を確かめようと、藍の顔に注目して、まず気づいたのは、唇の色だ。藍の薄い桜色の唇は、紫色に変色していた。まさかと思い、脈を取り、呼吸を確認するため、口元に耳を近づける。ーーどちらも、今にも消えんばかりの弱々しいものだった。

「くそっ!」

 祈真は藍の体を抱えると、矢が刺さる背中の布を引き裂く。周りが息を飲んだが、知ったことではない。

「大司空……何をーー」

「莫迦野郎!毒だ!誰が解毒剤と水をありったけもってこい!」

 一瞬場が硬直した後、すぐに動き出した。凄まじい足音をたててこの場を飛び出す者もいれば、祈真が今からやろうとすることを心得て、藍の身体を押さえつける者もあった。

 引き裂いた布の下で、矢は藍の身体に突き刺さっていた。その皮膚と矢に不自然にまとわりついている黄土色の粘着質なそれ。数十種類ある毒の中から、その特徴を鑑み、頭の中で使われた毒の可能性を数種類までに絞る。

 ーー矢じりは細い……皮膚を断つ必要はない……。

 瞬時にそれを判断し、祈真は藍の身体を押さえつけている部下に言う。

「抜くぞ」

 祈真の部下が頷いた。

 渾身の力を込めて、祈真は矢を抜いた。

 肉を裂く嫌な感触が、矢伝いにあったが、無事、矢じりが残ることなく綺麗に抜けた。藍もほとんど反応しなかった。しかしそれは祈真をさらに焦らせただけだった。

 矢を抜けば、人間の身体には凄まじい痛みが生じる。例え意識を失っていようとも、身体は反応するもので、部下が藍の身体を押さえつけたのもそのためだ。しかし、藍に反応は見られなかった。これは、感覚機能が失われているか、あるいは身体が感覚に対応できないーーつまり、それだけ弱り始めている証拠だ。

「おいおいおい……ふざけんなよ」

 手遅れ、という言葉が祈真の脳裏を過ぎる。が、その思考を振り払って、祈真は確認のため藍の背中に付着した毒を口に含み、そしてすぐに吐き出した。

 何度も戦場を駆け回ってきた祈真にとって、それは馴染みの毒だった。使いもしたし使われもした。致死性の高い、血液に混じることで効力を発揮するもの。

 解毒薬がないわけではない。現に祈真の部下も常時携帯しており、つい今しがた持ってきたところだ。だが、祈真は焦りを禁じ得なかった。

 迷うことなく、今度は藍の背中に唇を当て、毒を吸い上げ、吐き出す。それを数度繰り返した。

 ――時間が経ちすぎている。

 それだけではない。多量の出血による体力の消耗と、圧倒的な致死量を越えた毒とが、絶望をも感じさせた。

 僅かな呼吸が妙に非現実的で、それでも祈真は大司空であることを忘れなかった。水で口をゆすぎながら、状況判断のためにゆるりと立ち上がる。ほとんど無意識だった。

 藍の手当てを隆生と己の部下に任せ、昴のもとへと向かう。

「生きてますよ」

 祈真が何も言わずとも、昴の手当てを行っていた部下が開口する。

「しかし妙です。この場に流れている血の量から考えて、碧の国長のものだけと考えると多すぎます。自然、近くにいたこの者の傷を疑うことになりますが、傷ひとつない」

 祈真が眉を潜めたのを見て、部下は頷く。

「衣に空いた穴は急所を貫いてます。背中にも同様の跡があるうえ、血痕が集中している……正面から貫かれたようにもとれるのですがですが――」

「肝心の傷がない……か」

「大司空」

 別の部下が祈真を呼ぶ。

「嘉瀬村と思われる遺体が離れた場所に」

 指差す先を見れば確かに人が倒れており、それを見て祈真の胸はドクリと鳴った。嫌な鼓動だった。

 ――藍はやったのか。

 夜叉が掻き消えたのはやはりそれが原因なのだ。

 ならば、藍はどうして毒矢で射られている?なぜ昴に寄り添うにして倒れている?明らかに傷を負った形跡があるのに、血にまみれているだけで、昴自身に傷一つない理由は?

 バタバタと足音が響き、入り口から数名が駆け込んできた。

「藍!」

 遥世、津都惟をはじめとする緑の兵や幹部がだった。迷うことなく藍のもとへと駆け寄る遥世を、祈真はぼんやりと見つめていた。

 手当てを終え、いたる所に包帯を巻かれた痛々しい姿の藍を見て、息を飲んだ遥世。普段気丈な分、その震える姿が祈真に奇妙な感覚をもたらした。

 堪えていた、決して表に出ることのなかった感情。大司空という立場だけでなく、性格上持つことの少なかったそれは、浸食するかのように祈真の頭から足の指先まで、じわじわと広がって行く。

 同時に、この場にあったもうひとつの存在を思い出す。小さくて、けれどこの場に入ることが可能な地位を持つ幼子。

「祈真……」

 祈真に背を向けたまま、遥世は震えながら、問う。

「藍の容態はどうなの?」

「……血を流しすぎてるうえ、過度の毒が……」

「っ!」

 何を思ったか、遥世は突然藍の襟をはだけさせた。

「おい、何を――」

「勾玉は!?」

 鬼気迫る表情で遥世は振り向き、祈真を睨み付けた。

「あれが存在してたら藍は大丈夫なのよ!割れてなくならない限り、克羅は……藍は……」

 言われて祈真は思い出した。

 紺碧が甦ったあの勾玉。それは藍が月の神子の生まれ変わりであることの証だった。そしてその勾玉が色を失った時、時の碧の王は克羅ではないことを示し、割れることは克羅の滅亡を意味するのだ。

 息はある。だがこのままでは藍はあやうい。もしこの先の状況が悪いものだとしたら、勾玉にも変化が見られるのかもしれない。

 そんなことを妙に冷静に理解した。

「橘王……」

 会話を聞くのはもはやこの場にいるほとんど全員だったが、 その異様な雰囲気を静かに打ち破るものがいた。

 震える声で呟くように言ったのは隆生だった。藍の握りしめていた手に視線を向ける。

 一瞬沈黙が降りた。真っ赤に染まった藍が纏う衣が目に鮮やかだと、祈真は思った。

 遥世が息を止めてその手のひらを開く。勾玉についての事情を知らないはずなのに、その場の誰もが固唾を飲んで見つめていた。そして――。

「!」

「……色が――」

 祈真が目を見開いたのと遥世が愕然と呟いたのはほとんど同時だった。

 転がり出てきた石に今や色はない。一度見たことがあるだけに、その水よりも美しく透ける様が、祈真には信じられなかった。碧の宝を称する、藍の勾玉。それの色が失われつつあるということは、藍の命もーー。

 祈真を支配していた奇妙な感覚が、爆発した。その瞬間、それが抑えきることの出来ない激情の怒りであったことに気づく。気がつけば、祈真は始めからこの場所にあった小さな存在の襟元を掴み上げていた。

「てめぇっ!」

 ボロボロと泣き続ける様は祈真がここに来たときとなんら変わっていない。それが更に怒りを煽った。

「最初からここにいただろ!言え。何があった!?なんで藍は――」

 そこまで言って祈真はこの場所に入ったときのことを思い出す。少年の傍らにあったではないか。不釣り合いなほどに大きな弓が。

「てめぇが……射たのか」

 泣きじゃくる声が酷くなった。誰もが衝撃で口を開けず、沈黙が続く中で響く嗚咽は、奇妙ですらあった。

「てめえが藍を射たんだろ!?ふざけんな!なんで射た!?なんで毒を塗ったんだ!あんなふざけた量を使えば、どうなるかぐらい分かるだ――」

「だって!」

 遮ったのは少年だった。泣きながら、それでも祈真を見上げながら言う。

「だってこの人が……っく。この人が兄上を刺して……兄上が死んじゃっ、死んじゃったんだ……だから、僕……」

 年の頃とその口調から、祈真は少年がおそらくは紅子であることを読み取ったが、それよりも自分が反応したのは、別の事柄だった。

「藍が昴を刺した?ふざけんじゃねーよ!昴には傷ひとつねぇんだぞ!」

「えっ……」

 ざわり、と場の視線が一斉に昴へと移る。考えてみれば、倒れている人物が紅蘇昴だと知るものは祈真と、目の前の少年――おそらくは紅子和歌滝のみであっただろう。

「兄上、怪我してないのですか……?」

 そして、騒然とした空気を再び沈黙に変えたのもまた、和歌滝だった。

「でも、でも、僕は見たんだ!この女の人が兄上を刺してた!兄上が血をいっぱい流してて、それで――」

 ふと、黙り込んだ子供の襟元から、祈真は突き飛ばすようにして手を離した。

 怒りの中に僅かにあるのは混乱だった。紅子の言うように昴も傷を負ったのなら、あの血の量は納得できる。藍だけのものと考えても多すぎるのだ。

 もはや何が真実なのか、状況だけで判断するのは不可能だった。気味の悪い沈黙が辺りを支配した。

 その沈黙を破ったのは、小さな呻き声だった。はっとして祈真が視線を向ければ、ゆっくりとした動作で起き上がる姿が目に映った。ぼんやりとした様子で辺りを見回している。そしてある一点に彼の視点は留まった。

「藍……?」

 誰も身動き一つしなかった。否、出来なかった。そっと頬に手を添え、そのまま抱き締める青年も、力なくされるがまま胸に抱かれる少女も、血飛沫を纏い真っ赤に染まっているのに、なのに美しかった。

「藍」

 震える声が、切ない。

「どうして……」

 瞬間、鈍い小さな音が響く。

 横たわる少女の手のひらに握られていた勾玉は、そして音をたてて割れたのだ。


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